紙の本
フランスの哲学者バタイユの晩年最後の著作で、エロティズム論の集大成とも言える一冊です!
2020/04/25 10:36
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、フルードリヒー・ニーチェから強い影響を受けたと言われるフランスの哲学者、ジョルジュ・ヴィクトール・バタイユの最晩年である1960年代に著された最後の一冊です。同書の中で彼は、「人間にとってエロティシズムの誕生は死の意識と不可分に結びついている。この極めて人間的なエロティシズムの本質とは、禁止を侵犯することなのだ。人間存在の根底にあるエロティシズムは、また、われわれの文明社会の基礎をも支えている」と説いています。同書は、バタイユのエロティシズム論の集大成とも呼ばれるもので、原書に忠実に邦訳された貴重な一冊です。同書の構成は、「第1部 始まり―エロスの誕生」(死の意識・労働と遊び)、「第2部 終わり―古代から現代へ」(ディオニュソスあるいは古代・キリスト教の時代・結論に代えて)となっています。
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小さな死
2001/09/11 15:38
2人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:高山宏 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ルネッサンスも暮れ方、マニエリスム時代の恋愛詩は、世相が今とそっくりということもあって、リーベストース(愛は死だ)の主題を好み仲々煮つまっていて強烈だ。たとえば男女媾合の絶頂のエクスタシーの刹那を“die”という語で表わす。「いぐっ」と叫ぶ代りに押し殺したような声で「死ぬう」とうめく床上手の女を何人か知っているが、これは深いっ! そのエクスタシーという言葉だってアクメの恍惚という意味になる前に、「脱我」、つまり個としての死という哲学的、神秘宗教的な意味の歴史の方がはるかに長い。ベッドの上の愛の恍惚を日々の「小さな死」と呼ぶのがバタイユの、性の形而上学の1960年代(澁澤龍彦の時代)を切り開いたこの戦慄の書。
人間は世界から自らを孤立させることで「人間」になった。つながりが生である世界の中での死の存在と化したわけだ。その孤独を再びつながりの方へ返してくれる「エロス」は、逆に個/孤になれきった人間にとってはその個の死を意味する恐怖の暴力としてある。エロティック美術史としてもいまだに最高。ぼくの恩師の渾身の新訳も嬉しい。(高山宏/英文学者 2001.5.5)
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随分前に読んで、あんまり覚えてないのですが
美術的な視点とか、哲学的な視点で
生?性?エロスを解説してたような?
ジョルジュ・バタイユなので、
そういう系が好きな人は好きなのかも?
濃いものが堪能できます。たぶん。
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引き裂かれたまま在り続けることの苦悩と歓喜。生と死を境界付けるエロティシズム。相変わらずバタイユくんは極端だなぁ。
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ご本人が「自分の著作の中で一番わかりやすい」というだけあって、わかりやすいが、日本語がわかりづらい本。図版が多くあって、見ていて楽しい本。理屈も頑張れば、わかりやすいなぁ・・・という本。
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2009年の10月末にスペイン・マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館で開かれていた企画展の名前が同じく「エロスの涙」だった。
この展示会は今まで見てきた中で一番好きだと思えた。
理由1:ここで紹介されていたエロスとタナトスの概念や生と死は表裏一体であるという考えは私の中にもずっと巡っていたものだった
理由2:本で読んで思い入れの強かった作品(マグリット《恋人達》、ムンク《吸血鬼》など)が展示されていた
理由3:大好きな画家マルレーネ・デユマスの作品があった
理由4:解説がキリスト教思想やギリシア神話、さらには心理学を組み込んでいて質が高かった
というわけで、目にも頭にも刺激的で本当に素敵な展示だった。
そして、その企画展の題名の元となったのがこの本。
おそらくジョルジュ・バタイユのエロティズム論の入門の入門でしかないのだと思う。
他の著書に詳しく書いてあるからなのか、割愛されている内容が多い。
その分(だいぶ)簡潔で読みやすくはある。
個人的には、ちょうどART PREHISTORIQUE(先史美術)の授業を受けている最中だったので、最初のほうの洞窟絵画などに関する記述が興味深かった。
ラスコ-の洞窟画にある野牛の前で死んでいる男性は、勃起しているらしい。
他にもオーリニャック文化期の彫刻には男根の形をした女性裸像が多く発掘されていているのだそう。
人間が性的な表現をタブー視するようになったのはキリスト教が性表現を禁止した中世以降で、それまでは性的な芸術表現は堂々とされていたし、それが自然なことだったのかもしれない。
もっと私も性にオープンになろうと思いました。
>動物が人間になったのは、労働によってなのだ。労働は、なによりもまず、認識と理性の基礎であった。
>起原において、性的結合の瞬間が意識的な意志に人間的に応ずるようになったとき、その意志がみずからに与えた目的は、快楽であり、快楽の強烈さ、激しさであった。
>エロティシズムが動物の性的衝動と異なるのは、それが、原則として、労働と同様に、目的の意識的な追及だという点においてなのであって、その目的とは、官能的快楽なのだ。
>ネアンデルタール人の墳墓は、(略)死の意識を表しており、
>けれども、われわれが本能的な性活動からエロティシズムへの移行を確言することができるのは、後期旧石器時代人というわれわれの同類が現れた時代についてでしかない。
>人間はまた労働を遊びに変えることを知っているのだ。私は、そのことを芸術について(芸術の誕生について)強調したい。
>薄暗い洞窟が、実のところ、深い意味における遊びというものー労働に対置され、魅惑に服従すること、情熱に応ずることを何よりも先に意味するものである遊びーに捧げられた
>先史時代の洞窟の壁の上に彩色されたり素描されたりして人間の像が現れているところで導きいれられている情熱は、エロティシズムである。ラスコーの堅坑の死んだ男は言うまでもなく、これらの像の多くは、男性の場合ならば、立った性器を持っている。女性の像でさえも、明���に欲求を表現している。
・ラスコーの壁画・・・死とエロティシズムの合致
>戦争と奴隷制の到来に至るまで、萌芽的な文明は、本質的に平等な自由人たちの活動の上に安住していた。ところが、奴隷制が戦争から生まれた。奴隷制は、対立する階級への社会の分割という方向にはたらいた。
>特権によって、エロティシズムは個人的な力や富に左右されるようになり、結局、虚偽に捧げられることになって、売春がエロティシズムの正常な道となった。(略)結婚が、必要な生殖の役割を保存した。
>デュオニソス信仰
(たぶんギリシャ神話の酒の神)
>キリスト教が持った役割は、エロティシズムを断罪するということであった。
>絵画がエロティシズムを導入し得る唯一の様相は、断罪なのであった。地獄の表現ー厳密には罪の忌まわしい画像ーのみが、エロティシズムを登場させることを許したのだ。
>キリスト教は、楽園を即時的なー永遠であると同時にー満足の王国にした・・・。けれども、まずもって、それを努力の最終の結果としたのである。
>禁止の侵犯が意識的エロティシズムの本質
>ルネッサンス以来、事情は変わった。(略)最も富裕な人だけが、非宗教的な絵画の注文をする手段を持つに至った。
>エロティシズムとサディズムとの恐るべき合致
>バルドゥング・グリーンがエロティシズムの魅力を結びつけたのは、死にーわれわれを怖れさせるけれども、われわれを妖術の恐怖の重苦しい歓喜の方向へ引きずっていく全能の死のイメージにーである。
→マニエリスムがこの結合を絵画から解放する。
→さらに十八世紀になってやっと自由奔放なエロティシズムが登場する
>イタリアではマニエリスムは、ミケランジェロから起こった。フランスでは、フォンテーヌブロー派が、それを見事に代表した。(略)グレコのマニエリスムは、十七世紀のスペインに非常な衝撃を与えた
・サド侯爵・・・苦痛を肉体的快楽に結合
>宗教的恍惚とエロティシズムーとくに、サディズムーとの関係
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Naked CityのLENG TCH’Eのジャケ写から本書に辿り着く。
死とエロティシズム。≪小さな死≫と究極的な死との同一性へ。
他の著書も読みたくなった。
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「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最もしたしみやすい本」と言われているジョルジュ・バタイユの【エロスの涙】。
折角のバタイユの文章が、中学高校生の英訳文みたいな文章を少し小難しくしてみましたみたいな。
わかり辛くて、読んでいてイライラ。
良さが損なわれてるような気がする。
他の訳で読みたい。
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バタイユの根底には、エロティシズムがある。言うなれば、フロイトのリビドー論なのだけれども。そこへバタイユなりのロマンのようなものが詰め込まれているのだろうと思われる。どうしたって、エロティシズムに恍惚は避けられないし、そこにはロマンが入り混じる。それに恍惚をどういうときに強く感じるのかといえば、それは、「死」だ。恍惚を呼び寄せたければ倒錯すればいい。倒錯とは、「理性の拒否」であり「理性の放棄」である。また、「禁止事項への侵犯」でもある。かくして、「罪悪感のような言い知れぬ感情がこみ上げる」わけだが、その背徳感がなおさら恍惚を呼び寄せる、という仕組みである。フロイトも同様なのだが、彼らに哲学的な才能がないのは、彼らは緻密な議論を経ないからだ。まず最初に、「リビドーこそが人間の根源だ」とか、「エロティシズムこそが根源だ」といったことを直観的に信奉しそれを真理のようなものとしてすえてしまう。そこから、それを明証するための資料を集める、といった具合に。有る意味科学的手法がとられているわけだけども、哲学というのはそういうきれいなものではないのだ。一つ疑問がありそれを延々と考えていく。そういう、営みであろう。彼らにとっては疑問というよりも、予め答えが用意されている。そういう意味で彼らには才能がないと感じる。ただ、フロイトは精神科医だし、バタイユは評論家なのだから、そんなのはあんまり関係がないかもしれない。
だからか、バタイユの議論には深みがない。緻密さがない。あるのは、確信だけだ。もちろん、その確信にあれこれ肉付けがされていく。起源は遡ればよく、遡って自分に都合のよい説明を見つけてくればいい。ただ、バタイユが述べていることはそれが全面的に当たっているということはなくとも、非常に鋭いところをついている。ただ、致命的なのは、それが哲学ではないというその一点だけである。彼が哲学的にあれこれを論じたかったのなら、問題かもしれないが、さもなければ、十分に読み応えの有る文章である。彼の表現は詩的であるし、それが平易な内容を理解しがたくさせてもいるのだが。ちなみに人間が動物と異なるのは、人間が「死の意識」を持つからであり、「労働」するからである。なので、エロティシズムもそこから生じている。後に、戦争や奴隷制などが生まれ、エロティシズムは個人的な富や権力に支配されるようになり、やがて、戦争が理性によって規格されるようになると、よりエロティシズムは侵略されていくこととなる。戦争とは富の過剰生産であるので、それは物質的な享楽とは相反するし、何かしらの計算・分配による解決法が模索されるべきである、というのが現代への警句なのかな。ともかく最終的にエロティシズムは、「恍惚」と「恐怖」を相反して対置させながらも、そこへ共通項を持ちうる、同一性を持ちうるものだと定義している。恐怖とは死の意識であり、恍惚とはエロティシズムによって得られる喜びだろう。言うなれば、「刺激性」なのだろう。それが、人間の「起源」であり「原動力」だと、彼は述べたいのかもしれない。ただ、彼としては、エロティシズムに迫れば迫るほど遠ざかってしまうのだろう。実際のところ、第一章からまるで���が進んでいない。延々と、円周を巡っているような印象を本著からは受ける。近づこうとすれば遠ざかる。しかし、書きたいものを書けば、実は、それが書ききれないことが、何かを取りこぼしてしまったことに気づくというのは珍しいことではない。といったたりでフェードアウト。
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写真ヤバい!!/ここで私が意図しているのは、ある根本的な関係、すなわち、宗教的恍惚とエロティシズムーとくに、サディズムーとの関係を明らかにすることである。/マニエリスムは熱狂の追求なのだ!/意識的でないものは、人間的でないのだ。/百刻みの刑(阿片)、受刑者の恍惚。/死に行くものを眺めつつ、それに同一化することで、自らの死を体験する。客体である犠牲の破壊と解体が主体の恍惚を引き起こす。聖なるもの。
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エロティシズムは生きる手段に過ぎない労働に対置されるようなもので、燃えるような情熱を伴い生きる目的にもなる。労働は富を生み出し、富は過剰に蓄積されることで、富に対する欲望を減衰させる。
バタイユさんは、エロティシズムと死を結ぶつけているんだけれども、そこのところはこの本ではよくわからなかった。もう一つの著書「エロティシズム」の方に哲学的に書いてあるみたい。
ギリシャ時代の知への愛エロス。なんか…情熱的になれるのがエロティックな関係なんだろうな。たしかにそんな情熱がなくなっちゃたら、毎日が、分別臭い面白くもないただの生活になっちゃうもんな…
ちなみに、350ページの本だけど、ほとんどが絵画や写真なので一日で読めます。文章も意味ありげで刺激的です。
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[ 内容 ]
「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」と自ら述べた奇才バタイユの最後の著書。
人間にとってエロティシズムの誕生は死の意識と不可分に結びついている。
この極めて人間的なエロティシズムの本質とは、禁止を侵犯することなのだ。
人間存在の根底にあるエロティシズムは、また、われわれの文明社会の基礎をも支えている。
透徹した目で選びぬかれた二百数十点の図版で構成された本書は、バタイユ「エロティシズム論」の集大成。
本国フランスでは発禁処分にされたが、本文庫版では原著を復元した。
新訳。
[ 目次 ]
第1部 始まり―エロスの誕生(死の意識;労働と遊び)
第2部 終わり―古代から現代へ(ディオニュソスあるいは古代;キリスト教の時代;結論に代えて)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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高校生時代この本に出合う。
初めてのバタイユだった。
私の頭の中のとりとめのないナニかに輪郭を見出した。
その日から彼の熱烈な言葉の羅列に私は首ったけ。
アヘン吸って内蔵えぐり出されてるのに笑ってる(そのひとも周りのやつらも)写真を見てから世の中のありとあらゆる事物に対してイカれてるなぁと思う基準がぐっと下がりました。