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紙の本
甘美な〈批評〉と〈批評〉のストイシズム
2001/01/16 00:08
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:小沢純清 - この投稿者のレビュー一覧を見る
〈批評〉を生業とするものなら誰でも、意識の水面に浮かび上がってくる言葉を、批評対象も、読者も、さらには、文法さえも一切考慮せずに、自動筆記のようにまったく無造作に執筆してみたいという密かな願望を持っているにちがいない。『甘美な人生』を読みながら、そんなことを思った。それは、福田和也氏が強い影響を受けている小林秀雄が、わが国ではじめて、〈批評〉を〈作品〉として自立させたからというわけではない。また、必ずしも、「精神の散文——佐藤春夫論」において、佐藤春夫の文章上の信条である、「しゃべるやうに書く」ことについて考察しているからでもない。むしろ、福田氏自身の批評が、“思考の澱み”や“情緒のゆらぎ”といった、批評家にとっては隠しておきたい破綻や、自意識欠乏症かと思えるほどのスタンドプレイを、敢えて(時には嫌味なほどに)記述するスタイルをとっているように思えるからである。
たとえば、福田氏は、「放蕩小説試論」を小林秀雄の批評スタイルに倣って、氏が高校二年のとき、スキー場で突然憂鬱に襲われた経験から書き出している。これは、自らの遊蕩が快楽を伴うものではないという実感を、古代の現世肯定と快楽が消失したあとの放蕩小説の誕生と重ね合わせるための装置だが、大方の読者には、金持ちの道楽息子が蕩尽の限りを尽くすことにも飽き、改心しつつも遊蕩生活がやめられない状況を、いささかの郷愁をまじえた武勇伝として語っているくだりとしか読めないであろう。
また、「批評私観——石組みの下の哄笑」や「甘美な人生」に見られる、ほとんど一、二文で改行するスタイルは、氏が論理構築を途中で放棄し、それを逆手にとって、戦略としたことを物語っているのではないだろうか。
「芥川龍之介の『笑い』——憎悪の様式としてのディレッタンティスム」のように、それ自体興味深い解釈がないわけではないが、私には、この『甘美な人生』を名著と呼ぶことはできない。氏は、幻滅や絶望が一つの〈概念〉として像を結ぶまで、自己否定による沈黙に耐え続けなければならないのではないか。「放蕩」のイメージや「甘美な」批評言語へと逃げ込むには、まだまだ絶望の仕方が足りない。〈批評〉というジャンルは、その程度にはストイックであらねばならないだろうと思う。