紙の本
筆者の「本物の教育」を実現しようとする姿勢に心打たれる!
2016/07/24 08:43
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、筆者が山形県山元村の中学校で「本物の教育」を実現しようと果敢に挑んだ教育実践を詩集という形にまとめた図書です。1940年~50年代の船中から戦後の間もない我が国のある田舎の学校で繰り広げられた個人的な教育実践ではありますが、今なお、私の心に強く訴える、響くものがあります。我が国の初期の頃の質の高い教育実践の一例として、ぜひとも、教育関係者には読んでいただきたい作品です。
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投稿者:七無齋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本から教育の在り方について語るのは難しい。ただちょっと前の東北の寒村の生活がひしひしと伝わってくる。貧しさとは何なのか、方言で伝えてくれているところが温かみと臨場感が増してくる。
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友人の川合さんのお父さんが出ている。
まだこの先生もご存命だとのこと。
無着先生からは、現代はどう見えているんだろう。
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生活科の講義をとっている時に読みました。無着先生とその子どもの姿を覗いて、社会科教育はもちろんのこと、教育について考えました。
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10.4.25~
10.4.24 中学生の時から興味があった本
昨日の教職の授業で紹介されたから読んでみたいと思う。
綴り方というと、灰谷健次郎さんや「きりん」を思い出す
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昭和20年代の中学2年生が書いた作品集。
貧しい農村での暮らしがありありと写される。
漢字が少なく、ひらがなが多い作文もあり、当時の中学生というのはこういう作文を書いていたのか、と考えさせられる。
すごいのはその観察力と感性だ。
詩も感じるものがあるが、作文の登場人物のセリフがひとつひとつ細かい。
視点がすごい。よく見ている。
一つの作文が、一つの立派な作品となっている。
すごいことだ。
作文指導をしている方なら一度読んでみてもいいのでは?
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これは読まなきゃ読まなきゃと思いここまで来てしまいました。
いやはや、このような文章を書くのにどれほど教員の労力が必要かを考えると、すごいなぁと言わざるを得ないというか。
「お母さんは、本気で笑ったことがなかったのではないかと思うのです。」
胸に刺さる言葉です。
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読んだのは角川版。
1950年代初頭の東北山村では、まだこんな暮らしが営まれていたのか…! 中原淳一のひまわりが発刊されてるのと同時期とは思えない。まだ江戸時代か何かみたい…
方言が生々しかった。
「あらゆる少年雑誌を見よ!/あらゆる少年新聞を見よ!/あらゆる本を見よ!/それがどうであるというのだ!/そこにはまったく一日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等等、遊びと勉強の計画があるだけで、私たちのような子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか!」
勉強と生活の向上が、ここまで緊密につながると考えている彼らがまぶしく見える。
「勉強とは、ハテ?と考えることであって、おぼえることではない。そして、正しいことは正しいといい、ごまかしをごまかしであるという目と、耳と、いや身体全体をつくることである、そして、実行出来る、つよいたましいを作ることである」
宮沢賢治の「あすこの田はねえ」を思い出した。
「これからの本当の勉強はねえ/テニスをしながら商売の先生から/義理で教わることでないんだ/きみのようにさ/吹雪やわずかの仕事のひまで/泣きながら/からだに刻んで行く勉強が/まもなくぐんぐん強い芽を噴いて/どこまでのびるかわからない/それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」
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戦後間もない山形の貧村の学校から生まれた大ベストセラー『山びこ学校』。作文指導と生活指導を一体化させた「生活綴方」の金字塔とも呼ばれる作品集を、今回、教師・無着成恭と教え子たちのその後とともに追いかけた佐野眞一の『遠い「山びこ」』とともに再読してみた。
冒頭の「雪」、文部大臣賞をとった「母の死とその後」、貧窮生活を見つめた「父は何を心配して死んでいったか」など、印象に残る作品はいくつもある。全体として暗く貧しい、陰鬱なトーンの作品が多いが、その現実をしっかりと見つめ、立ち向かおうとする視線に、おそらく当時の多くの読者が共感したのだろう。これらの作品群を読んだ後で、無着のクラスの生徒が卒業式の日に読んだ「答辞」の次の文面にたどりつくと、今でも何か胸を打たれる思いがする。
「ああ、いよいよ卒業です。ここまでわかって卒業です。本日からは、これも先生がしょっ中いっている言葉どおり、「自分の脳味噌」を信じ、「自分の脳味噌」で判断しなければならなくなります。さびしいことです。先生たちと別れることはさびしいことです。しかし私たちはやります。今まで教えられて来た一つの方向に向ってなんとかかんとかやっていきます。」
初読の時には素朴な、「ありのまま」の生活を描いたと読める『山びこ学校』の作品群も、佐野の本とともに読み返してみると、無着の強力な指導があって作られたのだということが実感される。「ありのまま」を見つめるとはどういうことか。それがいかに大変か。無着の細やかで強力な指導がなければ、これらの作品群は生まれなかっただろう。むしろ、年齢に比して大人びすぎている彼ら中学生の視線の背後に、無着自身の視線を感じ取ることが自然に思われるほどだ。そのくらい、(是非はともかく)よく指導の行きとどいた文集である。
作文指導=生活指導としてしまうことの弊害も含め、無着の実践に不足や欠陥があったのは間違いないところだろう。「これは道徳教育だ」と言われたら、そうなのだろう。「数学は中学一年程度しか教わらなかった」「村の恥さらし」……どれも一面で妥当な批判だろう。しかし、再読してみると、僕には言語技術の指導も含め、無着の強力な指導力が印象に残った。単に戦後の貧しい農村を舞台にしたからとか、そういう舞台背景だけれは語れない、確かな質を持った文集である。
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山びこ学校の子供たちは貧困の中でたくましく生きる。
現在の日本に忘れらられた生きるという実感を蘇生する。
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これはすごい文集だ。無着先生は、この文集を発表した後に、村の恥を世間様に知らせたために追放されたらしい。本当なの?
映画化もされているみたい。方言まで再現されているのかな?そこまでは無理か。
文章を書く行為の中には、生活について考え、行動を変える可能性がある。
この子達は、利益の分配の仕方に問題があるから、農民の生活が苦しいんだと見抜いていた。1951年の中学生が。
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以前から気になっていた本です。
戦後の教育に大きな影響を与えた著作だと評されていますし、当時の生活を知る民俗学的観点からも貴重な資料とも位置づけられているようです。
読み通してみて驚きました。山形の裕福とは縁遠い山村の中学校。日々暮らしに苦労が絶えないような生活環境の中、ここまで自分たちの考えを見事に自信をもって表現できる生徒たちは本当に素晴らしいです。
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『君たちはどう生きるか』と同じく中・高生の間に読みたかったし読ませたい本です。戦後の貧しい農村での暮らしを子どもの目線で作文や詩で掲載されている。学校の教育費が払えないだけでなく、一日を生きるために学校を休んで働く生徒たちに無着先生は「いつも力を合わせて行こう」「かげでこそこそしないで行こう」「働くことが一番すきになろう」「なんでも何故?と考えろ」「いつでも、もっといい方法はないか探せ」とこころの教育を指導していく。両親が亡くなって将来に不安を抱えながらも、たくましい作文が書けるのがその成果なのですね。
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教育の目的は想いを言葉として発信させること、その想いを液体から固体にするようなものなのだと感じた、想いが言葉として発信される時、その想いは気体となって人間を包むのだ
想い→液体→固体→気体→言葉
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社会教育、戦後教育の原点ともいえる。
自ら考える。
理想と現実を理解し、どうすれば「理想」で、なにが「理想」なのか?
考えるそして変える
最も大事なことだろう
生活を綴り、気付く。そして新たな道を考えさせる
「教科書に頼るのではなく、教科書で学ぶのだ。」
教育に関する素晴らしい本だ