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  • みんなの評価 5つ星のうち 4.5 4件
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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2001.3
  • 出版社: 冬弓舎
  • サイズ:19cm/269p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:4-925220-02-0

紙の本

ためらいの倫理学 戦争・性・物語

著者 内田 樹 (著)

「戦争論/戦後責任論」、「フェミニズム/ジェンダー論」、「他者/物語論」という3つの大きなテーマに分け、フェミニストとポストモダニストについてユニークに論じる。Webサイ...

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ためらいの倫理学 戦争・性・物語

税込 2,200 20pt

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商品説明

「戦争論/戦後責任論」、「フェミニズム/ジェンダー論」、「他者/物語論」という3つの大きなテーマに分け、フェミニストとポストモダニストについてユニークに論じる。Webサイトで発表された22本を収録。【「TRC MARC」の商品解説】

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みんなのレビュー4件

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評価内訳

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紙の本

「理性としての身体」を生きるために

2001/05/12 14:45

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ホセ・マッチョス - この投稿者のレビュー一覧を見る

 理屈ではなく身体感覚として確信していることをバカ正直に思わず口に出してしまい、それが世の中の大方の意見や上司や指導教授や先輩などの考えとはそぐわずに頭ごなしに反論され、罵倒され、貶められてしまうことがある。普通に生きているだけで、そういう場面に遭遇する機会はこと欠かないだろう。そんなことを繰り返しているうちに人は、自分で考えることにだんだんと自信が持てなくなり(というよりもうんざりしてしまい)、ついには本当のバカになってしまうようになる。
 そういう真性バカへのチャートにのっかるよりも、たとえば、波に乗っていた頃の高橋哲哉の本などをわからないながらも熟読し、身体が拒否しつつも自分の意見として無理矢理に取り入れ、そのうえで、他人に向かって知ったかぶりをすることの方がはるかに利口な生き方に違いない。しかしそれは、安易ではあるが情けない生き方である。そういう愚かな選択をあえてしてしまうのはどういう人なのだろう。おそらく、なんらかのコンプレックスをバネとしつつ、知識人という勝者のフリをしようと努め、それによって、社会的勝者たらんとする欲望に惑わされている人なのだろう。なんとも、楽しくない生き方だ。
 著者の内田氏はそういうところからもっとも遠いところにいる。彼のなかには、コンプレックスを成り立たせている構図(父権制イデオロギーなど)がかけらもないから、たいした拒否反応もなく仮性バカを演じることができ、身体感覚として確信している持論を自信をもって開陳することができる。実にうらやましい生き方だ。また哲学(主にレヴィナス)を、自分を惑わしたり他人を幻惑させたりすることを目的とせずに、実際の生活においてどのように運用すればいいのかをわかりやすく示してくれているところもすばらしい。
 武道をたしなむ著者だから「理性としての身体」を生きることができるのか、その逆なのか、いずれにしても、不可解な自分をよく見つめ直すことによって他人の不可解さにも思いを致し、そこに「愛」を芽生えさせる著者の生き方は、新しい世紀を迎えてついに日の目を見ることとなった(ちょっと大ゲサか)。

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紙の本

それをユーモアと呼んでもいい

2001/12/24 21:46

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 折に触れ思い出し、間歇的に反芻するほど慣れ親しんでいるのだが、ふだん殊更あらためて意識し、突き詰めて考えることもなくやり過ごしている漠然とした感じ。異和(いやな感じ)であれ親和であれ、そうした曖昧かつ朦朧たる思想の種のようなものの実質を鋭く問い、十全・柔軟に展開し、明晰・精緻に言語化した文章にめぐり逢うことは、読みに時たま訪れる奇跡である。内田樹のエッセイ群はまさにそのような至福の時を与えてくれた。それは、私自身の思考の質を発見することでもあった。

 倫理とは、曖昧に耐え二律を生きることである。若くして(?)私はそのように喝破した。決断主義的に旗幟を鮮明にし立場に拘泥する(拘束される)くらいなら、優柔不断の誹りを甘んじて受けよう。──それは「超越論」的と呼ぶべき態度だったのかもしれない。フロイトに関して内田が語る言葉を使うなら、それが事実であれ幻想であれ、「経験が「事実」として生きられているということの重要性を、客観的な事実性とは「別の次元」で認知しようと」(36頁)する態度。あるいは語りの内容より語り方そのものを問う態度。

 それをユーモアと呼んでもいい。実際、内田の文章には上質のユーモアの薫りが縫い込められている。ユーモアとは「「自分は間違っているかも知れない」と考えることができる知性」(111頁)が醸し出すものの別名だ。倫理とは知性である。

 もはや若くない私は、本書を読み終えてそのように考えている。知性は「酸欠」や「泥酔」によって「蒙昧」に陥る(110頁)。知性は身体と不即不離である。そもそも「ふだん殊更あらためて意識し突き詰めて考えることもなくやり過ごしている漠然とした感じ」こそ身体がもたらす経験であった。内田樹のエッセイは、身体=知性が紡ぎだした物語である。そのことに私の眠れる身体=知性が感応したのである。

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紙の本

「ためらい」の必要性

2001/04/21 02:41

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本書のタイトルにもなっている「ためらいの倫理学」は、『異邦人』の作家カミュについて論じたものである。この中で、内田氏はカミュの暴力論を「ためらいの倫理学」と呼んでいる。そこで、まずこの「ためらいの倫理学」とは何かを確認しておきたい。なぜなら、本書全体がこの「ためらい」という言葉に貫かれているからである。
 まず、『異邦人』という作品が問題にしたことは何かというと、「私たちは人を殺すことができるか」ということであった。そして、作者はこの問題を肯定的に答えた。『異邦人』では条件さえ整えば、人を殺すことが出来るという立場をとったという。
 しかしながら、カミュは対独協力者の粛清を経験し、条件さえ整えば人を殺すことが出来るという立場を放棄することになった。カミュは、「異邦人のモラル」から、「正義のためらい」を語ることになるという。その「ためらい」とは何か?
 『異邦人』では、なぜ人を殺すことが可能なのか。その条件とは何かというと、「均衡性のこだわり」である。つまり「平等性」が達成されれば、人を殺すことができる。そこで『異邦人』では平等であることが執拗に求められるのだ。
 しかし、『異邦人』でムルソーが殺人が可能になったのは、平等性が確保できたからだけではなく、相手の「顔」を見ることがなかったからだ。今、まさにすべての条件が整い、暴力を執行しようとした瞬間、その相手の「顔」、こちらをまっすぐに見返してくる「顔」を見た後、それでも人を殺すことが出来るだろうか。ここにおいて「ためらい」が生じる。だから暴力は不可能だと言いたいのではなく、「「殺すもの」と「殺されるもの」が最終的局面において顔と顔を見合わせるとき、そこには「殺すな」という訴えがあり、殺すことへの抑えがたい「ためらい」が生じる」とし、「もし暴力を効果的に制御しうるとすれば、それは信仰の完成でも階級社会の廃絶でもなく、この「ためらい」を思想の準位へと繰り込む知性の努力ではないのか、カミュはおそらくそう問うている」(247p)と内田氏は述べる。
 そしてこの「ためらい」は、内田氏の評論のもとになっていると思われる。何らかの「正義」が行われるとき、その行為の主体は、なんの「ためらい」もなく行うことが出来るのか。要するに、「正義」を行う自分自身は、自らを振り返ってみて何の汚れもないと言えるかということだ。
 たとえば、スーザン・ソンタグの批判を読んでみる。ソンタグは、大江健三郎との往復書簡でNATO軍の空爆を支持する。それは、「ジェノサイド」を阻止するにはそれしかないからという。そして、ソンタグは「私はこう考えざるを得ませんでした。だれが戦争を起こしているのか、だれがジェノサイドに手を染めているのか。」と書いている。こうしたソンタグの「だれか」を特定するロジックに対し、内田氏は、この「だれか」の中に自分自身を含めていないことを批判する。すなわち、ソンタグの思考には、自分が戦争を起こしたのかもしれないという思考が欠けているというのだ。
 自分自身を思考の外においたソンタグには、「ためらい」がない。したがって、なんのためらいもなく「正義」を主張することができる。
 一方で内田氏は、自分の語る内容から自分自身を切り捨てることはない。自分が「邪悪である」「ぜんぜん知的でない人間である」可能性についても探る。したがって、内田氏の文章には「ためらい」が感じられるのである。なんの「ためらい」もなく、有無を言わさず「正義」を断行するよりも、こちらのほうが共感が持てる。自分自身の無知、邪悪さを把握して、それが世界にどのような害をもたらすのかということを思考する態度。この「ためらいの倫理」的態度が、これからは必要になるのではないだろうか。

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紙の本

前編:私たちは人を殺すことができるか?

2001/06/20 18:17

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:服部滋 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 ためらいの倫理学とは何か? 著者は本書の末尾におかれた比較的長い同名論文でこう書いている。「カミュの暴力論——それを私たちは「ためらいの倫理学」と名づけようと思う——は顧みられなくなって久しい」。今頃なんでカミュなの? サルトルにコテンパンにやられちゃった小説家でしょ。実存主義だって時代遅れだっちゅーに、不条理なんて超アナクロじゃん。と、思った人、ちょっと待ってほしい。ここには、私たちが現在直面しているさまざまな問題を解く鍵がひそんでいる。「なかなか伝説どころの話ではないのだ」(ランボー)——。

 『グリーンマイル』という映画をご覧になった方は多いだろう。少し前に『デッドマン・ウォーキング』という映画もあった。いずれも死刑執行の場面が描かれている。ガラス窓を隔てた向こうでは、いまにも処刑が行われようとしている。そしてこちらでは、被害者の近親者が息を飲んでそれを見つめている。自分の愛する人を殺した憎むべき奴が目の前で死んでいく。あいつが死んでも愛する人は帰ってきはしない。でもあいつがのうのうと生きている限り死んだ人間は浮かばれない。これは正義の執行なのだ。私にはそれを見届ける義務がある——。
 ぼくは死刑廃止論者ではない。かといって死刑に積極的に賛成というわけでもない。自分の切実な問題として考えたことがないので、どちらがいいともいえないというのが正直なところだ。そういう人は多いと思うが、上に掲げたような死刑執行の場面には、なにか違和感を覚えないだろうか。なんだか「いやな感じ」がする。それをカミュは「反抗」と名づけた、と著者はいう(別に死刑執行の場面を例にあげているわけじゃないですけど)。

<なんらかの「全体的な」真理や、異論の余地なき正義の名の下にテロルが執行されるとき、テロルに条理があることを認めている場合でさえ、ぎりぎりそれが現実のものとなるとき、「真理の暴力性」や「正義の過剰な峻厳さ」に「なんだかいやな感じがしてたまらなくなる」人間の心の微妙な動きを、カミュは「反抗」という言葉に、あるいは「顔」という言葉に託している。>

 私が殺そうとする相手と向かい合ったとき、相手が発するのは「殺すな」というメッセージである。<「汝、殺すなかれ」という戒律の言葉は、いままさに殺されようとしている人間の、「殺そうとしている人間」を見つめ返すまなざしから、(略)訴えとして、祈願として、命令として、「抑圧者」に到来する>。エマニュエル・レヴィナスを援用しつつ著者はそう論じる(著者はレヴィナスの翻訳者として知られる)。あるいはまた、大岡昇平の『俘虜記』の有名な一場面——敵である若き米兵の顔、その薔薇色の頬を見たとき、「私」は銃を撃つのをためらう——を引きつつ、その暴力の行使を押し止めるものを<「反抗」と呼びたい>と著者はいう。
 これは「非暴力」の訴えだろうか。そうではなく、暴力が「不可避」な時でさえ<顔と顔を見合わせるとき、そこには「殺すな」という訴えがあり、殺すことへの抑えがたい「ためらい」が生じる。><現代において、もし暴力を効果的に制御しうる可能性があるとすれば>と著者はいう。<それは信仰の完成でも階級社会の廃絶でもなく、この「ためらい」を思想の準位へと繰り込む知性の努力ではないのか、カミュはおそらくそう問うているのである。>
 著者はこの「ためらいの倫理学」を「武器」に、従軍慰安婦問題、戦後責任論、フェミニズムといった「私たちが現在直面しているさまざまな問題」に介入する。加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論争を論じた「戦争論の構造」では、加藤を批判する高橋哲哉が立論の根拠としたレヴィナスを、「顔」をキイワードに再解釈しつつ、加藤の所論の最深部に測鉛を降ろしてみせる。 (bk1ブックナビゲーター:服部滋/編集者 2001.06.21)

  〜 書評後編へ続く 〜

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