紙の本
悲しき対象は、熱帯なのかそれとも我々なのだろうか
2001/07/11 20:48
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投稿者:ケルレン - この投稿者のレビュー一覧を見る
構造主義人類学の祖として知られるレヴィ=ストロースが、1930年代にアマゾン奥地のインディオを訪ねた調査旅行の記録である。しかし、ブラジル先住民の詳細な社会や文化の記録を期待すると、裏切られる。かといって、旅行記と言うにはあまりに考察が深く緻密すぎるし、時間も空間も交錯していて、つっかえたり飛ばしたり戻ったりして気がつくと、独特な世界観の中に取り込まれている。
これが構造主義の認識方法なのかと理解するほど構造主義がわかっていない者にとっては、まるでノンフィクションを装った文学作品のように思えてくる。過酷な環境の中に苦労して入り込んで、知られていない社会集団の記録を一つ増やすことにどれほどの価値があるのか、繰り返し自問する著者の憂鬱さが全編に垂れ込め、未開社会に対する軽蔑は勿論、礼賛に偏ることも許さず、読む者を思索に引きずり込む。
原著が出てから半世紀、日本でも絶えず版を重ねながら二十年以上も読み継がれてきたのも、うなずける。ふと思いついたときに、いつでもページがめくれるように、手元に置いておきたい本である。
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フランスの社会学者クロード・レヴィ=ストロースが1930年代のブラジルの少数民族を訪ねた旅の記録をまとめた紀行文です!
2020/07/11 14:49
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、20世紀のフランスを代表する社会人類学者、民族学者で、コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行ったことで有名なクロード・レヴィ=ストロースの作品です。同書は、1930年代のブラジルの少数民族を訪ねた旅の記録をまとめた紀行文で、その文章にちりばめられた思想、特に優れた未開社会の分析と、ヨーロッパ中心主義に対する批判により世界的にセンセーショナルな評価を受け、文化人類学、また構造主義におけるバイブルの一つとなった名著です。中公クラシックスからは2巻シリーズで刊行されており、上巻の同書は、全部で9部からなるうちの第5部までを収録しています。「第1部 旅の終り」、「第2部 旅の断章」、「第3部 新世界」、「第4部 土地と人間」、「第5部 カデュヴェオ族」となっており、いよいよ名著が幕を開けます。
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古臭い翻訳
2021/03/20 09:58
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投稿者:TK - この投稿者のレビュー一覧を見る
いつか読みたいと思っていたのですが、がっかり。原文が難解な文章なのでしょうが、こんなに下手な直訳調な文章を今どき読むはめになるとは、思いませんでした。30年以上前の学生時代に読まされたのが、まさにこんな悪文でした。早く新しい人に新しい翻訳をだしてほしいてす。
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世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう
2001/06/14 15:17
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投稿者:藤崎康 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『悲しき熱帯』は、いまさら紹介したり書評したりするのが気後れするくらい、もはや押しも押されぬ「古典」となった名著である。だが今回、「古典復興!」のキャッチ・フレーズとともに「中公クラシックス」の一冊としてラインナップされた本書を再読してみると、まったく未知の興奮に誘いこまれてしまった。これはやはり尋常一様なことではない。
人類学者レヴィ=ストロース初期の内省的民族誌である本書は、いうまでもなく、体系的な構造人類学の書ではなく、しなやか且つパセチックな、芳醇且つ戦慄的な記録文学の傑作でもある。
訳者・川田順造氏は本書の内容を以下のごとく的確に要約している。…「1930年代のブラジル奥地での豊かな経験のかずかず、ユダヤ人としての第二次世界大戦中のアメリカへの脱出の思い出、少青年期の回顧、インド、パキスタン、現在のバングラディッシュを訪れた時の印象などが、著者の強靭な筆によって、個別の体験や感想から、人類史の一断面を見る思いさえする一連のタブローにまで高められている。十五年の醸成のあと一気に書かれたこの本は、上等な木の樽の中でたっぷりと時間をかけて濃(こく)と香りを身につけた酒のように、辛口でありながら豊かなひろがりをもった大人の読み物だ。」
…まったくもってレヴィ=ストロースは「辛口」且つ「濃厚」である。たとえば、おおかたの旅行者や探検家が抱く異国情緒=エキゾチズム的心理や感性に、彼はしばしば冷水を浴びせる。すなわち、アマゾン地方やチベットやアフリカは、旅行記、探検報告、写真集などの形で都会の書店に氾濫しているが、それらの本では、読者にいかに強い印象をあたえるかという効果が最優先されるので、読者は持ち帰られた見聞の価値を吟味することができない。批評精神が目覚めるどころか、読者はその口あたりのいい食物のお代りを求め続け、その膨大な量を呑みくだしてしまうのである。要するに現代では、「旅行屋」や「探検屋」によって報告される「異国の珍奇な習俗」は、旅行記というかたちで虚しく大量消費される、紋切り型のイメージにすぎないのだ。レヴィ=ストロースは言う。「旅行譚は、もはや存在していないが、しかしまだ存在していて欲しいものの幻影をもたらすのである」と…。
こうしたレヴィ=ストロースのペシミスティックな思いは、次の一節に痛切な叫びとして、また西欧中心主義への呪詛として、結晶する。
「…文明社会はそれらのもの(熱帯の原住民たち)が真の敵対者であった時には、恐怖と嫌悪しか抱かなかったにもかかわらず、それらのものを文明社会が制圧し終えた瞬間から、今度は尊ぶべきものとして祭りあげるという喜劇を、独り芝居で演じているのだ。アマゾンの森の野蛮人よ、機械文明の罠にかかった哀れな獲物よ、柔和でしかも無力な犠牲者たちよ、私は君たちを滅ぼしつつある運命を理解することには耐えていこう。しかし、貪欲な公衆を前にして、うち砕かれた君たちの表情の代りにコダクロームの写真帳を振り回すというこの妖術、君たちの妖術よりもっと見すぼらしいこの妖術に欺かれる者には決してなるまい。」なんという素晴らしい文章だろう!…。
ちなみに、このようなレヴィ=ストロースの文章は、フランス文学の伝統であるモンテーニュやラ・ロシュフーコーらモラリスト(人間観察家)的な筆致を継承していると思われる。本書の末尾近くに書きつけられたアフォリスム(箴言)的な、そして黙示録的な次の一句にも、それは如実にみてとれる…。「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.06.15)
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何度か読み返して、これがどうして復刻されるのかをひしひしと感じました。
民俗学者に妙な憧憬を持ってしまいましたよ、これのせいで。
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約10年前の公務員試験勉強で構造主義を知ってからずっと興味があり、やっと本作に着手。
未開文化の紀行記録とは聞いていたが、ここまで直接的に構造主義に触れていないとは思わなかった。(読み込みが浅いのかもしれないが)
情景記述のの端々に、構造主義を思わせるものがあったが、よほど意識していないと読み飛ばされてしまうような程度だった。
個人的にはメインのブラジルの部分よりも、インドの文化とカースト制度に関する考察のほうが、面白く感じた。
全体を通して、現代でも一部にある、「フランス人がアジア人に接する際の意識」のようなものの底流を感じることができた。
以下、気になった点抜粋。
・文明社会は、それらのもの(未開人や未開の場所)が心の敵対者であった時には、恐怖と嫌悪しか抱かなかったにもかかわらず、それらのものを文明社会が制圧し終えた瞬間から、今度は尊ぶべきものとして祭りあげるという喜劇を、一人芝居で演じているのだ。
・すべての問題は、重大なものでも些細なものでも、いつも同じ一つの方法を適用することによってけりを付けられるということを学んだ。
・極めて短時間の観察が注意力を有益に訓練し、時にはむしろ、他の状況では長い間隠されたままになっていたかもしれない対象の幾つかの特質を捉えることが、観察者の利用しうる時間の短さのために必要とされる密度の高い集中によって、可能になるということを学んだ。
・白人は社会科学に頼っているが、インディオはむしろ自然科学を当てにしている。第2に、白人がインディをは獣だと宣言しているのに対し、インディオは白人が神かどうか疑って見ることで満足している。どちらも同じように無知に基づいているが、後者のやり方のほうが、明らかにより人間に値するものであった。
・残存する唯一の社会は、何もする能力のないものが、すべてを期待しながら生き延び、すべてを要求するものが何も提供しないような社会なのだ。
・われわれが耐え難いと判断する枠組みの中における変化であるかどうかは、事態の犠牲者にとって、対して重要でないことかもしれない。
・数というこの問題に、インドはおよそ三千年も前に直面し、カースト制度によって量を室に変換する方法を求めたのだった。それはつまり、人間集団を、彼らが並び合って生きてゆくことができるように分化させるのである。
・インドのこの大失敗は、ひとつの教訓をもたらす。つまり、あまりに多くの人口を抱えすぎたことによって、その思想家たちの転載にもかかわらず、一つの社会が隷従というものを分泌しながらでなければ存続できなくなったのである。
・一つの民族の習俗の総体には常に、ある様式を認めることができる。すなわち、習俗は幾つかの体型を形作っている。私は、こうした体型は無数に存在していないものであり、人間の社会は個人と同じく、遊びにおいても夢においても、更には錯乱においてさえも、決して完全に新しい創造を行うことはないのだということを教えられた。社会も個人も、全体を再構成して見ることもできるはずの、理論的に想定可能なある総目録の中から、幾つかの組み合わせを選ぶに���ぎない。
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想像と全く違った本。レヴィ・ストロースの記憶の混濁したような明晰なような皮肉なような愛情深いような複雑な本でした。
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文化相対主義を唱えた著者の代表作。
勉強になった。西洋中心主義を批判しているものの、文化相対主義にも欠点があったり。
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まだ、前半だから。
大学生の時に2回挫折した本でした。正直に言えば、学問の本としてはそう優れたものではないと思います。しかし。
しかし、人生の本としては素敵な本ではないかと思います。これは人生訓だと思うんですけど。いや、まだ後半読んでないし。
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読み助2015年3月24日(火)を参照のこと。http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2015/03/post-81aa.html
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『ところがこうした知見たるや、もう半世紀も前から、あらゆる概説書の中にいつも顔を出していたような代物なのである。しかも、並外れた破廉恥によって、だが、お客の単純さや無知とはぴったり調子をあわせて』ー『出発』
『その進化は、南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、われわれも余程の覚悟をしない限り、恐らくそこから逃げられないだろうと思われるものである。なぜなら、この人間による人間の価値剥奪は蔓延しつつあるからだ』ー『市場』
『その真理とはーー或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、結局のところ、生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、美化し、正当化する努力に他ならないということである』ー『生者と死者』
『ただ彼だけは、こんなにも高い代価を払って得た栄光が、嘘の上に築かれていることを知っている。彼が体験したと人が思い込んでいるものは、どれひとつとして事実ではなかった。旅というのは偽りだったのだ。旅の影しか見ない人たちはには、そうしたすべてが本当らしく見えているのだ』ー『神にされたアウグストゥス』
人は結局のところ何も学べない。全ての体験は、ただ新しく知り得たことを既に自分自身の中に存在する似たようなものに引き寄せるだけのことのように思える。それなのに過去に体験したことが後になって、あたかも熟成し新な知見となって自分の考え方に影響を与えているとの感覚を覚えたりすることがある。
学びとれると思っている時には学び得ず、学び得ないと思っている時にこそ新な体験は自身の血肉となる。言ってみれば時を隔てた二人の自分に起きている変化とは、自身を守る為に高く掲げていた盾を下ろすような心持ちの変化なのかも知れない。自分の理解できる概念に現実を落とし込まないで居られる程に現実に馴れること。そうして初めて「新しい概念」が身に沁みてくるのだろう。
要すればこの大部の著作の中で著者がもがきつつ言わんとしているのはそんなことなんじゃないかと、自分には思える。禅の感覚に似たようなこの矛盾した感覚をどの章からも綿々と感じる。そして其処かしこに身に沁みる言葉に出会う。しかしそれは例外的なこと。ほとんどの文章は何も自分の中に呼び起こさない。あたかも現地の言葉や習慣が分からず、目の前で起きているひどく変わった出来事の意味をつかみかねるように、目の前を文章は流れてゆく。ひどくゆっくりと。
比較文化人類学的な資料としての価値を読み解く人ももちろんいるだろう。しかしその価値を見出だす前に、ほとんどの人は著者の体験した混沌と自責の念で本書が埋め尽くされていると感じるに違いない。混沌には自分自身の体験を容易に引き寄せることで近づくことができる。だがレヴィ=ストロースの感じている自責の念には宗教的な思考が絡んでいるようにも思え、容易には近づくことができない。いや、近づくことが憚られる。
南米のインディオの集団から何かを知り取ろうとすることがもたらす災厄。それが解っていながら真に近代文明に接して居ない人類の文化を知りたいとする欲求。「悲��き」とは、幾つもの後悔と懺悔と失望が入り交じったニュアンスを含む表現であることが、徐々に理解されてくる。あちらこちらに思いは揺れ、そして巡りめぐりながら、著者はその全てを自分の非として受け止めるかのようである。そこに信仰に裏打ちされた独特の覚悟のようなものを感じる。それを単純に一つの宗教に結びつけることは多層的な著者の思考を余りに矮小化してしまうことになるのだろうけれど、その連想は誘惑的である。ただ、そんな宗教的位置付けに意味があろうと無かろうと、実体験から長い年月を経て最終的にこの著書を書き上げた著者の根本には、その覚悟があるのだと思う。
一度きりの読書では学び得ないと解ってはいたけれど、あまりに多くの問い掛けにこの本は満ちている。それを目の前にして茫然とした思いに囚われてしまいつつ、自問せざるも得なくなる。いつ自分はそれに対峙する覚悟を固められるのだろう、と。
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初めてのレヴィ=ストロース。若かりし頃のブラジル旅行の紀行文。紀行文でありながら自身の構造主義をいかんなく発揮した文体がまぶしい。理性的一元論を主張し、ふんだんに弁証法的思考がちりばめられている。状況を分析し無機質な言葉に分解してしまえば、情緒も情熱も失せた、それこそ悲しい景色が広がるのみ。生きていくにはほんの僅かなものがあれば足りる。それならばそれだけ重たくぶら下げた知識は何のためなのだ。悲しいのはその温度に溶け込めない自身か、時代に逆行した、聖も俗も混沌とした地球か。
トインビーと並行して読んでいただけに、それは悲しい。
09/6/7
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●100327
構造主義というコンセプトを、内田樹先生の本から学び感銘を受け、構造主義の大家の本を手にとってみた。でも正直を言うと、何故これが傑作であり衝撃の書なのかが分からない。自分の理解力がないからだろう。しばらく時間がたった後再読したい。
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この本が私の生き方を変えたと言ってもよい。構造主義の魁となったパンタナルに棲むナンビクワラ族の生活を通して、実は未開の先住民の中にこそ、私たちが失った人類としての幸せが存在するのではないかと訴えている。
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物語文は苦手だが、レヴィストロースの思慮深い言葉にひかれる部分がたくさんある。
特に「どのようにして人は民俗学者になるか」、新世界の章が好き。
景観:人がそこにどのような意味を与えることも自由な一つの広大な無秩序として、そこに現れる。
生者と死者の間の関係について自らのため作る表象は生者の間で優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面でかくし、美化し、正当化する努力に他ならない。
歩みを止めること。
人間を駆り立てているある衝動、必要という壁の上に口を開けている亀裂を一つ一つ人間の手に塞がせ、自らの手で牢獄をとざすことによって人間の事業を成就させようとしている、あの衝動を抑えること。
ベースを広げていけばどこかでは仲間になれる。敵対の根拠付けこそが敵対を生む?
若者: 騒々しく無遠慮
およそ最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡っていこうとする心を砕く。
若年寄りは文学自然科学に多い。