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非−知 閉じざる思考 新訂増補 (平凡社ライブラリー)
「絶対知」が形成されるその瞬間から「非−知」が始まる。人間主義的知性が自己完結する言説の回路を解体し、認識の構造の自明性を根底から問い直す「外の思考」。哲学書房1986年...
非−知 閉じざる思考 新訂増補 (平凡社ライブラリー)
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商品説明
「絶対知」が形成されるその瞬間から「非−知」が始まる。人間主義的知性が自己完結する言説の回路を解体し、認識の構造の自明性を根底から問い直す「外の思考」。哲学書房1986年刊の新訂増補。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
ジョルジュ・バタイユ
- 略歴
- 〈バタイユ〉1897〜1962年。フランスの作家・思想家。国立古文書学校卒業。オルレアン図書館長等を務めた。著書に「至高性」「内的体験」「エロティシズム」ほか。
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紙の本
悪、エロス、死……そんなことについて「哲学的」に考えてみる入口として。
2004/02/29 00:41
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
単純なイメージとして、「悪」が「自分」を「地上」に縛り付けていることがなければ、きっと僕はどこかに飛んでいってしまうのだろうというようなこと。その意味で「悪」は「重力」みたいなものの比喩で語ることもできそうな気がすること。「悪」というよりは「罪」なのかもしれないが、きっと「悪」が「自分」と不可分であることに気づくことが人間にはあって、それが「罪」の意識みたいなものになるのだろう。それはたぶん、人を殺したから、物を盗んだから、だから「罪」があるのだとか、「悪」いんだとかいうものではない。「罪」の反義語を考えながら煩悶しているのは『人間失格』の主人公だが、それは「罰」であろうかと、ドストエスフキイを引きながら、むしろ同義語ではないのかなどといい、それはドストエフスキイには「神」があって、太宰には「神」がないということなのかという解釈はたぶん一般的なものとして流通可能であろう。
「死の教え」と題された講演草稿が、本書のなかには収められている。たとえば、難解な思想家(それでいながら何故か「自分」に訴えかけてくるところがあるように思える思想家。それはつまりその思想家が「今」に響くものを持っているということだと思う)の考えへの入口としては、「講演の原稿」やら「講義録」というのは、最良のものであると思う。わかりやすい、というのは入口としては、悪くない。(ジャック・ラカンの場合は、講義録でさえよくわからなくて、放り出してあるが……)
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こんなことを考えているのはどうしてかと自問してみるに、麻原という男の死刑判決についてニュースや新聞でイヤと言うほど目にし、耳にしているからだろうなと思う。あの事件については、やはり、誰もが真剣に考えておく必要があるのではないかというようなことは、なんだか道徳的過ぎて……(ここにすでに「悪」が紛れ込んでいる気がする)だからバタイユを読んでみたい気分になっているんだろう。
僕は哲学とか思想とかのことはよくわかっていないけれども、バタイユという人に興味らしきものを感じている人にとっては、この『非-知』という本がその入口として最適なんじゃないかなと思う。