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紙の本
この本を読みながら、木村敏さんの本のことを思い出したりして
2005/06/04 01:36
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
カントやフッサールやハイデッガーやベルクソンや大森荘蔵や、そんな古来時間について考究しつづけてきた先人の思考を受けるかたちで(基本的にカントの思考を敷衍するような方向で)、「過去中心主義」という独自の時間論が展開されている。時間というものは、人(責任主体)が「純粋持続」(純粋に「自由である」こと)の流れを区切り、「過去」というものを「現在」というものから押し出すことによって生まれる。したがって「時間」の誕生(?)は「過去」の誕生(?)である。
「時間」といえば、「統合失調症=生きられる現象学的還元」という考えを提示したブランケンブルクやヴァイツゼッカーを批判的に継承するようにして、臨床的な哲学/現象学的精神病理学といわれるような分野で、とても刺激的な(でも、下手をすると大きなダメージを受けかねないような)論考を発信しつづける木村敏さんは、たとえば『偶然性の精神病理』という本のなかで、時間(=自己)について三つの次元を区別し(1→メタノエシス的な生命一般の根拠、2→ノエシス的ないしは“こと的”な時間=自己、3→ノエマ的ないしは“もの的”な時間/自己)、「一般に人はノエシス的時間とノエマ的時間の総体を“時間”として(流れるものとして)経験しており、ノエシス的時間(自己)を“窓”にしてメタノエシス的時間(自己)を垣間見る」と書きつつ、精神の病理を「時間(=自己)」にまつわる障害として捉えなおしている。
ところが中島さんは言い切る。「時間は比喩的にすら『流れない』のだ。……このすべては時間を時間における運動と混同するという錯覚に基づいている」。
そういえば木村さんの考察には、その暗黙の前提として「時間は流れるものである」という常識的な物差しが、ほぼ“揺るぎない”感じのものとして置かれているのかもしれない。
「時間なんて流れようが流れまいがどっちでもいい(そもそも、わかるわけないやんけ!)」〜そんなふうに思う人も(数多?)いるでしょうし、それはそれで「こだわりのない心で生きられることは、とても素敵♪」〜でも、そういうことに切実な何かを感じてしまう人も確かにいるはずで、そういう誰かにとっては、この本は生きる=考える“力”を育むきっかけになるかもしれません。
紙の本
決定版・中島時間論?
2002/03/24 15:46
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
中島氏の時間論はたいがい読んできた。『「時間」を哲学する』1996年)の鮮烈さは今でもありありと想起できる(心身問題は現在と過去の関係の問題だという指摘など、今や私の思考の基底となっている)。
『純粋理性批判』を「時間論の書」と規定した『カントの時間論』(1987年、原題『カントの時間構成の理論』)や『時間と自由』(1944年)もとても斬新だった(実は後者はまだ読み切っておらず、現在も折にふれて読み続けているものなのだが、ある箇所で、「今となってはすでにない過去世界が現にあった」という構造こそがすべての哲学的議論の湧き出る源泉であり、すべての哲学的二元論──観念論と実在論、合理論と経験論、形相と質料、デュナミスとエネルゲイア、普遍と個別、主観と客観、現象と物自体、自発性と受容性、ノエシスとノエマ、認識と行為、自由と必然など──は、究極的に現在と過去との二元論に起因するのではないかという中島氏の「実感」が述べられていた)。
それらの著書と比べて本書の「新しさ」がどこにあるのか、率直に言って私にはよく分からなかった。確かに、アウグスチヌスやフッサールやベルクソンの「現在中心主義」に対する中島氏の「過去中心主義」(森岡正博氏の命名)はより鮮明に打ち出されているし、何よりも、現在とまったく異なった過去固有のあり方を確認した大森荘蔵の時間論に対する批判は徹底している。
たとえば、大森は「カントが表象と呼ぶものは主として知覚表象であり、それから構成される実在とは事物の現実存在である」(『時間と自我』114頁)と語っている。中島氏によれば、表象[Vorstellung]が主として知覚表象であることは超越論的観念論のどこからも読み取ることはできないし、ましてそこから構成される実在が事物の現実存在であるわけではない。大森は「実在性」と「現実性」を混同している。カントにおいて実在とは事物の実在、ひいては物理的世界の実在なのであって、そこに〈いま・ここ〉からの知覚風景を重ね合わせるとき開かれる世界が現実である(本書144頁)。
《表象とはそもそも過去的であり、言語命題の中にその実在が与えられているのだ。すなわち、「表象」という言葉の重み(軽さ?)は想起される過去世界の重みに対応している。(略)超越論的観念論における客観的統一世界のモデルは、純粋な概念の世界でも知覚された世界でもなく、両者の中間としての表象としての過去世界なのである。言いかえれば、過去世界は単なる概念と〈いま・ここ〉で知覚されている世界との中間的なあり方をしている。》(145-146頁)
それ以外にも、過去の行為に対する責任能力をめぐる議論やベルクソンの純粋持続(時間以前のもの=私以前のもの)と自由をめぐる議論など、読むべき箇所があるにはあるのだが、それでも疑問は拭えない。あえて『時間論』と名づけるだけの決定的な何かがここにあるのか。
「時間について、厭になるほど考えてきた」と中島氏は本書のあとがきに書いている。厭になるほど考えるにはそれなりの理由がある。それが中島氏の「哲学の問題」だからだ。『「時間」を哲学する』では「「死ぬ」時としての未来」が最終章「現在という謎」の直前に置かれていた。本書では「時間の限界としての現在」の次に最終章「幻想としての未来」が置かれている。この逆転は何を意味しているのか。「死ぬのが嫌だ!」(『「時間」を哲学する』あとがき)と「ぼくは死ぬ!」(本書あとがき)の違いに、二つの〈いま・ここ〉における中島氏の「実感」の差異が示されているのだろうか。