紙の本
ベンヤミンの予言どおりの〈現在〉
2001/02/12 22:50
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投稿者:谷池真太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ベンヤミンは、複製技術によって芸術作品は伝統・祭祀からの脱却し、その時代の受容によって、芸術は芸術であるがために芸術であるという、自律性を身につけた、という。すなわち「アウラ」の喪失である。現代のわれわれには分かりにくい点もある謂である。なぜなら、われわれは当たり前のように複製芸術作品を受容し、消費しているのだから。じつはこの謂は奇妙にも中島梓と重なるのである。
評論家中島梓はその処女評論集『文学の輪郭』で、埴谷雄高・村上龍らを例に挙げ、文学はなにものによることもない文学の自律性を身にまとった、といった。これはベンヤミン、アドルノの言った複製技術という外部的な変容の課程であった技術・芸術の自律性を、日本文学のなかで村上龍やつかこうへいや埴谷雄高の作品の中にみたものである。
この事象だけをみても、ベンヤミンの視座は遠く未来の変化を的確に予言していたといえよう。もう一つ例を挙げたい。
著者多木浩二はレニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』のワンシーンを例に挙げ、機械装置による俯瞰は人間の眼のそれを上回ることを述べ、「ベンヤミンはそこからファシズムにおいて政治が芸術であるという、政治の耽美主義にいたり、その耽美の行き着くところに戦争をみていた」と結論づける。
この「俯瞰」は現代人の新感覚である超越錯覚と呼ばれる、ある時ふっと自分が自分を見下ろしている情景—幽体離脱といえばわかりやすいかもしれない—が感じられる「錯覚」と、その視点は同じである。
われわれは機械装置によって生み出された映像に、よりリアルを感じてしまうであろうこともベンヤミンは予想していたのである。
紙の本
最近刊行された文庫のなかではとりわけ期待とともに一気に読んだ本
2000/11/08 18:10
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投稿者:今福龍太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近刊行された文庫のなかではとりわけ期待とともに一気に読んだ本。文庫の書き下ろしとは、復刊の多いこのジャンルにあって、なにより魅力的なスタイルだ。そして期待は十二分に満たされた。一気呵成に書かれた気配を漂わす、きわめてテンションの高い考察。最後の2章、とりわけ、時間をかけた、認識論的にも感覚的にも多元化された経験にもとづく知覚作用をベンヤミンの「触覚的」という用語のなかに読み込み、ミメーシスと触覚、そして「くつろぎ」について展開される著者の独創的な読みは刺激的。ベンヤミンのテクストをポジティヴな発見法として読みたいという、序章の「精読」「注釈」についての著者の態度表明も示唆的。70年前の「歴史の現在」を、いまの私たちを条件づける「歴史の現在」へと接続する想像力のTaktik (触覚)のなかからベンヤミンの言う「根源」が姿をあらわすさまが、これほど明晰に思考のプロセスとして経験されたことはなかった。
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「アウラ」の定義…どんなに近くにあっても近づくことの出来ない現象。
過去と現在の芸術に関する違いを簡便に読み解いたもの。
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授業の本。取りあえず「読めた」けど「わかった」とは言い難いので頑張ります。しかしベンヤミンの論文は読んでいて違和感がなくてびっくりしました。これ本当に七十年前の論文なのか……。
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注目すべきは、
我々の価値判断がメディアによって
いかに規定されているかという点。
メディアリテラシーを問題にする上で、
ベンヤミンの方法がとても参考になる。
宗教美術は好きなのだが、
美術館に展示されるのを見るのはどうも好きではない。
たとえ自分の信仰の対象ではないとしても、
寺院に赴いて薄暗い中で向き合った方が真実が見える気がする。
ベンヤミンはこの心情を
「礼拝的価値」/「展示的価値」という言葉で説明している。
納得がいった。
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アウラを理解するのに時間がかかる。ふわふわとした表現を拾って、頭で砕いて考えてから進まないとわからない。 私はベンヤミンの考えを理解できなかった。
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■複製で稼げる「芸術作品」は複製されて仕舞ふ■
デジタルデータは複製が非常に容易であります。そこで例へば音楽CDなどで著作権と複製技術の利益が相克する状況が生じてゐるので在りますが、此れは何も今に始まつた事では無く、近代黎明期以降、「現代」は常に、それまでより複製が簡単になつた時代でありました。
題にある様に、問題の本質は、芸術作品が複製可能に成つて仕舞つた事では無く、複製可能な形で芸術作品が提供される様に成った事にあります。版権の誕生であります(それと同時に、版権所有者の利益の為に「オリジナリティ」やら「個性」と云つた様な馬鹿げた価値観が発明され、「栄誉」が「人気」へと堕落させられたのでありますが、本書の書評の範囲を越える為、ここでは指摘に留めます)。体験から鑑賞への変化と言つても良いでしょう。
従つて、其れを少々複製したからと言つて何を今更、盗人猛々しいと云ふ話でありまして、「伽藍とバザール」など最新の論考に触れるのも大いに結構ではありますが、古典に触れて自らの考へに問いかけるのも充分に刺激的でありましょう。
■原著
なほ、元著の日本語訳も文庫版が出版されており、大部では無いので併せて読まれるのが良からうと思ひます。単行本もあり。私は文庫版を持つてゐるんですが、amazonで見つからないんです。新品が欲しい人は見つけたら買いかも。
文庫:岩波文庫、ちくま学芸文庫
単行本:晶文社
→参考書評 http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/archives/2005/09/29/
→要約を公開してる人もゐたのですがリンク切れ中。
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■この本を知ったきっかけ
Twitterで『複製技術時代の芸術作品』が紹介されていた。
■読もうと思ったわけ
面白そうだったので
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「複製技術時代の芸術」を読んだ後すぐに読んだため、比較的に内容が理解しやすかった。また、テクストを細かくし、解説、そして著者自身の解釈などもあったことが理解を深めることに役立った。
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【目次】
1 テクストの誕生
日本への紹介/ことの始まり/修正されたフランス語テクスト/「古典」の注釈
2 芸術の凋落
変わりゆく芸術/二つの問題──技術と知覚/大衆の時代での芸術作品/芸術は盛りをすぎた──ヘーゲル/ベンヤミンのデュシャン論
3 複製技術というパラダイム
史的唯物論とベンヤミン/著作のネットワーク/『生産者としての作家』/芸術作品の生産装置/ダダイズムの評価/創造と受容の結合/複製という技術的パラダイム/芸術が失ったもの
4 アウラの消える日
アウラ──集団の幻想/『写真小史』/アジェの写真/知覚の役割/アウラなき世界/時代の顔──あらたな観相術/写真の政治性
5 知覚と歴史
リーグルの「芸術意欲」と「知覚論」/ウィーンの美術史家たち/知覚の二つの極
6 芸術と政治
アドルノとの食い違い/礼拝的価値と展示的価値/伝統と大衆/生きのびるための技術/「政治」を根拠とする芸術
7 芸術の知覚
複製の違い/人間と機械装置の釣り合い/無意識の知覚/映画の精神療法的効果/映画の触覚的な質
8 ミメーシスと遊戯空間
映画論による冒険/映画俳優の演技/観客の経験/あらたなミメーシス/展示的価値の政治学/映画の可能性と危険
9 触覚の人ベンヤミン
くつろいだ鑑賞/歴史的な力の中心/建築の経験/触覚的受容/触覚による思考の組み替え/大衆を朝刊する技術/遊戯性と触覚性/未熟な社会を成熟させる芸術
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(野村修訳)
ヴァルター・ベンヤミン略年譜
あとがき
*****
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ベンヤミン入門書として最良のものなのでは。最後に付随されている翻訳原版を読んでから、多木さんの精読を読んでもう一度原版を読むと、わかった気になれる。
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今さらながら、ベンヤミン。
なにか一部の人にはバイブルのような扱いを受ける、複製技術時代の芸術作品です。その人がちゃんと読んだかは、アウラについていかに話せるかでわかる。
アウラは集団内で芸術に抱く信念、共同幻想。
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ベンヤミンのテクスト自体は50ページほどで、簡易にまとまっている。
これを執筆した20世紀前半というのは、生産側が複製技術を用いることによって大量生産を行うことが可能になり、その結果として資本主義的な世界が発展していった時代だった。
そして、今現在の21世紀においては、「消費者が」複製技術を用いる事が可能になった時代であり、情報化された商品ははじめから複製される事を前提に作られる様になってきている。
ニコラス・ネグロポンテの『ビーイング・デジタル』と併せて読むと、現代の情報化社会についてより理解を深められるかも。
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とても面白かった。複製技術はどんどん進歩を経ているが、また我々は同じような課題に直面しているのではないか。今読んでも充分価値はある。
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(メモ)
筆者の解説を読んだあと,後半についているベンヤミンの本文を読むと
分かりやすい.
アウラの喪失=芸術作品のオリジナルが「一回限り存在する」「いま,ここに在る」ことの真正性がもたらす権威,重みが,写真や映画といった複製技術の登場により,感じられなくなってしまうこと.
多くの人は「アウラ」を芸術作品そのものに備わる性質だと認識しているが,筆者は社会的条件に注目し,受容者の「心的現象」,われわれが集団内で抱く一種の「共同幻想」ととらえている.
芸術作品は,原始の魔術的・宗教的儀式にあった「礼拝的価値」から,
複製技術時代の「展示的価値」に重心が移り,同時に伝統に支えられていた共同体に代わって大衆が中心となる.
写真は芸術作品を複製するのに対し,映画は機材やセットや俳優含めて複製技術の一部であり,ばらばらのフィルムをモンタージュする.そのためより改良可能性に富む反面,永遠の価値を断念することを意味する.