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商品説明
歌舞伎や浄瑠璃のお七は虚像だ。お七が生きた江戸の都市環境、政治、お七を有名にした大火など、側面からその時代を浮き彫りにしつつ、八百屋お七の謎に迫る。また、元禄期の災害にも言及し、江戸の防火対策の実態も紹介する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
黒木 喬
- 略歴
- 〈黒木喬〉1933年東京都生まれ。江戸災害史研究家。著書に「明暦の大火」「江戸の火事」など。
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紙の本
芝居や小説でおなじみの恋のために放火した八百屋お七の正体と、火事をめぐる将軍綱吉治世下の江戸挿話集。
2001/11/13 18:16
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投稿者:大笹吉雄 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書を読んで改めて驚くのは、江戸という街にいかに火事が多く、また、その被害が大きかったかということだ。
この本の一つのポイントは、歌舞伎や文楽などで親しまれている八百屋お七が、御家騒動の渦中にある恋人に宝刀のありかを知らせるために町の木戸を開かせようと、火の見櫓に登って太鼓を叩く場面に集約される可憐な少女と、その名前を取った火事との関係を探ることだ。いうところのお七火事。
そう呼ばれる火事は、天和二(一六八二)年の十二月二十八日に起きた。午前十一時過ぎに駒込の大円寺の庵室から出火し、折からの強い北風にあおられ、火はたちまち本郷から湯島、神田、日本橋、浜町、さらには隅田川を超えて両国から深川一帯におよび、翌日の早朝にようやく消えた。この火事で七十三の大名屋敷と百六十六の旗本屋敷、四十八の寺院と四十七の神社、それに無数の町家が焼け落ち、正確には分からないものの、三千人が焼死したという。焼死者の数が不明なのは、武家屋敷のそれが伏せられていたからである。
この大火を江戸後期にお七火事と呼ぶようになったが、実際の八百屋お七の放火事件は、別にあった。
お七が放火したのは天和三年三月二日の夜で、自宅近くの商店の軒板に、綿屑をワラで包んで炭火と一緒に差し込んだ。が、これはボヤですんだものの、火事騒ぎの中をうろついていて怪しまれ、火付けの材料の古綿などを持っていたので捕らえられた。前記の大火でお七の家も罹災してある寺に間借りしたが、ここで一人の若者を見初め、相愛になった。ところが間もなく新居が完成して移ったことから仲を裂かれる形になり、募る恋心に抗しかねて、もう一度火事になれば会えるとの妄想にとりつかれて、火をつけた。お七は同月中に処刑され、やがて小説や舞台のヒロインになった。
ところがお七の身辺が謎だらけで、父親や恋人の名前も諸説あってはっきりしない。幕府の正史たる『徳川実記』にはお七のことは一切記載がないのみならず、詳細な日記を残した山鹿素行のそれにもない。なぜか。
一つはお七にならって、恋愛のために放火するようなことが流行しては大変だという幕府の懸念の反映がお七の周辺を曖昧にしたこと、そしてもう一つは、時の将軍綱吉の母の桂昌院が町人階級の出身であり、父が八百屋だったこと。その実父と養父の名前が、お七の父の名といわれる市左衛門ないしは太郎兵衛に類似する八百屋仁左衛門であり、北小路太郎兵衛だったこと。つまり、父の名がよく似ている八百屋お七の評判が高まるにつれ、桂昌院は自分の前身を世間が思い出すのを極度に恐れ、母思いの綱吉にお七関係の書類を破棄するよう頼んだのではないか。換言すれば、幕府がお七を抹殺したのではないか。
これが著者の「謎解き」である。興味深い説と言わねばなるまいが、本書のもう一つの要点は、多くの火事とそれを防ぐ幕府のさまざまな対処の仕方で、江戸の防災史の入門書になっている。 (bk1ブックナビゲーター:大笹吉雄/演劇評論家・大阪芸術大学教授 2001.11.14)