紙の本
明るい部屋 写真についての覚書
2016/02/03 11:39
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投稿者:coffee flower - この投稿者のレビュー一覧を見る
写真に特別興味もなく、名前だけ知っていて一冊もバルトを読んだことのなかった私が,なぜ「明るい部屋」を読もうとしたのかは、大川美子の「ロラン・バルト」によるところが大きい。図書館で何気なく手にした新書は、秀逸な小説を読んでいるかのような充実感があった。その中でも再三引用されていた「明るい部屋」をまず読みたかったのが動機である。
「写真についての覚書」という副題のように、この本は写真とは何なのかその精髄をつきとめたいというバルトの思いが、言葉としてぎっしり詰まっている。写真も分からず、高度な考察や哲学的な思考には慣れていない私には、正直なところ内容を十分理解し,楽しめたとは思えない。さらにわかりたいと丁寧に二度読んだ。二度読んで理解が深まらなかったばかりか,一瞬この本は何だったのだろうと頭の中が混乱してしまった。しかし、結局のところ写真について考えたこともなく知らなかったこと、新しいことをたくさん教えてもらえて面白かったのだ。
まず私を驚かせたのは、「《写真》が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである」という言葉である。新聞をみても、雑誌を開いても、部屋を見回しても、写真は困るほどある。困るほどだから、ほとんどを無視して、それについて何も考えることをせずに済ませている。そういうものが、私たちの身の回りにある《写真》というものの実相ではないだろうか。しかしバルトが述べたことを心に留めると、《写真》が異常なものとして迫ってくる。
あるいは、写真に撮られたすべてのものについて、「それは、かつて、あった」ということなのだと教えられたとき,やはり驚かずにはいられなかった。なんという真実だろう。そこから私の思いが導かれるのは、写真の数だけの喪失があり、それはなんと人の命、ものの命に似ているだろうか。さらに心が震えるのは、その写真が消滅しない限り、停止してしまった「命」が空無に晒しつづけられるという事実である。
このように「写真」というものについての考察が第一部でつぎつぎになされ、「?」「??」と何を言われてるのか不明の箇所もありながらも、「そうだ!そのとおりだ!」と共鳴し、それまで言語化できなかった自分の思いや考えを明らかにしてくれる有り難い書である。
さて、第二部になると、考察はさらに哲学的になり、亡き母上の少女の姿を写した「温室の写真」に関するいくつかの章では。読む者を哲学を超えた詩的な世界へいざなってくれる。誰かがどこかで書いていたが、バルトは「温室の写真」についてまず書きたかった、それを「写真についての覚書」という書物に拡大していったのではないか、という意見になるほどと思う。
「写真」がそれを見る者によって異なった顕われかたをするように、「明るい部屋」も読む人によって深かったり浅かったり、広かったり狭かったり、尺度が異なるだろうが、何かに惹かれてその「明るい部屋」の扉をひらく人には、その「部屋」はそれに見あうものを見せてくれるはずである。
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大学入学当時ある先生が「ここに入ったからには在学中に読みなさい」と言っていた三冊のうちの一冊。読みやすいようでいて難解。難解なようでいて読みやすい。哲学書のような写真論ような。ロランバルト好きです。
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バルトは個別的なことと普遍性の間のギャップという問題意識を長く持ち続けたような気がする。この写真論もその問題意識上にあるだろう。個別性をダイアン・アーバス的に普遍性へとつなげようとする姿は、たぶん失敗しているにせよ感動的。
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バルトの私的な記憶にまつわる写真論です。奥底に流れるバルトの人間らしさに触れると、なんともいえず感動することでしょう… この本の後で『失われし時を求めて』を読むと、また違った視点からプルーストを味わえると思います。
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写真論。論文としても読めるし、私小説としても読めてしまうって驚き。かなりメランコリーに傾いてはいるけれど・・・でも写真史にとっては重要な一冊。文章に、行間に、余白に、母への愛がそっと息をしている
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プンクトゥム(一般的関心事)/ストゥディウム(突き刺してくるもの)。
「かつてそこにあった」という写真のノエマ。
去っていってしまった人たちへの郷愁。
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写真にまつわる随想。
「それは=かつて=あった」物の写実としての写真を論じるバルトは、ここでは批評の姿勢をとらない。彼は一人の抒情の人として危うく懐古へと傾こうとする。そこにはこの昔の思想家のたどった小さな人生がある。
「写真を見るときには、あのときに被写体から放射された光線と、そのときに発射される私の視線とが出会う」と語るのは、やはりバルトである。
バルトの好ましくやさしい人柄が表れている。
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ところどころ理解が及ばないところもあったけど、「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の説明とかわかりやすかったし、話の大筋は理解できたと思う。
まとめもわからない部分があったけど、「現実がイメージに支配される」っていう記述がめちゃくちゃかっこよかった。
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【目次】
Ⅰ
1. 「写真」の特殊性
2. 分類しがたい「写真」
3. 出発点としての感動
4. 「撮影者」、「現像」、「客観」
5. 撮影される人
6. 「客観」──その無秩序な好み
7. 冒険としての「写真」
8. 鷹揚な現象学
9. 二重性
10. 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11. 「ストゥディウム」
12. 知らせること
13. 描くこと
14. 不意にとらえること
15. 意味すること
16. 欲望をかきたてること
17. 単一な「写真」
18. 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共用
19. 「プンクトゥム」──部分的特徴
20. 無意識邸特徴
21. *悟 り*
22. 事後と沈黙
23. 見えない場
24. 前言取り消し
Ⅱ
25. 《ある晩・・・・・・》
26. 分け隔てるもの、「歴史」
27. 再認・認識すること
28. 「温室の写真」
29. 少女
30. アリアドネ
31. 「家族」、「母」
32. 《*それはかつてあった*》
33. ポーズ
34. 光線、色彩
35. 「驚き」
36. 確実性の証明
37. 停滞
38. 平板な死
39. プンクトゥムとしての「時間」
40. 「私的なもの」/「公的なもの」
41. 子細にけんとうする
42. 似ているということ
43. 家系
44. 明るい部屋
45. 《雰囲気》
46. 「まなざし」
47. 「狂気」、「憐れみ」
48. 飼い馴らされた「写真」
訳者あとがき
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"美術としての写真"に僅かに残る違和感を、丁寧に摘み取り、言葉にしてくれたように感じ、少し肩が楽になった。
考えて写真を撮ったり、悩みを持って写真と向き合っている方に勧める。
また、カバーを取り去った本の装丁がとても綺麗で、本の厚み、レイアウトも素晴らしい。本棚に飾りたくなる本であり、旅行などに持っていき、常にそばに置いておきたくなる本である。
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写真とは何か。写真一般ではなく、バルトにとって重要な個別具体的な写真を手がかりに本質に迫ろうとする、私小説にも似た論考。最後まで読んでも答えははっきり出ず、もどかしい印象が残ります。
でも、このもどかしさが何か重要な示唆を含んでいる気がしてなりません。
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ロラン・バルトによる写真論。
写真論にとどまらず私小説的な内容であったり、哲学的であったり、と不思議な本でした。写真に対する考え方が深くなること間違いなしの本ですね。
写真から感じる様々な感情を美しい言葉で解説してくれていて、なかなか他に似たような本はないんじゃないかと思いました。
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改めて読みなおした。
とても面白かった。写真の存在論。
ふと思ったのは、バルトが写真を定義付けする際に用いるあのあまりにも有名な「かつて-そこに-あった」は、黒沢清監督が語る映画のそれと極めて似ているということ(ドキュメンタリー『曖昧な未来』)。バルト自身は、本書において度々映画に付いても言及していて、写真と映画の差異を繰り返すのだが、どうもバルトの写真と黒沢の映画の存在論的な認識は似ている。もう少し詳細にトレースできるようにとりあえずここにメモ。
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【7. 冒険としての「写真」】p29
Cf. サルトル『想像力の問題』
【44. 明るい部屋】p130~
「写真」は、深く掘り下げたり、突き抜けたりすることができないということ。凪いだ海の表面と同じように、私は目で走査することしかできないのだ。「写真」は、語のあらゆる意味において平面的[平板、平明、平凡、単調]である。このことは認めなければならない。
「写真」はその技術的起源ゆえに、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)という考えと結びつけられるが、それは完全に誤りである。むしろ、カメラ・ルシダ(明るい部屋)を引き合いにだすべきであろう(カメラ・ルシダというのは「写真」以前にあった写生器の名前で、これは一方の目をモデルに向け、他方を画用紙に向けたまま、プリズムを通して対象を描くことのできる装置であった)。
《映像の本質は、内奥をもたず、完全に外部にある、という点にある。にもかかわらず、映像は、心の奥の考えよりもなおいっそう近づきがたく、神秘的である。意味作用はもたないが、しかし可能なあらゆる意味の深みを呼び寄せる。明示されてはいないが、しかし明白であり、セイレンたちの魅力と幻惑を生むあの現前=不在の性格をもつ》
【48. 飼い馴らされた「写真」】p145~
狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別あるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。
つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真の"エクスタシー"と呼ぶことにしたい。
以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。
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さくさく読めるのにわからない。
興味深かったのは見る側からの評論だということ。
「それはかつてあった」ことを確かに示しているが、未来は伝えない。「かつてあった」ことが今自分にむけて訴えかけているというズレ。
だめだ、よくわからない。