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商品説明
「鼠小僧次郎吉」「国定忠次」等の映画の脚本・監督で世を風靡した山中貞雄に関する多くの人々の言葉を年代順に集録。生前の作品評、死後の追悼文、回想などから、彼のコスモロジーを歴史的に追体験できる。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
千葉 伸夫
- 略歴
- 〈千葉伸夫〉1945年生まれ。著書に「チャップリンが日本を走った」「原節子伝説」など。
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紙の本
同時代の映画批評、エッセイだからこその意味と価値
2011/12/03 13:46
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
1000ページをはるかに超える大冊である。凡例に《主に映画専門誌に掲載された山中貞雄作品評、作家論、人物評、並びに追悼・回想文を、原則として雑誌発行年月日順に編集・収録した》とある。
1932年から亡くなる1938年までの山中貞雄作品についての批評等が約500ページ、いくつかの映画関係の雑誌に載った追悼特集が約400ページ、そして戦中から戦後・現在にかけての批評類が約200ページだが、この部分は同じ出版社が以前に刊行した「山中貞雄作品集」(1985年)の解説・月報が大半を占めている。巻末には40ページ近い「山中貞雄年譜」があり、また本書掲載以外の多数の文献が一望できるページもある。
山中貞雄についての書物は、その残された映画が少ないことに比例するかのように少ないが(その映画史的な重要さに比しても少ない)、本書は貴重なその一冊というべきだろう(編者は千葉伸夫)。
同時代批評が対象としている山中貞雄の映画自体が、『丹下左膳余話 百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』をのぞいて現存していなくて、通常の、作品があって批評を読む、という行ない自体が許されていない。とはいえ『山中貞雄作品集』というタイトルの分厚い本が本書と同時に当時(1998年)刊行されており、そこに残されたシナリオが一括収録されていて、映画の原型を偲ぶことができる。こちらには戦地での遺稿など、数少ないが山中貞雄が書いたり話したりした言葉も収録されている。
『人情紙風船』を再見したのがきっかけで山中貞雄の伝記(千葉伸夫『評伝山中貞雄』)を読み、本書を読んでいるのだが、観ることが叶わぬ映画の批評や解説を読むのはつらい。かなり飛ばして読むしかなかった。その分、残された映画についての当時の批評はじっくり読むことにした。
たとえば『人情紙風船』について津村秀夫(当時人気のあった朝日新聞の映画記者)が書いたものを読むと、髪結新三〔しんざ〕の描き方が原作と異なり「悪」に迫っていないと批判しているが、一方でこの映画の中心は河原崎長十郎扮する哀れな「浪人」であることを知っている。つまり、原作の歌舞伎のように髪結新三が描かれたら、河原崎の浪人の存在が希薄になることが分かりながら、歌舞伎の知識をひけらかすようなことを書いている。
1937年のこの当時、戦争に批判的であろうと、人々は日本の戦争について奥歯にもののはさまったような文章しか書けなかった。反戦的な言葉はもちろん、どんな厭戦的な言葉も公表できなかった。『人情紙風船』という映画が凄いのは、オープンセットの町並みの向こうに、江戸の、ではなく1937年の日本の晴れた空と雲が見えることである。だが当時の人は、その空と雲の不気味なほどの晴れ渡りを、はるか後の人のようには見ることができない。
これは当時の観客が、現在この映画の凄さを感じとれるようには、感じとれないということではない。『人情紙風船』の画面を通して漠然と肌で、迫りつつある破滅的な状況を感じとっているのは、むしろ同時代の人なのだ。ただそれを言葉にすることができない。厭戦的な言葉を書けないからというより、むしろある閉じ込められた状況のなかにいるがゆえに、なのだ。
もっとも、その意味においてはいつの時代も同じなのかもしれない。だが少なくとも1937年のオープンセットの向こうの晴れ渡った(白黒画像の)空と雲を、同時代の人とは全く別の気持ちで私はいま観ているのだと思う。
津村秀夫のような著名人ではないらしいが、酒井幸治郎は(巻末の著者一覧には「友人」としか記載されていない)、『人情紙風船』を観て暗然とする。《あの映画全体を蔽う、救い難い虚無感は、彼が意識して描出したものか、それとも作品の構成がああいう雰囲気を漂わせたのか、それはここで問わないとしても、何か暗い影をもって見る者を脅〔か〕すのであった。》
続けて筆者が《僕は彼が、生命を賭するような激しい恋愛を経験することを、心ひそかに祈った》と書くとき、その気持ちを私は強烈に反芻する。「ラグビー」と題されたこの短いエッセイには戦争や国家のことは一言も語られていない。それゆえに私が忖度するのは、国家や死をも超えるものを山中貞雄とその映画に仮託している筆者の姿だ。
細かいことを言えば、この追悼の文章のなかで筆者は、「経験していたら」ではなく、「経験することを」と書いている。これは山中貞雄が生きていたときに筆者が『人情紙風船』を観たときの感慨をあらわすとともに、筆者自身の書いているときの心理をあらわしているのかもしれない。「護国の華」「光輝赫赫たる戦没」「東洋平和の礎」といった言葉が散見される追悼のなかで、こうした言葉には惹かれる。
本書の、特に追悼文を読み進めて強く感じるのは、山中貞雄という人が驚くほど周囲の人々に愛されていたことである。それらの言葉はとてもおざなりとは言えない。同性からではあるが、そして映画を通してであるが山中貞雄は愛されていた。筈見恒夫による《映画の方でも彼を愛していた》という言葉が別の次元でそのことを集約している。
本書は分厚い一冊のなかに、一人の映画監督の生前における活躍、若くして死んだための多くの追悼、戦後における再評価を一望のもとに収めている。彼と同時代の名だたる監督たちの場合、その経歴の長さ等のために、このようなかたちで全評価をおさめにくい。この本に一種の幸福感があるとすれば、そんなところにあるかもしれない。
私的なことで、一つ気づいたことがある。1910年生まれの私の父は(山中貞雄は1909年生まれ)、「貞雄」といった。失われた山中貞雄の映画を若いとき観ていた可能性は高い。