紙の本
来歴と記憶
2001/03/04 18:15
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:だらに - この投稿者のレビュー一覧を見る
ちまたでの評価も高く、サントリー学芸賞も受賞したこの本は、<意識>を心理学的に考察しているわけであるが、いわゆる脳機能が局所的に配置されていると考える局所理論に対して批判をしつつ、意識を「来歴」として考察しようとする。
ギブソンからの影響がつよいとはいえ心理学の新たな一歩として考えてもいいような発展ともいえるが、しかし、著者はこの「独自」の思想がベルクソンの『物質と記憶』の純粋記憶の理論と告示している点に気がついているだろうか。著者が扱っているストラットンや身体図式などのほかのテーマもすでにベルクソンがあつかったテーマであったことも興味深いが、是非「下条心理学」とベルクソン哲学との関係について本人の自覚的なコメントがほしいところである。
紙の本
スリリングな書物
2001/02/22 20:57
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
心の無意識的・無自覚的な過程を調べることには長けてきた科学が、なぜ自由意思に代表される志向性や能動性といった側面での意識の研究を苦手としてきたのか。その理由の一つは、科学の方法論がその本質として脳や認知過程を状況から切り離し孤立させるからだ、と著者は書いている。
《脳科学の本筋の中に「脳の来歴」、脳と身体と環境世界との相互作用の「来歴」をもう一つの軸として入れたなら、事態が変わってみえてくるのではないか。外堀(無意識)を埋めることによって、内堀(意識)の正体が見えてくるのではないか。従来の脳科学のめざましい成果の延長線上で、これまでの研究の弱点を乗り越えることができるのではないか。これがこの本全体の一つのメッセージでもあるのです。》
ここに出てくる「脳の来歴」について。
《そもそも、無意識が意識の基盤でありえる理由は、無意識的過程こそが「脳の来歴」の貯蔵庫であるからだと思います。また「来歴」がその影響力を行使する場所でもあるのです。》
知的刺激と豊かな情報に満ちたスリリングな書物。
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人間の器官である脳でさえも、環境抜きで理解することは出来ない。簡単に言えばそういう主張ですが、確かな科学的知見と、読みやすい文章で構成されているため非常に勉強になります。心理学を学ぶ人や神経科学などに関心がある人にはかなりおすすめです。
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この著者である,下條先生はすごい人だと思う.一見,単純な実験で,ここまで革新的に「意識」に対して切り込んでいける洞察力,見習いたいものだと思う.
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だまし絵について私たちがだまされるのは、
本当は正しい判断をしているからではないだろうか?
という点をいろんな研究の内容から考えている本だった。
後半は、意識と心と体は、それぞれにつながっているので、
分離して考えるよりも統合して考えるべきもの、
という話になっていた。
このあたりの内容というのは、特に目新しい、という
内容でもないので、この本を読んでも
「結局、意識とか心とか、そういうものの存在は推測の
範囲を現代でも脱していない」
ということになっているようでもある。
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意識とは何かについて、「錯誤」をキーワードに考察する。錯誤が起こっているときに脳は正しく働いており状況の方が普通でない。すなわち、「錯誤は正常な認知機能の反映である」と言える。
脳が環境に適合するように自らを変え、その結果、知覚系と行動系が環境に対して完璧に適応的なものとなる。環境が突然激変したときには、過去に根ざしたこの知覚と行動の記憶の総体が「錯誤」をもたらす。
脳は孤立した存在では無く、身体を支配し、逆に身体に支配される。
身体は一方で脳の出先機関であるとともに、その基礎でもあり、脳にとっての環境の重要な一部を構成するのである。
従って、脳だけを身体や環境と切り離して考えることは、科学の方法としては有力だが、一面的である事を認識する必要がある。また、脳の中を受け身で自動的、生理的な装置とより能動的で意図的な制御者とに分けることも間違いである。人工物(薬の類い)が身体と脳に侵入するのに伴い、逆に脳は限りなくからだと世界の方向にその触手を伸ばしながら観念のねじれと現実的な問題を発生させてくる。
脳と身体の関係につき、「錯誤」幻視、幻肢、記憶の有り様、向精神薬といったトピックスを交えその本質を探ろうとする書籍である。
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とても面白い。意識とは何かを、認知心理学の研究成果を元に考えている(99年刊なので最新ではないが)。それは、世界をいかにして認知するかという問題であり、自由意志と決定論とのせめぎ合いであり、自己と他者との参照の在り方。この一冊を読んでも題名の問いに答えることはできず、かえって疑問は増すばかりで、いかに意識の問題が曖昧で不確かで根の深いものかがわかる。
世界の認識を扱った作品・著作は数多く出ているだけに傑作も多い(例えば北野勇作の「かめくん」はいかにして世界を認識しうるかという点を思考実験として描いていた掛け値なしの傑作だし、佐藤幹夫「自閉症裁判」は現実に世界の認識の相違がもたらした不条理を描写する)。このへんと合わせて読むと話が広がってなおのこと面白い。
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<目次>
0.脳と心の全体像
1.錯誤とは何か
2.脳の「来歴」―錯誤から浮き彫りにされるもの
3.心とからだと他者―連動する脳と世界
4.意識と無意識のありか―心の全体像
5.人間観と倫理
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◎全体として何に関する本か
心を知ることは可能かどうか。我々の意識とはどこに存在するのか。そもそも意識とは何か。そういった我々の存在に関わる根本的な問題について心理学者である著者の考えを述べている。
◎何がどのように詳しく述べられているか
序章では、錯誤(同じ線分の長さが違って見える等)の例から、我々の意識がどのようなメカニズムになっているのかを明らかにする。目や脳が間違った結果として錯誤が起こるのではなく、環境にうまく適応した結果、錯誤が起こるのである。このことから、正解とは環境によって変わるものだと著者は言う。例えば、犬は色を識別できないので犬には七色の虹が見えない。しかし、我々には虹は七色に見えるので犬が間違っているのかというと決してそうではない。犬の世界では虹は存在しておらず、やはり犬も正解なのだ。
本の全体を通して心理科学的事例が数多く取り上げられており、それらを著者と一緒に考えることで「意識とは脳に存在するのではなく、脳・身体・環境に連続して存在している」という著者の主張に納得できるような構成となっている。
◎その本は全体として真実か、どんな意義があるのか
最終章「人間観と倫理」では、『プロザック現象』というものが取り上げられている。プロザックとは向精神薬と呼ばれる抗鬱剤であり、鬱病を解消する効果を持っている。これが画期的な薬で、効き目が抜群で、服用した鬱病患者は悲観的な気分が治るだけでなく、人格のバランスや人間関係も一気に良くなり、思慮深くなり、集中力も増し、仕事もはかどり、これまでの抗鬱剤と比べてはるかに優れていた。
そして、さらに画期的だった点は、健常者にまで効くところである。圧倒的多数の「病的ではないが、多少落ち込みやすい」人々が服用することで、彼らの生活も良い方向に変化し、気持ちも楽になったのである。そして、それまでの抗鬱剤とは大きく異なる点が、薬への依存性や効き目が切れたときの気持ちの反動などの副作用が一切ないことである。『プロザック現象』とは、画期的な新薬として宣伝されたため、健常者までが大量に使い始めたことで、神経学や精神科の治療の範囲を大きく超えた倫理的問題のことをいう。
著者はこのプロザック問題について様々な視点から考察しているが、結局、心理学・脳科学によってプロザックの服用を否定することはできない。眼鏡をかけて視力を矯正することと、プロザックにより脳や精神を向上させることは科学的には同等なのだ。よって、このプロザック現象は、今のところ宗教観で判断するしか方法がない。カルヴァニズムの禁欲主義により、努力もせずに快楽や爽快感を得ることは悪という感覚がキリスト教圏には根強いため、今の社会的には健常者がプロザックを服用することは悪とされる。
しかし、犬の世界では虹が存在しないことが正解であるのと同じように、正しい倫理もその時の環境によって変わるのだろう。プロザック現象を通して著者が言いたいことは、意識は脳だけではなく環境(この場合は薬の服用)にも存在しているということである。
◎一番面白かったのはどこか、なぜ自分は面白かったのか
少し前に話題になった脳科学の面白さ・奥深さが多少理解できるようになった。社会を自分の頭で考えるとき、その「意識」は脳だけに存在しているのではなく、脳・身体・環境に存在しているのだ。物の見え方や正解が違って見える錯誤などは、決して脳の間違いではなく、意識が環境に適応した正常な結果である。そして、問題の見え方や正解は、その時の環境や本人が経験してきた過去の出来事に大きく依存していることが理解できるようになる。
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[ 内容 ]
「心」とは意識のことか。
意識プラス無意識か。
では意識とは何なのか。
「錯誤」を手がかりに、脳・認知科学の最前線から「心の全体像」へ迫る快著。
[ 目次 ]
第1章 錯誤とは何か
第2章 脳の「来歴」―錯誤から浮き彫りにされるもの
第3章 心とからだと他者―連動する脳と世界
第4章 意識と無意識のありか―心の全体像
第5章 人間観と倫理
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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同著者の「サブミナル・インパクト」より先に読むことをすすめたい。
「心」とは意識のことか。意識・無意識。。意識とは何か。
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脳と身体、環境はどのように関係しているのか。
無意識と意識の違いは何か。
薬物等を利用して身体の一部を変えることは良いことか、それとも悪いことか。
これらの疑問に対して本書は、脳の「来歴」の観点から論じている。
非常に考えさせられる内容で、最後まで興味を持って読むことができた。
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友人に薦められたので読みました。
心や精神といったものは存在しないのだ…というようなラディカルな主張を展開しているのかと思って読んでいたのですが、もっと素朴に、しかも丁寧に説明されていたのでとても共感がもてました。
こころとからだ、あるいは内部と外部の境界線がうすれていく…というあたりは大森荘蔵を思い出しました。もう一度大森荘蔵の本も読みなおしてみようかと思います(ちなみに、この本の著者がどの程度大森さんのことを知っていて影響を受けたかはっきりとは書いていなかったのでわかりません)。
著者が本文でもたびたび挙げている『サブリミナル・マインド』も時間があればぜひ目を通してみようかと思います。
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ヒトには、信じたいこと、望んでいることを確認したい欲求がある。人々の大半は、自分が平均以上に知能が高く、平均以上に公平であり、平均以下の偏見しかもたないと思っている。
「誰でも自分が優れている(まともである)という証拠を欲しがっている、はじめからそういう証拠だけを探し、それに反する証拠に出会っても、無視するか、すぐに忘れる」また対話や討論の場面では、失敗を(また成功もある程度)目の前にいる他人に帰しがちな傾向がある。
人は常に入手できる手がかり、特に目につきやすい手がかりに原因を帰してしまいがちだ。手がかりがあるとか、目立つとか言うときに、そこにはすでに動機要因が強くはたらいている。人は与えられたすべてをみてから動機をはたらかせて選ぶのではなく、動機の文脈に沿わないものは「最初から見えない」のである。
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意識を孤立した脳のなかの出来事としてとらえるのではなく、脳と身体と環境との密接なつながりのなかでとらえるべきだという考え方を示した本です。
著者は、意識を孤立した脳の中の出来事とする立場では、錯誤や意志といったものを取り逃がしてしまうことを、具体的な事例を通して説明しています。さらに最終章では、向精神薬プロザックをめぐる議論を手がかりに、自由と倫理に関する重要な問題へと議論を進めています。
かつて哲学者の大森荘蔵が、現象論的な「立ち現われ一元論」という立場から、「脳産教」の批判をおこなったことも思いあわされます。本書は現象論的な立場ではなく、どこまでも実証的な認知科学の立場から、「脳産教」の前提に含まれる問題を炙り出すとともに、倫理学的な問題への展望までおこなっています。