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男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望
著者 イヴ・K.セジウィック (著),上原 早苗 (訳),亀沢 美由紀 (訳)
シェイクスピアからディケンズにいたる代表的なテクストを読み解き、近代における欲望のホモソーシャル体制と、背後に潜む女性嫌悪、同性愛恐怖を摑み出し、ジェンダー研究におけるパ...
男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望
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商品説明
シェイクスピアからディケンズにいたる代表的なテクストを読み解き、近代における欲望のホモソーシャル体制と、背後に潜む女性嫌悪、同性愛恐怖を摑み出し、ジェンダー研究におけるパラダイム転換をもたらした画期的著作。【「TRC MARC」の商品解説】
シェイクスピアからディケンズにいたるイギリス文学の代表的テクストを読み解くことによって、近代における欲望のホモソーシャル/ヘテロセクシュアルな体制と、その背後に潜む「女性嫌悪」「同性愛恐怖」を掴み出し、文学・ジェンダー研究に新生面を拓いた画期的著作。【商品解説】
目次
- まえがき
- 謝 辞
- 序 章
- 1 ホモソーシャルな欲望
- 2 性の政治学と性の意味
- 3 性か歴史か?
- 4 本書が論じるもの
- 第1章 ジェンダーの非対称性と性愛の三角形
著者紹介
イヴ・K.セジウィック
- 略歴
- 〈セジウィック〉イェール大学大学院修了。デューク大学教授を経て、現在、ニューヨーク市立大学大学院教授(英文学)。著書に「クローゼットの認識論」など。
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この本を読むことで、最後期のディケンズを少し知ることができた
2009/05/29 21:25
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は専門的な文学論であり、たとえば対象になっているイギリス文学にしても、読者があらかじめ内容・ストーリーを知っているという前提で分析される。つまり、あらすじなどを記すような親切な書き方はしていない。
分析の対象となっている小説のほとんどは邦訳が刊行されていて、読もうと思えば読むことができる。翻訳年は、初訳かどうかは未確認だが、スターン『センチメンタル・ジャーニー』1984年、ジェイムズ・ホッグ『義とされた罪人の手記と告白』1988年(邦題『悪の誘惑』)、ジョージ・エリオット『アダム・ビード』1979年、サッカレー『ヘンリー・エズモンド』1948年(邦題『恋の未亡人』)、ディケンズ『我らが共通の友』1997年、同『エドウィン・ドルードの謎』1977年、などである。
だが私は最後のほう、ディケンズについての章になるまで、ほとんど対象とされている小説を読む気にはならなかった。
引用文などからディケンズに興味をもち、『我らが共通の友』は長いので、『エドウィン・ドルードの謎』を平行して読むことにした。
セジウィックの文章、分析は一筋縄ではいかない。読むほうの用意が要求されるから、ディケンズの章に至るまでは少し退屈した。
ディケンズには不思議な力がある。かつて1969年、筑摩世界文学大系の一冊として、長大な『荒涼館』が丸ごと入ったディケンズの巻が刊行されたが、もし私がそれを読んでいたら、その後、彼の小説に対して異なる対応をしていた可能性がある(ヘンリー・ジェイムズを読み続けた私は、セジウィック『クローゼットの認識論』所収のジェイムズ「密林の獣」論はすでに読んでいる)。
ともあれ本書は、男の同性愛が、家父長制という女性差別のシステムに、どのようにかかわっているかを文学読解のなかで検証したものだと言えよう。
その場合に、男同士の世界というか共同体にとっての利益のために、女性軽視の婚姻、必要性としての同性愛恐怖が著者によって考えられる。
そして女同士の世界は男のそれとは非対称的で、同性愛恐怖が見つけにくい、というのがセジウィックの意見である。
1977年に書かれたらしい解説のなかで『エドウィン・ドルードの謎』の訳者、小池滋は、《私見によれば、エドウィンとジャスパーの関係は、甥と叔父の関係であると同時に、ホモセクシュアルの関係にあったのだろう》と指摘しているが、さまざまな研究のなかに、そうした推測はない、と続けて記しているので、セジウィックが1985年に本書を著わすまで、ディケンズ研究のなかでも本格的に同性愛をテーマにしたものは、あまりなかったのだろう。
ディケンズ最後の、そして未完の『エドウィン・ドルードの謎』はミステリーとも言える小説で、高慢な青年エドウィン・ドルードが行方不明になり、殺されたらしいと分かり、彼と仲が悪かった若者が疑われる。けれど読者が犯人だと思うのはエドウィンの後見人的な若い叔父ジョン・ジャスパーである。彼はエドウィンの美しい婚約者ローザをひそかに好きで、そのための犯行のように読める。
ジャスパーによるローザへの異常な執着の言葉は『男同士の絆』第10章の冒頭に引用されているが、おそらく従来、そうした横恋慕のために甥を殺したと考えられていた。
だがセジウィックは、ディケンズの前作『我らが共通の友』と比較しつつ、こう書いている。《そしていずれの女性も本能的に次のことに気づいている。すなわち、殺意に駆られたこの男は、自分では彼女を愛しているつもりでも、実は他の男との激しい意思のせめぎあい――彼女にとっては筋違いで害にしかならない戦い――のための数取り札として彼女を利用しているにすぎないのだ、と。》
ここに、作者のディケンズ自身にすら正確なかたちでは把握していない、男たちのホモソーシャル(ジャスパーとエドウィンの関係)、およびミソジニー(女性嫌悪)とホモフォビア(同性愛恐怖)という、セジウィックのホモソーシャル論を支える構図が見事なまでに描かれていると言えるかもしれない。
だが私がこの理論に今ひとつ乗れないのは、このディケンズ論においてで言うと、ジャスパーのエドウィンに寄せるホモセクシュアルともいえる愛は、家父長制社会の、男たちを利する、男同士の絆に直結するものなのかという素朴な疑問のせいである。さらに、ホモソーシャル理論は、そういうこともありうるだろうとは言えても、すべて妥当なものかは疑わしい、という感じがする。どうしても、男同士であれ、愛はペアのもので、それは共同体所属の利益的意識とは背反するものだと思うからだ。
だがそうした疑問が現代からの視線に過ぎない、ということを多分、著者セジウィックは分かっている。
セジウィックは、たとえば無闇に「男根主義者」というレッテルをロレンスやヘンリー・ミラーに貼った『性の政治学』のケイト・ミレットのように粗雑ではない。だが繊細あるいは精緻すぎるため分かりにくいところが多い。再読を強いる分析の手並みを認めながら、再読しても読解不可能な批評的跳躍を時に感じてしまう。
『クローゼットの認識論』の訳者あとがきには、《太った女性、子供を産んでいない女性、ある面ではクィアな女性と自認するセジウィックは》と、著者の風貌の一端が伝えられているが、彼女の他の著作の翻訳が待たれる。
紙の本
「男同士の 絆」の変遷 文学で
2023/02/28 22:27
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:清高 - この投稿者のレビュー一覧を見る
内容・評価
本書を読むきっかけとなったのは、2023年1月2日にNHK・Eテレで放送された「100分de名著 100分でフェミニズム」で、上野千鶴子が紹介したことである。
そこで上野が言ったことと重複するだろうが、筆者なりにまとめると、本書は、主にイギリスの文学(戯曲、小説)の読解を通じて、「男同士の絆」(本のタイトル)がどのように変化したかを論じた本である。「男同士の絆」は、時代、階級、ジェンダーにより変化するもので、貴族社会においては同性愛も認められていたが、ブルジョアジーが勢力を増すにつれ、同性愛が嫌悪される一方、異性愛とされるものでも、女性は交換するものにすぎず、それよりも、ホモソーシャルの方が重要視される様を書いたものである。
「100分de名著 100分でフェミニズム」を見た人にとっては、全体の趣旨がわかっているので面白く読める本ではある(この点は5点)。しかし、主にイギリス文学を扱っており、その知識がないと苦しく感じた(筆者は、例えば『田舎女房』という戯曲は知らなかった)。この点で1点減らして4点とするが、フェミニズムに興味のある人は面白く読めるかもしれない。
紙の本
上野千鶴子と浅田彰の蒙を啓いた画期的理論書。
2001/05/30 18:17
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:服部滋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
<セジウィックによってホモソーシャルとホモセクシャルの概念的な区別が登場したことで、目から鱗のような大きな転換がおきました>と語っているのは上野千鶴子さん。<浅田彰さんなんか「上野さんはホモソーシャルとホモセクシャルを混同してたんだよね」って軽く言うけど、あんただって、分かってたわけじゃないでしょうと言いたくなる。(笑)>(竹村和子さんとの対談、『現代思想』1999年1月号)
アカデミズムの二大知性を震撼させ、「ジェンダー研究」にパラダイム転換をもたらした本書の、ではいったい何が「目から鱗」だったのか。
私たちの生活している社会は、男のインタレスト(利益=関心)が優先される仕組みになっている——たとえば「仕事か、結婚か」の二者択一で悩む男はいない、ということですね(寿退社というオプションは、男にはうらやましかったりもするのですけど、これはこれで結構リスキーな選択だったりもします)。これを家父長制社会、あるいは父権性社会といいます。
で、その家父長制社会には、強制的異性愛が組み込まれている、というのが次のステップ。異性愛者というマジョリティが、異性愛が「自然」であると、あの手この手で幼児期から異性愛イデオロギーを押しつける。その結果、同性愛者は「自分はヘンタイじゃないか」と悩んだりすることになる。つまり家父長制社会では<同性愛は必然的に嫌悪されることになっている>わけです。これをホモフォビアといいます。なぜ異性愛イデオロギーを押しつけるかといえば、家父長制社会では、<女性を交換可能なおそらくは象徴的な財として使用>するからです(これはレヴィ=ストロースの人類学的知見によるものです)。
ホモソーシャルとは<同性間の社会的絆を表す>用語ですが、家父長制社会においてはとりわけ男同士の絆が緊密であり、そこにはホモフォビアと、もうひとつミソジニー(女性嫌悪)が顕著である、とセジウィックは書いています。男同士の絆が緊密であればあるほど、同性愛とまぎらわしくなる。そこで「ホモソーシャルとホモセクシャルを混同してたんだよね、ごめんごめん」といわれないために、彼らは同性愛を嫌悪し、徹底的に排除する。
一方、女は男同士の絆をおびやかす存在として排除される。つまり<女性は、男同士の絆を維持するための溶媒>であり<男性に奴隷のように隷属する>かぎりにおいて存在が許されるわけです。「女性と奴隷は同類であり共生している」とハンナ・アーレントがいったように。こうして、ホモソーシャルとホモセクシャルを概念的に区別することによって、ジェンダーの権力支配のシステムが明確になったわけです。
本書は、シェイクスピアからディケンズにいたる文学作品の読解を通じて、家父長制社会におけるホモソーシャルな体制を明らかにしてゆくわけですが、サブタイトルに「ホモソーシャルな欲望」とあるように、ホモソーシャルとホモセクシュアルとは一方で<潜在的に切れ目のない連続体を形成している>。この連続体については、本書の続編ともいうべきセジウィックの『クローゼットの認識論』(青土社)から引いておきます。
<男性のヘテロセクシュアル・アイデンティティと近代の男権主義文化とは、それら自体を維持するために、広く行きわたりしかもそもそも男性に内在する同性間欲望を、スケープゴートにするような形で顕在化させることを必要とする>。つまり、自らの欲望を外化してホモセクシュアルに投射し嫌悪する、こうしてホモフォビアが構築されるわけですね。やれやれ。
セジウィックは、この<公式>を安易に使って論文を書いちゃだめよと戒めている。<各自が極めて綿密な分析を行う必要がある>と。わかりましたか、学生諸君? (bk1ブックナビゲーター:服部滋/編集者 2001.05.31)