紙の本
デリダへの郵便的応答
2003/04/23 19:24
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ジューク - この投稿者のレビュー一覧を見る
本著は著者のデリダへの「郵便的」応答である。
著者が対象とするデリダ中期のテクストは難解と奇天烈をもって知られ、この哲学者の毀誉褒貶に大きく貢献していた。デリダ支持/不支持の者を問わず、他テクストとの「論理的」非一貫性ゆえになおざりにされがちなこれらテクスト群を、著者はデリダ自身が避けては通れなかった「必然」、あえて言えば「論理的」要請として捉えなおす。いわく「なぜあのような奇妙なテクストはデリダによって書かれなければならなかったのか?」
デリダによる中期テクストは、自身が前期テクストで確立した形式的脱構築への「抵抗」であると著者は言う。本著の理論的要諦はまさにそれに尽きる。デリダは二つの脱構築——ゲーデル的形式的脱構築とデリダ的郵便的脱構築——を提出している。前者の脱構築は、テクストの読みをコンスタティブ/パフォーマティブの形式的決定不可能性の中に宙吊りさせ、衝突させる戦略(「代補の論理」)であり、結論的に言って後者の脱構築可能性によって支えられている。なぜならば、「固有名」に端的に宿る非−世界的な「余剰」(単独性)は、前者の脱構築をもっては、つねに否定神学的にその指示形式(シニフィアン)“のみ”が超越論化されてしまうのに対し、後者の脱構築をもっては、その指示形式=論理形式であるエクリチュールは個々の単独性を亡霊的に「配達」するだけであり、「超越論性そのもの」は行き先も送り主もわからないデットストック空間に宙吊りにされるからである。この意味で超越論性は「散種」という限りでつねに多義的であり、シニフィアンとエクリチュールの差異化の運動(「リズム」)の中で、テクストからテクストへ「転移」し、読み手へ「配達」あるいは「誤配」される。
だが問題なのは、東のデリダへの応答(本著)自体が彼自身の欲望と関心によって支えられ、デリダとデリダの言葉を固有化する営みであるということだ。いわば、東は形式的脱構築をデリダに施したが、同時に自らを郵便的脱構築の可能性に晒すことになったのである。これは本人も自覚している通り非常に逆説的であった。本著は著者の処女作であり、自身の極めて強い実存的動機とによって書かれた。が、対照的に本著はあくまでデリダ(の非論理的なテクスト)の「論理的」理解を目指し、スタイル自体もきわめて理論的=形式的である。この動機と方法論の決定的差異こそが、著者の生み出した「郵便」概念のベースにあるのは明白だが、同時にそれが本人に自覚されることによって差異が解消される(本書が閉じられる)のは非常に示唆的であり、まったく新しい意味での大文字の「哲学」の可能性を差し出しているとも言える。
東は、自らのテクストを、自らとりだした概念である「郵便空間」へと再び送り出すことによって、本著を閉じている。いや、ひょっとしたら、それを送り出したのは“東浩紀ではなかった”のかもしれない。だとしたら、それはいったい誰なのか? 私たちは本著の最後に、デリダが語る「幽霊」が、東の語る「郵便空間」より東自身へと到るのを見るのである。デリダに言わせれば「哲学者とは、ちょっとは大きな郵便局なのだ」(本著引用より)から。
東のテクストは、この種の専門書にありがちな(まるで本著の対象となったデリダ中期のテクストを踏襲したかのような)難解句と隠喩を排した平明な文体による「理論的」構成を趣としており、読みやすい。後半部はデリダの「二人の父」であるハイデガー存在論とフロイト精神分析の専門用語が多々参照され、不慣れゆえに時に困惑するが、哲学の基礎教養があるのならば重箱の隅をつつかずとも読了できる。また前半部は現代思想の入門書としても読め、「お得」である。2000円は安いだろう。
紙の本
高密度でビット数の高い音楽のような哲学
2001/02/22 21:26
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
昼食のあと少し固いめの本を読みながら、うつらうつらしてきたら十分かそこらの仮眠をとるのが日課になっています。いつだったかの『アエラ』の特集でサラリーマンの午睡が話題になっていましたが、私の場合もうかれこれ十年以上も前からの習慣なので、そうと気づかぬうちに流行の先陣を切っていたわけです。
以前、東浩紀著『存在論的、郵便的』を二月かけて読んだのも、そういった夢うつつの中での出来事で、これがまた実に心地よい体験でした。もちろん、読み方が読み方なので、細部に立ち入ってのきめ細かな意味をつかむことはもとより全体の結構もたよりなくはかなげだった(あくまで読者の側の話)のですが、そうであるにもかかわらず淀みないスピードでずんずん読み進めることができたのです。(「純粋消費」などという言葉がもしあるとすれば、それはちょうどこのような快楽をもたらす経験をさすものなのかもしれません。)
『週間東洋経済』(1999.2.13)の書評欄では、「80年代初頭に出た、浅田彰の『構造と力』のように、早熟な思想家の処女作は、著者の意図を遥かに超えて時代の行方を予言する。本書もまた、21世紀における市場社会の“脱構築”を冷徹に予告しているようだ」(古田隆彦氏)と紹介されていました。私にとっては後半やや意味不明の評言でしたが、「市場社会の“脱構築”」という言葉の内実をどう構成するかによっては、評者のいわんとすることがわからないでもないような気もします。
いずれにせよ、七◯年代以降のデリダはなぜあのような奇妙なテクストを書いたのか(暗号のようなテクストでもって何を語ろうとしたのかではなく)を終始一貫してテーマに据え、後半に進めば進むほどますます抽象度に磨きがかかる文体や「……である。どういうことか。」といった歯切れのよい叙述のテンポでもって、「高密度でビット数の高い音楽のような哲学」(PLAYBOY[1999.2]掲載のインタビューにおける東氏の発言)に仕上げた力量は並みではありません。
投稿元:
レビューを見る
非常に影響を受けた一冊です。物事の本質を内部から破壊させ新たな地平に導く思考方法はとてもステキです。現代を読み解く上でお勧めの一冊です^^
投稿元:
レビューを見る
東浩紀のデビュー作。途中まで読んで積読にしていたが、今回は150ページくらいまでは普通に読み、その後は斜め読みした。
難解で理解できたのは半分以下。
固有名の持つ確定記述の束に還元できない過剰の話は理解できた。
投稿元:
レビューを見る
12月18日読了。東浩紀の出世作。「脱構築」のジャック・デリダを論じつつ、フーコーやフロイトにも目配りした内容で読み応えがあるが、読みながら「あれシニフィエとシニフィアンってどっちがどっちだっけ?」などと悩みだす自分にとっては、「動物化するポストモダン」などのような読み物と違ったこのような論文を理解しつつ読み下すのは大変だった・・・。しかし、ページをめくるたびに世界がまとうベールが一枚一枚はがれていくようなこの読書感にはたまらないものがあるな。
投稿元:
レビューを見る
哲学的にはわたしには測りかねるものがあるが、文芸批評史的には柄谷という「父」の思考枠組みに対して根本的修正を迫るという意味で世代交代の端緒も感じさせる重要な一冊。
*
2017.1.7 追記
ここ数日繰り返し読んでいた本。はっきり言って以前のわたしには何も理解できていなかったとおもう。最近読み返して気づいたのは、「政治」の意味が70〜90年代で変容したことが刻み込まれているということ。あと明晰にわかりやすく書かれているようにみえて、二つの概念を出してきてそれをはっきり定義しながらその区別しがたさへと移る、というパターンの論述が基本で、しかもそれを別の言葉で言い換えてまた新しい議論へと流れ込む、というパターンでずっと書かれており、文体の明晰さに比して要約はしづらい。どれほど文体が異なっていてもこのひとはデリディアンなんだ、と心からおもった。
いま関心があるのは本書の最終章を文体論として読み直す可能性。
投稿元:
レビューを見る
-読中-
なかなか読み応えのある本。こういう本一冊あればとっても充実した時間が過ごせる。メモを残しつつ、格闘中。知的好奇心がそそられる。
-読後-
とても疲れました。難しかった。
投稿元:
レビューを見る
博論を基にした著作というのは基本的に大作になる。
様々な分野においてポピュラーな本を書いている東浩紀においてもそれは同様で、他の彼の著作のような読みやすさを期待して読もうとすると肩透かしを食らう、というか眉間にシワを寄せることになるかもしれない。
というのも、本著はあくまでデリダの解説本である。
そのデリダの著作よりは遥かに読みやすいとはいえ、やはりそれを解説する以上、それはある程度難解なものにならざるをえないのだろう。
ちなみに自分の場合、デリダの著作はちゃんと精読したことすらないので、そういう意味でもなかなか読んでいくのが大変な本であった。それでも、東の導きにより、少なくともデリダが何を行おうとしていたのかはかなり明らかにされた感覚がある。また、デリダとともに、その批判の対象となったハイデガーについても断片的に知ることが出来るようになるというのも本書を読む一つの意義だろう。
デリダにしてもハイデガーにしても、哲学書の中でもさらにわかりづりい分野を取り組むことは大変なことだ。特になぜそれが有意義なのか、どのように哲学の世界で位置づけられているのかを知ることは、単純に数行にまとめた基本書籍だけを読むだけでは困難である。
そうしたとき、本書のようなものがまさにそこを補う役割を果たすのだろう。
とりあえず、また折にふれて読み返してみたいなと思いました☆(要約)
投稿元:
レビューを見る
東浩紀哲学の出発点。これを読めば『動物化するポストモダン』から『一般意志2.0』まで一貫した思想がうかがえる。人間と動物の二元論とか、エクリチュールの散種とか、郵便空間とか。コミュニケーションをおびやかす「誤配可能性」を「希望」に読み替えるその前向きな思想に共感。
2012年1月26日:
175ページまで読んだが、疲れた。最後まで斜め読み。
郵便空間におけるエクリチュールの誤配可能性や、デッドストック空間への紛失によるコミュニケーションの不可能性については、それが人々にICTへの根源的な不安をもたらしているのだろうと思いました。
2012年5月4日から再読。『ソルジェニーツィン試論』『郵便的不安たち』『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』といった東氏のテクストや『分析哲学講義』を読んだことで、『存在論的、郵便的』もだいぶすらすらと読めるようになっていた。
これも重要。60:00以降が面白い。 → ニコ生思想地図「震災以後、哲学とは何か」國分功一郎×東浩紀 http://live.nicovideo.jp/gate/lv81400801
2012-05-05 17:42 随想
ギブソンのアフォーダンスと、デリダの散種は似てる。ユーザビリティ/エクリチュールの意味が事後に遡行的に見出されるという点で。
デザイナー(郵便局)の特権性は脱構築され、原理的に「目的外利用」は消滅する。人工物の利用における多様な意味は、利用のまさにその瞬間において遡行的に確定する(エクリチュールの散種)。
同じものを使いながら、その使用は一つとして同じではない。大量生産される規格品が生活様式を単一の型にはめるということはない。人工物の利用における意味を創造的に「誤読」することで、私たち自身の生活を自在化する可能性がある。
デザイナーの特権的意味付け(デザイン)から飛躍した「誤配」や「誤読」による創造的な生活の可能性がある。「シンセサイザー」(楽器)にすぎなかった初音ミクのキャラクター的な需要と創造力(ジェネラティビティ)は好例。ユーザーによる「ハッキング」の可能性。
アフォーダンスがつねに無限の可能性・創造性に対して開かれており、人工物の意味や用途が使用そのものによって遡行的に定義されていくならば、原理的に「目的外使用」など存在しない。人工物のテレオロジー批判。デザイナー批判。
ソフトウェアは「目的外利用」しにくいのが問題だ。しかしそれはいまのアーキテクチャがそうであるに過ぎないのであって、「目的外利用」に開かれた情報アーキテクチャを模索したい。
例えば「モーダルからモードレスへ」という上野氏の実践はその意味において意義がある。
HCDとACDに関する議論(浅野氏の記事)と並行している。デザインにおけるHCD的な利用状況(コンテキストオブユース)のアプリオリな措定はテレオロジーであり、アフォーダンスの散種的多様な解釈を抑圧する。しかし抑圧しきれないために「目的外利用」に対してつねに開かれている。
「目的外利用」「誤配」「誤読」をエンパワーするアーキテクチャとは何か。TwitterにおけるRTのような機能は、デザインのメタレベ��においてはどのようなものになるか。一例としてAPIがあるだろう。データのアクセシビリティを高めること。Google的、マッシュアップ的。
アクセシビリティは「あらゆるデバイス、利用環境での閲覧可能性を確保する」ことではない。閲覧だけでなく加工・再利用に対して開かれていなければならない。つまり機械的可読性が必要なのだ。フロリディ的。
アクセシビリティとAPIの倫理。この基礎的議論からオープンデータ、オープンガバメントの要請が演繹的に出てくることは説明の必要もないだろう。
140文字のツイートそれぞれがバラバラにリツイートされている。これぞ散種だよなあ。ようやく東浩紀氏のTwitter観に少し触れた気がする。
コミュニティの閉鎖性を突き破ってコミュニティ間コミュニケーションを成立させる言葉があるとすれば、強度のある言葉だ。それはリツイートが連鎖しやすいツイートの特徴でもある。
ぼくの新事業開発アプローチ(今風にいえばリーンスタートアップ的)はビジネスの散種的実践か。プロトタイプを作ってモニターテスト、ミニマルなβ版でリリース、みたいな手法は、エクリチュールの種を撒いて、その(しばしば予期せぬ)成功の芽を利用者の中に見出すことだ。
ウェブサービスを提供するソフトウェアは、プログラミング言語でアーキテクチャをコーディングしたものであり、エクリチュールそのもの。その「目的外利用」と探索的事業開発手法は、音声中心主義批判と散種的エクリチュール実践に並行している。
『アーキテクチャの生態系』を検討したい。生態系と進化論と固有名の問題とか。グーグルではなくグーグル的アーキテクチャそのものを考えることは可能なのか。進化論的議論は可能世界的思考を要請する。
2012-05-07 03:01 再読完了。満足。
『存在論的、郵便的』再読完了。3ヶ月前は途中で放棄したのに、こんなに読めるようになっているとは我ながら驚き。大変多くの気付きが得られた。
投稿元:
レビューを見る
【新歓企画】ブックリスト:「大学1年生のときに読んでおきたい本たち」
すみませんぼくも未読です。が、現代思想について考える際、この本は避けては通れぬ一冊だと思います。入学してきて、まず何を読んだらいいだろう? というひと、ぼくみたいに聞きかじったことをなあなあにしてしゃべるのではなく、ちゃんと読んで、いろいろ考えてみてほしいです。ぼくも読みます。一緒に勉強したいです。【S.S.】
投稿元:
レビューを見る
東浩紀が実存的な動機で書き始めた論文をまとめた本書。
その動機に抵抗するように、きわめて形式的に書かれている。
感情やゴシップから距離を取ることは大切ではあるが、その徹底的な抵抗が失敗となっている。言い換えれば、転移は避けられなかった。
この著書の結末が散逸した今となっては、各章の間に差し込まれる、東の選択を慎重に検討する必要がある。
第三章までは、比較的デリダの整理に留まっている。
もちろん「奇妙なテクスト」が書かれたデリダ第二期に注目し、幽霊や郵便の隠喩を仮縫いの糸としてデリダの全体を読み解こうとする試みは新しいものであった。
第四章では、浅田彰が指摘しているようにハイデガー読解に問題はあるが、デリダを離れてハイデガーやフロイトにこの問題の系譜を辿ろうとする試みがなされる。
しかし、終盤で提出される「無意識同士がつながる」という仮説は、その問いが含意するものは分かるが、理論的には支持できない。
総じてハードルとしては高いが、デリダの入門書としては充分機能しえる著書になっている。
『批評空間』で試論と自ら呼んでいたこの作業を、単行本にまとめるにあたってそう呼ばなくなったのは、世界に身を晒すという彼の素直な態度だろう。
投稿元:
レビューを見る
二度目読了。まだまだ手強い。アクロバティックだけど地に足が付いたかんじだ。構造と力を超えた本というのはそうだと思う。
投稿元:
レビューを見る
殆ど何言ってるのかわからなかったが、所々オッと思うところがあった。
しかし、もう何にオッと思ったのか忘れてしまった。
一方でオッと思ったことは確かなのである。
オッと思ったことが「オッと思った箇所」から剥がされ、当該箇所は郵便空間を漂い、オッと思ったことだけが幽霊として現前をゆらついているのだった。
投稿元:
レビューを見る
頭のいい人が書く本。
小生も昔に同じ記号でも2つ以上の意味を持つことを考えていたことがある。
ハイデガーとフロイトの中間にデリダをおいている。ハイデガーの別名が存在論的、フロイトの別名が郵便的。タイトルに入れているだけのことはある。
デリダがどうして意味が難読の文章を書くのかを理解したいという著者の気持ちがわかる。実に単純だ。しかし、それを知るために随分と紆余曲折して現代哲学を学ぶこともできる。
ゲーデルの不完全性定理は数学用語なので慎重に扱わなければならないが、本文に影響はないと思われる。
投稿元:
レビューを見る
読むものを惑わし、拒絶しているようにも見えるデリダの奇妙なテキスト群はなぜ書かれ、なぜ必要だったのかという素朴な疑問から始まる一冊。丁寧に、幾重にも引かれた補助線を一気に畳み込んでいく展開がすさまじい。というよりも振り落とされた。だが、あくまでも語り口は平易だ。
積んで数年、読み始めて忘れるを三度繰り返し、ようやく腰を落ち着けて読み始めてから三カ月にしてようやく読み切る。読み切ったものの、正直理解できているのかというと微妙なところがある。また時間を空けて読もうと思う。