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商品説明
道徳は今、われわれの眼であり光である。だからそれを見ることはできない…。ニーチェが「道徳上の奴隷一揆」と呼ぶ「ルサンチマン」とは何か? 話題の哲学者が初めてニーチェの真価に迫る哲学入門。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
永井 均
- 略歴
- 〈永井均〉1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院博士課程単位取得退学。現在、現在、信州大学教授。著書に「〈子ども〉のための哲学」「〈魂〉に対する態度」他。
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書店員レビュー
ニーチェのルサンチマ...
MARUZEN&ジュンク堂書店札幌店さん
ニーチェのルサンチマンの概念を、過不足なく分かりやすく噛み砕いた良書。
たとえば、愛が尊ばれず正義が顧みられない世界 というものについて考えた場合、
あり得べからざるもの、こっぴどいものとしてしか、私たちはそれを想像することが出来ない。
だが、そのように私たちがこの世の大前提とする道徳の価値は、果たして普遍であるか? 否。
もともと大いなるルサンチマン(=弱者の反感・怨恨・鬱憤)から価値を生じ、生き延びる手段として
波及したキリスト教道徳は、形骸化した目的として今日的世界にぶら下がっている。
「神は死んだ」とはあまりにも有名なニーチェの言であるが、その神を自分が今なお盲目的に信奉
していると気づかされ愕然とする。
人文担当 武良
紙の本
永井均の思考実験はおもしろい
2001/02/15 23:28
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
永井均氏は本書で、ニーチェの永遠回帰概念の不整合性を示すために、次のような思考実験を展開している。
まず、同じものが永遠に回帰すると考えるかわりに、時間を空間化して考えてみる。つまり、「この世界と同じ世界が空間的に無限に存在する」と考えてみる。そうすると、この世界には無数の「私」が存在することになる。
もし、ある一つの「私」(これを〈私〉と呼ぶ)を除いて他の「私」が〈私〉の全性質を同じくするにすぎないのだとしたら、それらは〈私〉ではないのだから、「同じ」世界が無限に存在していることにはならない。
もし、すべての「私」が〈私〉だとしたら、「今度は、空間的には異なる場所だが性質的にはまったく同じ複数個の世界、ということの実質が失われてしまいます」。つまり、複数の〈私〉はただ一つの〈私〉(この〈私〉)に収斂して、実質的には一つの世界しか存在しえないことになる。
つぎに、時間化して「同じことが永遠に回帰する」と考えてみる。つまり、「この世界と同じ世界が時間的に無数に存在する」と考える。そうすると、「何から何までこの今とそっくりの世界状態がかつて無限に存在」したことになるし、これからも無限に存在しうるということになる。
もし、「それらの時点が今と同じということが、単に世界の全状態がこの今と同じである状態ということにすぎないなら、それらはこの今ではありませんから、この今にいるこの僕には何の関係もありません」。というのも、〈私〉を〈私〉たらしめるのはいかなる物質的・心理的性質でもありえないから。そうすると、やはりこの今だけが特別の今であることになって、同じ世界が時間的に無数に存在することにはならない。
もし、すべての世界にこの今があるのだとしたら、つまり時間的に無数に存在するすべての世界に〈私〉がいるのだとしたら、「今度は、性質的にはまったく同じ状態の時間的な回帰ということの実質が失われます」。つまり、複数の今はただ一つの今(この今)に収斂して、実質的には一つの世界しか存在しえないことになる。
永井氏は以上の思考実験を経て、ニーチェの永遠回帰の概念は、「この時間の中で何かが繰り返すってことではなくて、この時間そのものが回帰するメタ時間みたいなものを考えるってことに、どうしてもならざるをえないんじゃないか」と述べている。
《そうすると、これはもう時間空間の中での話ではありませんから、同じものが回帰するってときの「同じ」の意味に関しても、性質的な同一性と個数的な同一性が、もう区別できないことになります。》
ここに出てきた「メタ時間」とは、いったいどこに存在しているのだろう。「時間空間の中での話ではない」としたら、それはどこで語られるものなのだろう。そもそも「最も重要な意味において隣人をもたない」ものである〈私〉のあり方が語られるとき、おのずと示される〈私〉の隣人たちの世界は、どのような「時空構造」をもっているのか。そして、デカルトのいう神が見ているのはどのような「世界」なのか。「私」をめぐるすべての「問題」はここに帰着する。