紙の本
この破壊力
2015/04/04 15:31
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投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
「マダム・エドワルダ」ある自暴自棄気味の男が出会ったのは、淫蕩を極めたような娼婦。まるであらゆる既成の価値観を破壊するような、出会ってしまえばこの世のすべての常識を根源から根源から覆されるようなエロチズムを備えた女。そんな造型、この小説の存在が、読者の精神を破壊しようとするものとしか思えない。たぶん破壊される者は幸せなのだ。
「死者」恋人の死に自暴自棄になった男が、これもやみくもに破壊的なエロスを求める行動に走る。そうか、死はエロスと隣り合わせのものなのか、と思ってしまうが、それが本当なのかなにかのトリックなのかはよく分からない。そんな冷静な判断力も吹き飛ぶような、躍動感のある描写の連続に唸る。
「眼球譚」不相応な自由を手に入れた少女と少年が、暴走するとしたら。彼らは出会い、お互いの存在を確かめ、そこに性と死があることを知る。それらは必ず肉体に付いて廻るものであり、精神を支配するものでもある。エロスと暴力を極限まで追及していくと、倫理も常識も大きく逸脱したところに達してしまう。その加速度の素晴らしさに、何の疑問も感じずに引きずり込まれて、あまりに遠いところに連れて行かれてしまったことに気づいた時には遅い。様々な人を巻き込んだ挙句の逃亡劇に至って、ようやくその危険さに思い至るが、たぶん我々も引き返せないところまで来ているのだ。
眼球すなわち球形のものに激しい欲望を感じるのは、その姿形に人を狂気に誘い込む魅力があるという考えなのか、対象がなんであれ媒介の作用によってどこまでも残虐になれるということなのか、こういう題名であるからには後者なのだろうと思う。
実は作中の彼らに狂気の影は無い。理性的で、世知に長けた人間へと成長していく。だがそれにイマジネーションを刺激された読者は徐々に精神を蝕まれていくに違いない。それほど彼らの情熱は途方も無く、この地上から遠いところへ運ばれてしまう。
それは人間の心理に基づいて展開されるストーリーのようで、肉体の生理に支配される精神の物語であって、人間が必ず死とエロスの激しい影響から逃れられないという事実を突き付ける、文学と言うよりも爆弾ような存在に思える。
末尾のバタイユ講演会における討論が面白い。識者達のエロス論に対する一般女性の異議に誰も答えられない。その落差で一気に陶酔から突き落とされるのもおかしい。
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マダムエドワルダ、昔の角川文庫のカヴァーは「金子国義」だった。バタイユ。。図書館の館長だったんでしょ? これ、読んだ頃は子供だったからか・・この人、悲しいんだな、などと、そんな感想しかなかったわけだが、今ならどうだろう?
もう1度読んでみよう!
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「眼球譚」「死者」も併載。眼球譚は先に読んでいたので「マダム・エドワルダ」「死者」に衝撃。堂々巡りの絶望と解放と解放と解放。
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以前に『眼球譚』を読んでとんでもねぇ変態だなぁと思っていたのですが『死者』や『マダムエドワルダ』を読んで、やっぱりバタイユ大好きだと思いました。冒頭の「君はひとりぼっちか?君は寒気をおぼえるか?」という虚無感。陶酔と死。同時代に生きていたら、バタイユの淋しさにきっと惹かれてたろうな・・・と思った。
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読んだ時は出会えて良かったと、ただ身震い。
義兄が「孤独」と言っていたんだけど、読んでる私にとっては何か孤独から救われた気が。
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Be prepared before you read. 孤独と虚無と性衝動と夜の空気とおしっこ。。
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さっと一行感想を書こうと思っていたら、気づけば1時間半もかけてえらく長い文を書いてしまっていた。だからブログのほうに載せることにしようと思う。そういえば「眼球譚」は新訳が出たようですね。『目玉の話』になったんだったかな? だいぶ雰囲気が違うそうですが、機会があればそちらも読んでみたいものです。
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バタイユ小説集。
やはりこの人の言葉の選び方が私のツボに来る。
平たく書けばどうしようもないデカダンな状況も、バタイユが書けば特別で何ともフランス的な様相になる。
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偉いほうのバタイユの『マダム・エドワルダ』を読んでいて
ちょうど「眼球譚」を読んでいるところ。
この小説には、個人的にどうしても記憶から抜けないものがあって
時間を上から下に切るみたいにして過去を振り返ったり
でも振り返っている感覚が無いから何してるのやらと思ったり
自分の価値観や立っている位置や
時間というものの信用できなさなどについて思うことがあるような無いような。
意識に残り続ける文章の強さは、何でできてるんだろう。
でもエロティシズムじゃないような気がする。
「マダム・エドワルダ」「死者」「眼球譚」と
「エロティシズムに関する逆説」「エロティシズムと死の魅惑」、
3つの小説と1つの論文と1つの講演・討論会の記録。
鳥肌のような小説なんだけど、肌は粟立たない。
”あからさま”の分量のせいか、エロティックじゃない、全然。
小説である必要はあったのだろうか、とか生意気なことを思ってしまった。
(でも眠くならないから意味はあったのだと思い直した。そうだ。)
豊かなクロソフスキーが好き。
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「死者」「眼球譚」他収録。生田耕作訳。無神学大全で知られるバタイユのほとばしるエロスの痙攣。青年諸君にぜひ一冊。薄くって読みやすいのでバタイユの入り口もってこいだと思います。よこしまな気持ちで始めて下さい。そのための文庫だと思います。
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眼球譚目当てで買いました。
馬の腹を裂く描写のあたりから馬がかわいそうになったので読むのをやめました。
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おおお、完全敗北です。
エロ・グロ・スカトロジーに何を含ませているのかが全く読み取れませんでした。
童貞と処女がお花畑でシロツメクサを摘んでいる時に突然
「おい、しゃぶれよ」
「Yes、ロンモチ♡」
みたいな脈絡ない展開に思えて仕方ない。
球体というモチーフを中心に添えてなんやかんやを表現なり描写しようとしているのでしょうが、私の頭がついていきません!
サドはそのあたり非常に分かりやすくて欲望とか動機とかをネチネチ数10ページも飽きずに書いてくれるのですが、バタイユはそういうのが一切ないのですね。
「エロティシズムという言葉をエロい意味で使っていないことが高尚」みたいな低俗な話でないことはわかるのですが、如何せん私には難しすぎるような。もっかい読まないといけませんな。
10.04.20
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作中の最初、「マダム・エドワルダ」は「眼球譚」に劣らず美しい性描写で以て描かれていた。禁じられた領域への誘いから始まる、その背徳的で魅惑的なエロティシズムの概念が、その作品を何とも官能的に引き立たせている。
心理描写を伺い見ても解るが、「性」に於いて人は「利己的」である事。此れは欠かせない要素であろう。後のエロティシズムに関する記述・対談に於いても窺い知る事が出来るだろう。
「死者」でも同様に、バタイユの作中に出てくる女性は娼婦かそれに近しい淫靡さを備えている。男性はその肉体や挙動に誘惑されるが儘に貪る。或いはマゾヒズム性を有して。其処に女性への人間的配慮は見当らない。女性像から必要性を持たないのも勿論理由と成り得るが、それ以前に相手への色情に道徳的観念は一切不要である事を象徴している。
性行為に於いて、男女各々が相手を「人間」としてではなく、「もの」として捉えなければ、其処に猟奇的官能美は見当らないだろう。
バタイユの解釈・講演の中で、エロティシズムについての真理が余す事無く記されているが、当に「理不尽さ」や、「破廉恥」と「有罪感」、「死の魅惑」がエロティシズムを構成するのだと共感させられる。
「連続性」と云う言葉を多用しているのも、利己的で自己中心的、言い換えれば「孤独」である事が本質的な土台となっている事を誇張しているように思われる。人間が互いに共有するものの中に、エロティシズムは含まれない。
また、羞恥心無しに快楽が生じる事もなければ、有罪感無しに恍惚を感じ得る事もない事は、ごく当たり前で、且つ無意識故に気付かれない事を、バタイユは言葉として明らかにしている。
死とエロティシズムについての文は理解出来たのか不明であるが、人間は例外無く死に対する憧憬を懐いている生き物であり、それ故に生きている事そのものにエロティシズムを見出す。そして誰かの死に依って、隔絶されていた(弾き合っていた)情慾を、初めてその対象に注ぎ込む事が可能になる。それは、視点や懐く感情全てが孤立した状態から、リンクされる事になるからだろう。勿論、上記の内容がバタイユの言いたかった事と必ずしも一致するとは言い切れないが、私はその様に解釈した。
また、「言葉(表現)に因る死」と云うのも頷ける。小説を読む事そのものの行為がそれを象徴しているが、言葉として描かれたソレは個人の内から脱却して、他人(客観的)に認識され、また「客体」という「モノ(オブジェ)」となって仕舞う。そうすると、動態あってこその官能は流動性を失い、固定された状態となる。バタイユが性描写の内に動態的な心情を挿入しないのは、恐らくそうした理由があるのだろう。
バタイユの概念を説明された章については、私が理解するには難しく、知識としても不充分過ぎるが、いつか自分の言葉として嚥下してみたいものである。
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エロティシズムの文学は本質的に言語化不可能性にぶつからねばならぬものだという。然り。エロティシズムの本質は、言語化・意識化 i.e. 対象化の機制そのものを無化してしまう点にあると思う。しかしそれにも拘らず、所収「眼球譚」に於ける人間のエロティシズムに対する作者の想像力には戦慄を覚えた。
エロティシズムとは、人間の自我(自己意識)の個別性が他者とともに溶解してしまうことだという。美的・性愛的・神秘的な陶酔・没入・合一への憧れ。それが個体としての非連続的な自我の消滅=死を伴う。「エロティシズムは死に到るほどの生の称揚である」というバタイユの有名な言葉には、納得させられるものがある。
ところでバタイユの講演も収録されているが、そこでは登壇している他の専門家だけでなく聴講する市民も積極的に発言している。或る女性が、バタイユが専ら男の立場からエロティシズムを論じており、そこでは女が物化されていると批判。それに対するバタイユの応答はない。女のエロティシズムとは。そもそもエロティシズムに性差はあるのか。
訳文はやや古風か。
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『眼球譚』が好きです。闘牛場のシーンが特に。
モチーフの二重性とか、単純に冒涜的なところが面白いです。
併録された講演録も、なかなか興味深いものでした。
表題作は、エロティシズムの理論が開花した作品らしいけれど、その点については全く理解していないことを正直にゲロっておきます(笑)
ただ分かることといえば、バタイユのエロティシズムについて基本的に理解していなければ、この作品の本質的な意図を見抜けないこと。エロい。グロい。マルセルかわいい。
この作品は、おそらく、読者自身が作品についていく心構えがないといけない作品の典型なのかもしれないです。