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プラトンの哲学(岩波新書 新赤版)
  • みんなの評価 5つ星のうち 4 14件
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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:1998.1
  • 出版社: 岩波書店
  • レーベル: 岩波新書 新赤版
  • サイズ:18cm/227p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:4-00-430537-3
  • 国内送料無料
新書

紙の本

プラトンの哲学 (岩波新書 新赤版)

著者 藤沢 令夫 (著)

プラトンの哲学 (岩波新書 新赤版)

842(税込)

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紙の本

反省と自己批判の成果としてのイデア論

2014/02/05 00:22

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

ギリシア古典哲学の碩学、藤沢令夫によるプラトン哲学の解説書。プラトン哲学発展の過程を、その著作をベースに明らかにしている。その過程とはひとことで言うと、「イデア論完成」の道のりであろうか。藤沢によれば、イデア論は、プラトンの生涯を通じてさまざまに変貌をとげたという。
 それを説明するため、藤沢は、まずソクラテスの「無知の知」の意味、それからプラトンの著作がほぼすべて対話篇であることの理由について触れる。すなわち「無知の知」で言われている知とは、真の徳に関する知識のことであり、それを知ることによって人間の徳も高められるような知のことである。徳に関する事柄について皆自分はよく知っているように思っているが、実は何も知らないというのが、ここでいう無知の知である。プラトンの著作が対話の形式をとることは、他者の批判と吟味を通じて、常にこのような無知の自覚をプラトン自身がもつためではなかったか、というのが藤沢の分析である。
 そのうえで、プラトン哲学の核心であるイデア論展開の過程が描かれてゆく。その初期においてイデアとは、たとえば「三角形とは同一直線上にない3点を結ぶ直線からなる図形」のように、ものごとのの定義や本質とほぼ同義で使われていた。だがやがてイデアは、個々の事物の背後にあって、永遠に変わらず、決して感覚でとらえられることはできないものを意味するようになった。たとえば、真なるもの、善いもの、美しきものは、それぞれそれらの背後に真・善・美のイデアがあって、そのイデアこそが、個々のものにこれらの性質をあたえているという考えである。そして、プラトンの著作の中には、『パルメニデス』のように、イデア論の不備を自ら指摘をし、それを再構築するものもあるという。そのような矛盾を乗り越える、まさに弁証法的止揚の過程を経てたどり着いた晩年の『ティマイオス』や『法律』においては、デモクリトスの原子論を典型とする自然科学的世界観と対立する、イデア的宇宙が描かれているという。それはまさに上で述べた真の知識である徳に関する知識、人間はどうあるべきかにもとづいた宇宙観と言ってよい。
 藤沢は、プラトンが描いたこのような宇宙観が失われ、自然科学的世界観に縛られてきたことと、環境破壊、生命倫理等現代のわれわれがかかえる諸問題とを結びつけようとしているが、その是非についてはここでは書くまい。ただ、現代人にとって月並みな感のある科学文明批判の萌芽を、プラトン哲学に求めるという視点は実に新鮮で、興味深かった。そして何といっても、プラトンが生涯を通じて「思わく」に陥らぬよう常に反省と自己批判を怠らなかったという事実には感動をした。イデア論はそんな彼の哲学的態度の結晶だった。まさに「愛知者」を地で行く哲学者だったわけである。
 プラトンの主要な著作は一通り読んだつもりであるが、恥ずかしながら本書に言及された著作の多くは名前さえも初めて聞くものであった。これを機会に、これらの興味深い著作、特に上記の晩年の2作品はぜひ読まねばと思った。

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紙の本

「イデア」をめぐる根本的誤解

2001/02/15 23:42

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 藤沢氏によれば、プラトンほど、「自然」を生命なき物質とみなしてはならないことを、生涯一貫して強く説きつづけた哲学者はいない。また、形相と質料という概念はアリストテレスが創始した独自の対概念であり、プラトンの著作の中にただの一度も出てこない。むしろ、「形相」に対する「質料」(素材)というような概念を存在の最基本レベルにはもちこまないところが、アリストテレスとは決定的に異なるイデア論の積極的な特色にほかならない。結局のところ、プラトン哲学に対する根本的誤解は、いずれもアリストテレス由来だというのである。

 それでは、「イデア」とはいったい何なのだろうか。実は、このような「Xとは何であるか」という問いのうちに含意されている事項そのものへと問題関心を集中させることこそが、イデア論がイデア論として成立するための機縁であったと藤沢氏は指摘している。

 まず、「何であるか」というソクラテスの問いかけの意義は、アリストテレス流の定義を求めることにあるのではなくて、「何でないか」の同意と確認を積み重ねていくなかで「何であるか」の最終的な同定(知)へと前進していくプロセス──いいかえれば、「何でないか」の同意と確認を可能にする判断根拠である潜在的な知が、無知の自覚によって鍛え上げられていくプロセスそのものに意義があるのである。

 そのような問いのうちに含意されているのは、次の四点である。「まさにXであるもの」こそがXについての真の知がめざすべきもの(問われている当のもの)であること。それは「Xである」と呼ばれる個々の特定の事例(行為や事象)とは厳格に区別されるべきこと。また、すべての「Xである」ものの中に「まさにXであるもの」が内在していること。したがって、「まさにXであるもの」とはある事例が「Xである」かどうかを判別する規準・手本(パラディグマ)であること。

 藤沢氏はさらに、中期対話編の中でイデア論が拡大されていく過程をたどり、後期に属する対話編『パルメニデス』においてその不備を自ら示したプラトンが、最終的に「場」(コーラー)の概念の導入によってこれを克服したことを論述している。

 ここでいう不備とは、「個物xはイデアΦを分有することによってFである(Fという性質をもつ)」という記述方式によって、F(感覚される性質)とそれがあってこそFがあるところのΦ(思惟されるイデア)との区別が、x(個物)とF・Φ(性質・本性)との区別の陰に隠れて不明確になること──つまり、「xはFである」によって記述される常識のものの見方のしたたかさ(個物という観念のしたたかさ)によって、イデアが不要な余計物とみなされてしまうことである。

 そして、これに対するプラトンの解決方法は、「分有」に基づく記述を「似姿」もしくは「原範型」(パラディグマ)に基づくものに置き換え、「イデアΦの似姿が場のここ(Fの知覚像が現れている所)に受け入れられて、Fとして現れている」といった記述方法を採用することである。

 以上の論述は、いまひとつの重要な教説であるプシュケー論のそれとともに、プラトン哲学への入門者にすぎない私にとっては極めて興味深いものなのだが、ここではこれ以上深入りせず、イデア論とは決して超自然的な観念として外挿されたものではないこと、むしろ私たちの生活(言語生活)の中から立ち現れてきたもの、そういってよければ「人間的自然」に根ざした普遍的な、あるいは「文法」的なものであったこと(そのようなものとして藤沢氏がイデア論を叙述していること)を確認するにとどめておこう。

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紙の本

「場の描写」の記述方式

2001/07/22 21:47

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:アルケー - この投稿者のレビュー一覧を見る

 先に書評されたオリオンさんに対する見解としてこの書評を書く。次のようにまとめる。
その一:
 形相は「形式」であり、質料は「内容」である。素材のない形が存在しないように、形のない質料は存在しない。この思想はカントが受け継ぎ、感覚の多様性(質料)と概念の普遍性(形相)との統一が認識となる。このように見ると、プラトン以後の哲学はプラトン哲学の根本的誤解の上になりなっている。その哲学がプラトンの脚注である。
その二:
 「何でないか」の同意と確認の積み重ねで「何であるか」に到達するプロセスに関していうと、子供がこのように言葉を学習していくとしたら、一つの言葉を学ぶにしても、「何でないか」を一つ一つ確認していくのであるから、学習する前に、年老いてしまうであろう。
その三:
 「まさにXであるもの」とは普通にいう普遍である。だから個々の事例は当然、個別であるから普遍とは異なる。また、「すべての『Xである』ものの中に『まさにXであるもの』が内在していること」が意味するところは、「個別に普遍が内在していること」である。個別は判別の規準・手本である普遍との比較によって認識される、ということであって、別に問題はない。
その四:
 「似姿」もしくは「原範型」(パラディグマ)に基づく記述方式である、「イデアΦの似姿が場のここ(Fの知覚像が現れている所)に受け入れられて、Fとして現れている」は、普通の表現に戻せば、「これ(X)は菊(F)である」となる(p.195)。すなわち「これはFである」が「場の描写」の記述方式をとると上のような、なんとも面妖な表現となる。

 このように見てくると、アリストテレスの誤解によるのではなく、著者のプラトン解釈の誤解によるのではないかという疑問がどうしてもつきまとう。著者はアリストテレスを西洋哲学の元凶とみなしているが、プラトンとアリストテレスの共通点というものは何もないのであろうか。常識に挑戦するプラトンにあまりにも肩入れをすることによって、アリストテレスの長所が見えなくなっているのではなかろうか。
 新プラトン派(不思議なことにアリストテレスの教説を解説)もスコラ哲学もみなアリストテレスによって成立しているのであって、プラトンの哲学によって成立しているのではない。プラトンに根拠をおく哲学のほうが、西洋哲学においては、はるかに少ないことを忘れてはいけない。プラトン哲学の受容はキケロ、ルネサンスのプラトン研究(ラファエロにその成果が見られる)、スコットランドのプラトン派、そして19世紀からはじまるプラトン研究がおもな受容であって、その他の哲学は--ライプニッツやドイツ観念論をのぞいて--みなプラトン哲学とは無縁である。

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