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紙の本
カルチュラル・スタディーズ (講談社選書メチエ 知の教科書)
著者 吉見 俊哉 (編)
1970年代、英国バーミンガム大学・現代文化研究センター発。瞬く間に世界を席巻した知の潮流=カルチュラル・スタディーズを基礎から立体的に紹介する入門書。メディア、サブカル...
カルチュラル・スタディーズ (講談社選書メチエ 知の教科書)
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商品説明
1970年代、英国バーミンガム大学・現代文化研究センター発。瞬く間に世界を席巻した知の潮流=カルチュラル・スタディーズを基礎から立体的に紹介する入門書。メディア、サブカルチャー、人種、歴史を新たに捉えなおす。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
吉見 俊哉
- 略歴
- 〈吉見俊哉〉1957年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。東京大学社会情報研究所教授。著書に「都市のドラマトゥルギー」「メディア時代の文化社会学」「博覧会の政治学」など。
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紙の本
新しい知の潮流—多彩な大衆的文化を読み直す新手法と,その実践についての第一線研究者たちからの提案
2001/05/30 18:18
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:春名 徹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
新しい総合の学として注目のカルチュラル・スタディーズについて概観を試みた書。この“学”の旗手,吉見俊哉氏が総論を書き,メディア,サブカルチュア,人種・エスニシティ,ジェンダーとセクシュアリティ,歴史の政治学の5っの分野について若手の研究者たちが問題点を指摘,キーワード解説もあって,この問題に関心をもつ人には手頃な入門書。
カルチュラル・スタディーズとは,教養主義でもなく功利主義でもない方向で,現代の多様な文化を問い直し,文化が持つ制度としての側面を明らかにしようとするもの。
吉見氏の別の単著『カルチャルホ・スタディーズ』(岩波書店)に比べ,本書の方が,この学の意義を伝えるのに急で,少し力みが。しかし,価値の多様化が生んだ混迷が,反理性的な独善と原理主義や偏狭なナショナリズムに収斂しつつあるかに見える時代だけに,文化を意識的に相対化しようとする,この学の意気込みが,かえって鮮明に伝わって来るとも言える。
(C) ブックレビュー社 2000-2001
紙の本
揺さぶりをかけること
2001/04/16 22:33
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
カルチュラル・スタディーズといえば、単なる知の流行と見られたり、「カルスタ」とよばれ、なんでも「近代」批判、国民国家批判に結びつけると揶揄されたりしている。
編者の吉見氏は、近年はカルチュラル・スタディーズ関係の本をいくつか出している。例えば、『カルチュラル・スタディーズとの対話』とか『カルチュラル・スタディーズ』など。日本におけるカルチュラル・スタディーズの中心と言ってよいのだろう。
その吉見氏が編集した本書は、カルチュラル・スタディーズがこれまで扱ってきた「メディア」「サブカルチャー」「人種・エスニシティ」「ジェンダーとセクシュアリティ」「歴史の政治学」という6つのテーマが、どのように研究されてきたのかコンパクトにまとめてあって、「知の教科書」と銘打っている通り、教科書的に一通り概観するには便利な本でありかつ有益である。
それにしても、カルチュラル・スタディーズは一体、何を目指しているのか。そもそもカルチュラル・スタディーズは学問の制度として確立しているわけではない(というか確立できない)。したがって、カルチュラル・スタディーズを行っても、何かしらの「教養」や「実益」がもたらされることはない。そのようなものがなぜ注目されるのだろうか。本書の冒頭プロローグで吉見氏は、カルチュラル・スタディーズを学んでも「教養」も「資格」も得られないと言い、むしろカルチュラル・スタディーズは、このような「教養」や「資格」を得ることが価値あるとする文化や権力の関係を明らかにすると述べる。つまりカルチュラル・スタディーズが行っているのは「自明視されている価値やアイデンティティに疑問符を与え、社会システムが見えなくしているリアリティの次元をあからさまにし、その言説や装置の配列を組み替えていくための実践」なのだ。
それを踏まえると、カルチュラル・スタディーズが扱ってきた本書にも取り上げられているテーマは、これまでの社会や文化の制度の境界線上にあるものだということが見えてくる。自明の存在としてある制度の境界線上に立ち、見えなくなっている制度や権力に揺さぶりをかける、そのような交渉の場を問題化するのだろう。したがって、カルチュラル・スタディーズでは、問いがを、どこから、誰に向かって語られるのかという、問いの語られる場そのものが問題化されるのだ。
そうなると、これまでの研究のように、研究者自身は高みの置かれ、問いを発するということはできなくなり、むしろ問いを発する研究者自身までも問題として問われることになるのだろうか。自分自身の足元にまで、揺さぶりをかけるという点では、カルチュラル・スタディーズはラディカルな実践ということになるだろう。