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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2000.10
- 出版社: 東京大学出版会
- サイズ:22cm/336p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-13-014113-9
- 国内送料無料
紙の本
表象のディスクール 3 身体
内・外、見えるもの・見えないもの、触れるもの・触れられるもの−、トポロジカルに交錯する身体の表象文化論的研究。病、性、視線、舞踏、演劇、パフォーマンスなど多くの主題に相渉...
表象のディスクール 3 身体
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商品説明
内・外、見えるもの・見えないもの、触れるもの・触れられるもの−、トポロジカルに交錯する身体の表象文化論的研究。病、性、視線、舞踏、演劇、パフォーマンスなど多くの主題に相渉って、表象としての身体の問題を論じる。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
幽霊としての身体 | 小林康夫 著 | 1-8 |
---|---|---|
ヒステリー的身体の夢 | 石光泰夫 著 | 9-32 |
アレゴリー的身体 | 香川壇 著 | 33-60 |
著者紹介
小林 康夫
- 略歴
- 〈小林〉1950年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。
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紙の本
文学、演劇、オペラ、ファッションなどを、身体表現という角度から考えると同時に身体とは何かを考える。
2001/04/20 15:16
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:上野昂志 - この投稿者のレビュー一覧を見る
たとえば、これは、ある外科医が経験した話。
彼のところに、結婚したばかりの女性が腸閉塞で入院してきた。半年前の虫垂炎の手術が原因の単純なケースと思われたので、彼はその旨を伝え手術し、成功した。ところが半年後、彼女は再び腸閉塞で入院・手術、さらに2週間後に三度、同じ病気で病院に舞い戻ってくる。医者としては、当然ながら手術の失敗を考えることになるのだが・・。実は彼女の発病には一定のパターンがあった。というのは、彼女の夫は、妻が入院すると会社を休んで看病に努めるのだが、そのぶん、妻が快復すると残業にいそしむ。そして、夫が不在勝ちになると、妻は発病するのである。断っておくが、仮病などではない。本当に手術を要する腸閉塞になるのだ。
「ヒステリー的身体の夢」と題された石光康夫の論文は、こんな事例を糸口に始まる。といっても、このような心身症、あるいはヒステリーと呼ばれる病気を、それ自体として問題にするためではない。そうではなく、そこに身体というものの不思議を見ると同時に、身体を論じるということの難しさを確認するためである。前者については、とくに説明はいらないだろう。いまでは、心がこのような病気を起こしてしまうことはよく知られているが、それでも、そういうことが起こってしまうことの不思議は、なくなりはしないのだから。問題は後者である。石光は、「身体とは、単純に心の反映だといってすませられないくらい苛烈に生きられており」、その「生々しい現実感が」、「身体をそのままでは論の対象にはならな」くしているという。つまり、身体とは何よりもまず「生きられて」いるものなのであり、一方、それを対象化するということは、近代医学がそうであったように、生きられた状態をモノとして扱うことになるからだ。あたかも、夢を語ることが、夢の生々しさを捨てて、「夢の抜け殻」を語ることにしかならないのと同じように。
実際、身体論の困難というのは、その点にある。もともと、身体というのは、日常の生活においても、病気やケガなどのような、平常ならぬ状態にないときは、それとして意識されない。その意味では、意識の外れにあるのだが、といって、これを改めて意識化しようとすると、抜け殻を手にすることになる。ならば、どうするか。そのあたりを、石光はさまざまな身体イメージを手がかりにしながら探っていくのだが、そのような論文を、「身体の転換」と題されたI章の冒頭に据えたのは、以後の展開にふさわしかったと思う。
ただ、このようにいうと、本書は、何やら固い論文集のように思われるかもしれないが、そんなことはない。続く香川檀の文章では、シュヴィッタースやハンス・ベルメールの人形が取り上げられ、松本由起子の場合は、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を中心に安吾のマゾヒズムが論じるというようにして、スタニスラフスキーの演技論や、『チャタレイ婦人の恋人』や、オペラ『ルル』や、コム・デ・ギャルソンの服や、80年代以降の日本の演劇などが俎上にのせられていくのである。だから、読者は、それぞれ自分の興味のある文章から読み始めればいい・u毆)し、そこから身体が、なぜどのように問題になるかを考えていくことができる。身体論そのもということでは、メルロ=ポンティの後期の論文を手がかりに考えを進めた小林康夫の「身体なき眼差しと世界の『肉』」という論文が刺激的であった。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.04.21)