- カテゴリ:一般
- 発行年月:1998.4
- 出版社: 日本経済評論社
- サイズ:20cm/327p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-8188-0976-4
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紙の本
政治的なるものの再興
ポスト冷戦時代に理論的に要請されるのはいかなるデモクラシーか。経済に矮小化された政治的なるものの価値を問い、自由民主主義の新しい組み替えを主張、斬新かつ冷静な理論分析を展...
政治的なるものの再興
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商品説明
ポスト冷戦時代に理論的に要請されるのはいかなるデモクラシーか。経済に矮小化された政治的なるものの価値を問い、自由民主主義の新しい組み替えを主張、斬新かつ冷静な理論分析を展開する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
シャンタル・ムフ
- 略歴
- 〈ムフ〉1943年ベルギー生まれ。女性政治理論家。著書に「ポスト・マルクス主義と政治」など。
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紙の本
アゴーン(闘技)としての政治
2007/08/31 21:52
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
左派の論客ムフにとって、「政治的なるもの」とは共産主義の予定調和に至る道ではない。では、なんなのか?
《自由主義の倫理的原理を真剣に受けとめることは、個人が自分の意志どおりに人生を生き、みずからの目標を選択し、それらの目標をみずから最良と思う形で実現させる可能性をもつべきであると主張することである。言い換えればそれは、多元主義が近代民主主義の本質的な構成要素であることを認めることである。したがって、完全な合意であるとか、調和的な集合意志であるとかといった理念は放棄されなければならず、恒常的な紛争と敵対関係とが受け入れられなければならない。同質性を選択するという可能性自体ががいったん放棄されるならば、自由主義制度の必要性は明白になる。そのような制度は、たんに資本主義社会の階級対立を隠蔽するもの--多くの参加民主主義論者がそう信じているようであるが--などではなく、むしろ多数者の専制や全体主義的な政党・国家の支配から個人の自由を保護する砦となるものなのである。》
ここでの「参加民主主義」とは、60年代以降のニュー・レフトによって吹聴されたプロジェクトを指す。
同じような論調は、「共同体論者」と呼ばれている論者の中にも見て取れると、ムフは指摘する。《彼らもまた多元主義を峻拒することによって、有機体的な共同体を夢想している。》
ニュー・レフトや共同体論者の研究努力は、動機という点では善意に基づくものであろうとムフは認める。しかし、これらの研究努力には、近代民主主義の理解をめぐって、カール・シュミットと同一の欠陥が確認されるのだともいう。
《民主主義革命を経験した社会、すなわちクロード・ルフォールの言葉を借りれば、「確実性の指標の消失」という自体に曝されている現代社会にあっては、多元主義と個人の自由が承認されるような仕方で、民主主義の政治を再考することが要請される。治者と被治者の同一性という民主主義の論理は、それだけでは諸種の人権を尊重するための保障の砦とはなり得ない。人民について、それがあたかも単一の一般意志をもつ統一された実体であるかのごとく言及することは、今日、もはや不可能である。このような現代の条件下にあって、人民主権の論理が専制状態へと傾斜してしまう危険性を、かりに回避することができるとすれば、それは専ら、民主主義を政治的自由主義と節合させることによってのみ可能となる。》
さらにはムフにとって《民主主義とは、完全には実現できないものである限りで、善きものとしてとどまる、そうした逆説的な種類の善として把握されるべきである。それゆえに、そのような民主主義は、つねに、「来るべき」民主主義であるといえよう。なぜなら紛争と敵対関係は、民主主義の完全な実現のための可能性の条件であると同時に、また不可能性の条件でもあるからだ。》
このように認識しているムフが唱えるのは、《根源的かつ多元主義的な民主主義》である。ただこれは、スローガンに留まっていて、「根源的」とは何のことなのか具体的なイメージを喚起するまでには至っていない。
「政治的なるもの」を闘技的に把握するムフの解釈を、複数の政党が議会で論戦する姿に「翻訳」してみれば、ごく当たり前のことを言っているにすぎないように思える。
しかし、「二大政党制」が定着しているような体制であれば、より深刻に受けとめるべきなのだろう。なぜなら「二大政党制」では、議会内が多元主義的と呼べるかどうかは怪しいのであり、呼べてもせいぜい--二元論的世界としての--ミニマムな多元主義にとどまる可能性が高いからだ。
「政治的なるもの」について、「共存」と「闘技」のどちらにウエイトを置くにしろ、理論書を読んだ後に私たちが考えてみたいこと(の一つ)は、土台となる「制度設計」をどうするのか、ということだと思う。