紙の本
ひとりの男性の「生理と恥辱への折り合いのつけ方」を描きながら、アパルトヘイト撤廃後の南アフリカ社会を鏡のように写しだした秀作。
2001/02/13 15:28
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投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
二度の離婚を経験した52歳の大学教授が、出来心で関係をもった教え子から告発され、辞任に追い込まれる。職も友人も失い、レズビアンの娘が営む農場へ転がり込む。動物愛護に熱意を注ぐ人たちと不承不承につき合ううち、恥辱により失われたプライドを取り戻しそうになる。しかし、農場に暴漢が押し入り、彼はやけどを負い、娘はレイプされ、再び地の底に突き落とされたかのような苦い思いが始まる…というのが筋である。
人はどこまで堕ちていくのか、その屈辱にどこまで耐え忍んでいけるのか−−ということに興味を持つような「他人の不幸好き人間」を惹きつける本かと思って読み始める。
しょっぱなから逃げもせず覚悟よく描かれているのは、男性の性欲というもの。週に1度エスコート・クラブの女性とベッド・インして欲望をうまく処理する壮年男性の日常が描かれている。
本の帯(腰巻)に“男はエロスのしもべとなった…”とか“極上の美しき小説”という文字が躍っているが、私のように、「かなりエッチでちょっと知的」という自負を持つ女性が、官能美の物語を期待すると、まるで違う肌ざわりである。
「膀胱に尿がたまると尿意を催すのと同じように、精液がたまると男は、セックスがしたくなる。ここが女性と決定的に違う男性の生理なのである。−中略− 精液が満タンになった危険な男が、夜な夜な街を徘徊しているから、男の生理を知っている父親は娘の門限を口うるさくいうのである」という『死体検死医』の一節が思い起こされる。上野正彦先生という事件の検死や解剖をする法医学のお医者さんが書いたエッセイだ。
ロマンチックでエロチックなイメージを重視する女性の性欲と異なる、動物的で直截的な男性の性欲と性交渉が、飾られることなく終始描かれていく。「ああ、こんな局面で、こんな女の人とも関係を持ってしまうわけ?」といささか呆れるほどのフィクションには、乾いて荒涼とした土地のイメージすらある。
それだけなら〈ブッカー賞受賞〉という栄誉には輝かなかったわけで、この小説の本領は、「生理」と「恥辱」という人間にとって普遍的で、しかも極めてパーソナルな属性を描き出したとともに、主人公が行きつく先々に眺めさせられるアパルトヘイト撤廃後の南アフリカという特殊な社会の矛盾を写したことだろう。
レイプにまであって、娘はよそへ移ろうとは考えない。自分の納得いく生業を続けるため、犯人たちの目途がつきながら訴えず、それどころか犯人一味との共同生活まで計画している。アパルトヘイトという歴史が重ねてきた罪を引き受ける覚悟である。
白人の代表のような“デヴィッド”“ルーシー”という名を持つこの父娘が、「犬のように」と自分たちの恥辱をたとえる箇所は、訳者あとがきにもあるようにカフカの『審判』の最後の一行を想起させる。追い詰められながらも生きなくては仕方ないという不条理、カフカ的世界に覆われた南アフリカ。デヴィッドが大学教授として講義していたロマン派詩人やバイロンの情熱の世界とは隔世の感のある世界。
「ひとつの世界を描いてこそ文学」という考え方があるが、なるほどと深く納得できるような追い込まれ方を読者も強いられる。
紙の本
女たらしが転落した末に手にした人生とは。それでも生きねばならないと告げる非情なまでのリアリズム小説
2001/01/30 15:15
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投稿者:井上真希 - この投稿者のレビュー一覧を見る
南アフリカを舞台にした、ひと言で言えば、女たらしの男の自業自得による転落の物語である。それも「健康、頭脳明晰、職業は学者、長躯、体格よし、明るい褐色の肌、なめらかな髪」の強力な武器を備え、どんな女でも惹きつけられると自負して遍歴を重ね、離婚歴が2回で52歳の現在は独身の、かなり「上等な」女たらしだ。
誰にも平等に訪れる老いが彼の「磁力」を鈍らせるようになった時を境にして、自分から女を追いかけ、手当たり次第に漁り、娼婦を買って欲望を満たさねばならなくなっていたわが身を客観視できずに、教鞭をとるケープタウンのカレッジで自分の講義を聴く女子学生に手を出したのが、彼の大きな誤算だった。閑静な住宅街にある自宅に誘いこみ、モーツァルトをかけながら、ワインとチーズと手料理でもてなし、シェイクスピアのソネットを引用して誘っても、30歳以上年齢の離れた若い娘にはまったく通用せず、逃げられる。それでもなお、もてあました劣情にかられて執拗に追い回した結果、彼女はものにできたが、大学にセクシャル・ハラスメントで訴えられ、謝罪するどころか、自分が講義するバイロンの詩「ララ」の魔王(ルシファー)よろしく、エロスの神に従ったまでのことだと述べて解雇される。
身の破滅を招いた顛末を恥辱と思いこそすれ、自責の念は抱いていない男は、娘の暮らす東ケープ州の農場に向かい、そこで娘ともども衝撃的な事件に見舞われる。さらに、人種隔離政策(アパルトヘイト)撤廃後も田舎でくすぶる問題に直面し、それを受け容れる娘の生きざまを目の当たりにして、男の意識には変化が生じざるを得ない。
女性、殊に若い女性、あるいは娘をもつ父親からすれば反吐の出るような男を、同性の著者が非情なまでに冷徹なリアリズムで描写し、生々しい悪感情を呼びおこすことに成功している。物語中では、離婚後も連絡を取り合う前妻と、先妻との間にできたひとり娘とが、女性の心情を代弁する。
ワーズワースを論じながら、田舎暮らしの良さは分かっていなかったばかりか、何についても眼識などなかったことを思い知らされた男に対して、著者は追及の手をゆるめることなく試練の日々を綴り、最後まで明確な赦しを与えない。ただ茫漠と浮遊するように、男の生は続いてゆくことが示唆されるのみである。
そのなかで描かれる男と女、教師と学生、父と娘、白人と黒人、農園経営者と小作人、人間と動物などに象徴されるさまざまな対立は、一方の他方に対する特権や屈服の存在する現代社会に普遍的な問題として読者に迫り、結末のない物語は閉塞した現在と非常に通じている。男が構想するバイロンとイタリアの恋人を主人公にしたオペラや、多くの詩や小説からの引用が重層的に織りこまれて、作品に知的な深みを与えている。
前人未到の2度めのブッカー賞受賞作として内外から高い評価を得ている本書の帯には、英語圏のメディアによる文体のもつ美しさ、優れた感性を賞賛する言葉が連ねられている。贅肉のない原文を損なわないよう簡潔に訳出されているにしても、英語のクールで美しい文体を堪能できないのが残念だが、「恥辱にまみれた時代に生きる者への哀悼をこめた魂の記録」(「ニューヨーカー」)という評には大いに共感する。どんな形であれ、いかなる時代であれ、人間は生きねばならないのだと告げているのだ。 (bk1ブックナビゲーター:井上真希/翻訳・評論 2001.01.31)
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編集部コメント
2003/10/03 21:51
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投稿者:早川書房編集部 - この投稿者のレビュー一覧を見る
2003年10月2日、『恥辱』のJ・M・クッツェーに本年のノーベル文学賞が贈られるとの発表がありました。
J・M・クッツェーは『マイケル・K』につづき、1999年に『恥辱』で史上初の「二度目のブッカー賞受賞」を果たすなど、かねてよりその文学性が高く評価されており、満を持してのノーベル賞受賞と言えるでしょう。
まずは1頁目を開いてみてください。この鮮やかな出だしに「おぉっ」と唸る方も多いと思います。これまでクッツェーは、寓意的な作風や南アの複雑な社会構造のなかで生きる人々の哀しみ、暴力性などを浮き彫りにする表現などで知られてきましたが、本書は「セクハラして転落していく男」という、ひじょうにわかりやすい作品になっています。つい引き込まれて読みはじめると、身勝手な主人公デヴィッドに「なんと情けない人間なのだろう」と憤慨することでしょう。でも、いやなやつだと思いながらもページを繰らせてしまう不思議な魔力が、この作品にはあります。
日本では刊行以来、読者からの反響も大きく、特に男性からは「身につまされて一気に読んでしまった」とたくさんのハガキが寄せられています。ほかにも「最低の男だと思っていたのに、読み進むうちに気がついたらほだされていた」と、よろめいてしまった女性読者も続出しています。主人公デヴィッドの危険な魅力をご堪能ください。
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ヨーロッパ知識人の血脈をしぶとく生きていたはずだったのに、気がつくと少しずつ南アフリカの土地に吸い込まれそうになっている中年のスケベなじさまの話。見方によっては恐怖小説かも。
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公私共に盛りを過ぎた大学教授が、欲望のままに流れ告発されるが、プライドをたのみとして自己破綻を受け付けず、地位と名誉を失う。その意味を知るのは、その後転がり込んだ先で娘に起こった事件処理の到底受け入れがたい理不尽さに生きることからである。「もっと上等な生活なんてどこにも無い、あるのはこの生活だけよ」と、その環境を選択した娘はいう。
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何度読んだかわからないのに、なぜか真っ先に思い浮かぶのはラストシーン。奇妙な反応なのかもしれませんが読み返すたびに背筋が凍ります。
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2003年のノーベル文学賞はクッツェーが授賞した。その記事を目にしてから直にインターネットで彼の本を2冊注文したのだが、あっという間に在庫が品切れ、入荷日未定で2冊とも手に入らないことになる。現代社会における情報の伝達スピードに改めて驚愕していたところ、2冊のうち1冊だけの注文が受け付けられたままになっていたようで、ひょっこりとこの「恥辱」は手元に届いた。現代社会における情報認識のあいまいさをも改めて知ることとなった。
この本を読んで共感を得ることができる人というのはどの位いるのだろうか。南アフリカという特殊性を理解した上でないと、この作品を語ることはとても難しいのだろう。しかし、そのことを差し引いても、帯に並ぶおびただしい賛辞の渦とはうらはらに、この主人公の恐ろしく冷徹な視線、恐らくそれは著者の視線とも重なるのだろうものからは、得体の知れない気持ちの悪さが湧いてくる。
この物語は一人の男の転落の道筋を描いている。男の感情が大きく表に出てくることはなく、言ってみれば男は常にやられっぱなしである。だれ一人、男の心情に深く共感をするものすらいない。煮えきらない。傷をなめるような行為。擦り切れていく感情。その転落の中で必死に一つの文学作品をまとめ上げようともがく姿は滑稽ですらあるのだが、そのことだけがいつも男の頭から離れない。ここに、この男のこれまでの人生の矛盾が端的に集約されている。
男は初老の大学教授であり、若者が興味を持つことのない文学を教えている。過去には世間に認められた評論をものにしたこともあるのだが、創作、ということにこだわりがあるらしい。その落差がボディブローのように効いてきて、男の自堕落さを助長しているようだ。あるいはそれは、モーツァルトの天才を完全に理解しながら、自らはその境地に達する音楽をものにできないサリエリのような人生ともみることができる。
人生の悲惨さを描きながらも、それを昇華するような態度で作品にすることができるカーヴァーから感じる暖かさというようなものが、クッツェーのこの作品には一切無い。主人公の中で少しずつ何かが変わっていくような兆しは描かれるが、本質的にこの作品には冷徹さが満ちている。冷静、ではなく、冷徹だ。
確かに、恥辱は消し去ることができない。どんなに忘れたと思っても、ふとしたきっかけで思い出され、思わず身震いをしたくなる気分に襲われる。それは、誰にでもあることだと思う。それを克服するにはその恥辱と対峙することが必要なのだ。そして自分の足元を見つめ直す作業が。もちろん、それがいつでも可能なわけではないが、この作品の主人公にはトラウマを見つめ直す勇気が全くない。それがリアリティだと言われればそれまでだが、フィクションである文芸作品にそこまでのリアリティを追求するべきなのか。読者はそれを求めているのか。この作品には、とても質の悪い前衛的なもの、あるいはアナーキーなものを感じてしまう。
音楽にも耳あたりのよい音楽がある一方で、現代音楽のように試行錯誤的な雰囲気に満ちた作品というものもある。どんなジャンルであれは共鳴するものもそうでないものもあるのだが、祈り、のようなものが伝わってくる音楽には、シンパシーを感じることができる。一方で、自らの欲望を表出することだけを目的とした音楽には空々しさを感じ、拒絶反応が起こるのを止めることができない。この恥辱という作品は、どうしても後者の範疇に属してしまうような気がする。
音楽にしろ文芸作品にしろ、何かメッセージをそこに見いだそうとする癖が、自分にはある。迷路に迷わないようにもともと自分のいた場所を振り返りつつ何を感じているのかを反芻するような作業が癖だ。内包されるメッセージを読み違えている場合も多いだろうが、この作品には、感じ取れるものが少ない。敢えて言えば、恥辱に感じるものは「無」である。それもある意味で、とても青臭い「無」なのだ。虚無と言ってもいい。もしそのことに大きな人生の価値があると考えるならそれでもいいが、成長を許されなかった尾崎豊の悲劇、というようなものがそこには必ず存在する、と自分は思う。そのナルシズム的な甘美さも否定はしないが、そのことだけで人生をしめ括ることはできないのだ。その自虐的な行為の、一過性の美、というものを越えて、自分の過去に責任を持つという健全さの中にある善を求めること、そこにこそ自分を共感させるものがある。その何かを「恥辱」には読み取れない。
南アフリカの抱える複雑極まりない問題群をリアリティにより描ききる、という意味ではこの作品はとんでもなく成功しているのだろう。その現実から目をそらさない態度は、認めてよい。しかし、その先はどこへ行こうとしているのか。その出口の見えなさが、不満である。あるいは、そのことに不安を抱かせることによって現実逃避をしない視線を読者が持つことを著者が目指しているのであれば、自分はその意図にはまったということだけなのかも知れない。
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序盤、主人公教授が気もち悪くて読むのやめようかとおもったけれど、あっけなく転落したから読み進めたんだけれど・・・・。
読みやすいし面白いから2日くらいで読めたのに、すごく疲れた。
登場人物全員、理解できる人間が一人もいなかった。
なんだかどんよりするなぁ。
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不思議な話だった。最初はありふれた話なのかと思いきやアフリカに行ってからどんどんずれていってしまう。いままでに味わったことがないような奇妙な感覚に引きずられる。近代個人主義の敗北ともいえるのかもしれない。私たちは土俗的な慣習から自由にはなれないのかもしれない。そして、何が恥辱となるかは個人や文化の問題なのだ。
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J.M. クッツェーは、南アフリカ出身のノーベル賞作家。
本書、『恥辱』は、『マイケル・K』に続く二度目のブッカー賞授賞作品。大学教授である52歳の男が、教え子に手を出し、大学を追われたのち、身をよせた娘の農場での出来事を描いてるもの。『恥辱』を読むことで南アフリカの社会的問題が、それほどみえてくるのかと問われると疑問だが、父と娘の親子の繊細且つ微妙な関係や、女性の自立の問題や老いへ向う人生観などクッツェーの投げかけるテーマは多い。
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この主人公を一目?で好きになれる人はそうそういないのではないでしょうか。こういうタイプの主人公は、日本では去年出版されたイアン・マキューアンの「ソーラー」に似ていますね。
こっちの方が苦いと思いますが・・
バイロンのオペラが完成するのか、完成するとしたらどういう風なのか、考えてしまいます。ラストも、決してオチているわけではないのですが、不思議にカタルシスを味わえる最後だと思います。
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途中これはどうなるんだろうかと結構のめり込んで読んでいたのに完全に肩透かしを食らわされた感あり。
主人公と読者の彷徨のシンクロナイズを狙ったんだろうか?そんなことないよなぁ、、、とにかく読者に考え込ませるのではなく、ただ沈黙に陥ってしまう感じかな。
ところで、日本語訳で娘が父を絶えず「あなた」と呼び続けていたんですけど、これは両者の絶対的距離感を表現するための選択だったんでしょうか?何か違和感を感じなくはなかったけれど、まさかyouをそのまま訳してみましただけみたいなことはないですよね、、、
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わたしには難解な小説だったような読後感。ブッカー賞を2度 ノーベル賞も受賞した作者、初めて読んだけど、やはり文化や環境の違いですんなり理解できないもどかしさが強かった。それでも引き込まれて一息に読了。話は南アフリカを舞台に大学教授職も友人も家族も自らの不始末で失っていく初老の男が安寧を求めた娘の住環境にも馴染むことが叶わず彷徨いが続く。
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序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。
原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?
主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。
小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?
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えっ、ちょっと待って、これでおしまい?置いてきぼりを食らったような結末。
性欲をコントロールできない孤独な初老のインテリ男。自分のセクシャルハラスメントを美しい文学で粉飾し正当化する。そして、大学から追放される。
娘の身の処し方は常識では理解し難い。しかし彼女にとっては大事なものを死守するための唯一の選択肢。犬になってでも守るべきものがあると。
犬のような彼は犬の運命を自分の手中にする。
読後、主人公に対しての共感は皆無。作者も読者に対して共感を求めていないはず。苦々しい読後感。男の欲望丸出しのセクシャルハラスメント、それを正当化することに利用される文学、暴力と凌辱による植民地主義への反抗、それを受け入れてでも自分の土地と生活を死守しようとする現代の若者の生き方…