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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2003.1
- 出版社: 青土社
- サイズ:19cm/260p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-7917-6009-3
紙の本
網状言論F改 ポストモダン・オタク・セクシュアリティ
爛熟した消費社会の申し子たる「オタク」という特異な主体の在り様をめぐって、東浩紀と各界の最強の論者が繰り広げる言論のバトル。ネット、ライヴ、書籍とメディアを横断して展開さ...
網状言論F改 ポストモダン・オタク・セクシュアリティ
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商品説明
爛熟した消費社会の申し子たる「オタク」という特異な主体の在り様をめぐって、東浩紀と各界の最強の論者が繰り広げる言論のバトル。ネット、ライヴ、書籍とメディアを横断して展開された妄想と闘争の記録。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
動物化するオタク系文化 | 東浩紀 著 | 19-38 |
---|---|---|
セクシュアリティの変容 | 永山薫 著 | 39-58 |
「萌え」の象徴的身分 | 斎藤環 著 | 59-82 |
著者紹介
東 浩紀
- 略歴
- 〈東〉1971年生まれ。批評家、哲学研究者。「存在論的、郵便的」でサントリー学芸賞受賞。ほかの著書に「動物化するポストモダン」など。
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紙の本
職業・呪文・アイテム
2003/02/13 07:47
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:須藤晴彦 - この投稿者のレビュー一覧を見る
オタクについての議論を中心に据えたシンポジウムのレジュメ的内容であるこの著作を舞台に、RPGの主人公たちがそれぞれの能力を用いて論を進めていく。そんな例えが浮かんでしまうのもまたオタクという言葉の力だろうか。
哲学者という職業の編者がジャック・デリダという呪文を用いてオタクという魔物と戦う。時には、漫画やインターネットといったアイテムがその戦いの助けとなる。しかし戦いの最大の助けはやはりパーティーの仲間達だ。斉藤環氏は医師という職業でジャック・ラカンという呪文を身に付けている。持っているアイテムには編者と共通のモノもあればそうでないものもある。ときにパーティー編成を変えながら、彼等は現象とも存在とも決めかねないその魔物をとらえようとしているのだ。
パーティー編成が変わればパーティー内で交わされる言葉も微妙に変わってくる。かつて魔物側についていた人間をパーティーに加えればそこで使われる言葉にもまた変化が表れる。このような、それぞれ異なる職業・呪文・アイテムを持つ人間達でも通じ合う言葉を使いコミットしていくさまそれ自体が、この著作内で繰り広げられる議論の内容と共に極めて現代的であり、副題の「ポストモダン」状態を表しておりエキサイティングだ。
エキサイティングは加速する。火付け役は鈴木謙介氏という職業社会学者によるここでの書評であり、そのような書評が書けるこのサイトの作りである。
映画で観たことのあるシーンに現実で出会う、そんな日々を僕たちは過ごしている。ゲームで見たことのある関係を、この著作で、そしてこの著作から広がる現実で僕たちは見、実際そのような関係の中で過ごすことになる。
紙の本
オタクはアイデンティティなのか
2003/02/04 15:57
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鈴木謙介 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は「オタク」を巡る本である。しかしこの本で「オタクとは何か」が明らかにされている、と期待してはいけない。むしろこの本で執拗に語られているのは「オタクとはいかなる問題なのか」ということである。それを巡って二つの問題軸が交差するのが本書の構成だ。一つは、本書の元となった「網状言論」でも主要な対立となった斎藤環氏と東浩紀氏の対立。これはラカンを巡る哲学的な問題として理解された感があるので非常に難解だが、要するに「存在としてのオタク」(斎藤)か「現象としてのオタク」(東)かという対立だ。もう一つは本書の後半に収録された東、斎藤そして小谷真理氏との鼎談でテーマとなるジェンダーおよびセクシャリティの問題だ。この鼎談では斎藤と小谷がオタクのセクシャリティを分析することに意義を見いだすのに対し東は、現在のオタクはデータベース的な萌えパーツの組み合わせを動物として享受しているのだからかかる分析は無効だと主張する。
この対立が意味するものは何か? それは「オタクというアイデンティティはあるのか」という点について、実は世代によってかなりの開きが生じているということだ。読者は後半の鼎談を読んで、オタクのセクシャリティやアイデンティティについて言及し、東の「オタクとしてのアイデンティティ」を開示させようとする斎藤・小谷に対して、東が「逃げている」ような印象を持つかもしれない。しかしながら東本人が「自分がオタクであるかどうかはわからない」と述べるように、東より下の世代のオタクにとって「オタクというアイデンティティ」の中身などそもそも問題ではないのだ。
社会学を専攻する私の立場は、世代的なものを差し引いても東のスタンスにかなり近い。社会学的には「オタク」とは「ギャル」や「不思議ちゃん」と同じ、コミュニケーション上の自己提示戦略の一環に他ならない。つまりアイデンティティではなく、自分が人から見られたいと思うイメージの一つに「オタク」というリソースがあるだけなのだ。そういう見方をすればギャルもオタクも自分がイメージするリソースのコスプレをやってるだけだとも言える。どの立場に与するかは読者次第だが、そもそもこういう対立が存在するということを知る上でも、本書はいい機会を与えてくれるだろう。
(鈴木謙介/東京都立大学大学院博士課程 http://www.socion.net/papers/)
紙の本
オタク系批評の基盤になりうるか
2003/01/17 21:37
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鬼島 空 - この投稿者のレビュー一覧を見る
東浩紀や大塚英志の対談など、オタク批評を読んでいて、ずっと気になっていたことがある。この二人を筆頭に、オタク系文化人は、圧倒的に男性ばかりだ。オタク系バックグラウンドを持つ女性は実作者には多いが、評論家はほとんどいない。東といった男性オタク系文化人から産出される言説の量が圧倒的なために、実数的にはオタク男性を下らないはずのオタク女性の存在がかき消されているかのように思われて、わたしは嫌だった。「ギャルゲー」や「でじこ」を語って、それがオタク文化の代表のような素振りであるのは、東に見えるオタク世界がそういった「萌え」ソフトで閉じているからで、まさしく見通しの悪いオタクコミュニティの実態の反映であるように思える。東はこの本のなかで、正直に、「自分はやおいはよく知らない」と言っているが、知名度と自分の言葉を発表できる力を持ち、オタク系文化を社会一般の問題に開こうとしている東が、やおいを「自分は知らない」で済ませているのは、些か害悪であるとさえ思う。
だから、この本でわたしが評価できると思ったのは、東浩紀を中心として、斎藤環、竹熊健太郎といった従来のオタク批評のサークルに、小谷真理が加えられ、オタク女性側からの発言の回路も開こうとしている点である。しかし、その取り扱い方は十分とはいえない。「オタク」をオタクの男女ともを含めた一般的な名詞として使っていたり、また、「オタク/やおい」と分け、「オタク」を男性のみを指す名詞、「やおい」を女性のみを指す名詞と分類したりと、「オタク」という言葉の用法が混在しているのである。「man」「人類」がときどき女性を含んだり含まなかったりする、それと同じブレをこの本では「オタク」という言葉が、持っているのがおぞましい。きっと、そういう世界から逃走したくて、オタクの女性はオタクになるのに。わたしの理解では、実際の「オタク」「やおい」という言葉の使われ方としても、これは間違っている。女性のオタクは、自分を「オタクである」と言明し、「オタク」という言葉を当然男女とも含む言葉として使うし、「やおい」は作品分類のための言葉であって、人を指す言葉ではない。「わたしはやおいである」と発言するオタク女性は多分存在しないから、「オタク/やおい」という二項対立は変だ。
この本のなかで、小谷は、「ギャルゲーはセクシュアリティの話ではない」とする東に対し、「セクシュアリティを重要じゃないといって除外して、それを別の言葉で語っているのは、ホモソーシャル的だ」と批判し、東はそれを半ば認めている。だが、それは、「オタク論の系譜をつくりあげるためには、仕方がない」と開き直る。でも、本当にそうだろうか。「やおい」は、男性オタク文化を考察した後に、付随的につけくわえられるようなものではなく、それ自体が、オタク文化の中心問題のひとつであるとわたしは思う。だから、ひとまず女性オタクの存在は焦点化しないでオタク論を書いた後に、やおいはつけくわえればいいという東のスタンスは、オタク論の基盤を作ろうとするなら戦略的に誤りだと思う。ポスト・エヴァンゲリオンの今、もはや「萌え」にはセクシュアリティは関係なく、「データベース消費なのだ」という東の主張どおりだとしても、オタクにセクシュアリティの問題がかかってくるのは、少なくともやおい文化側では、1995年以降も変化しているわけではない。性別にかかわらず「オタク」という共通性質があるのか、それは斎藤のいうようにセクシュアリティに関することなのか、そして男女のオタクでどのように違いが生まれるのか、あるいは男性オタクと女性オタクとは全く関係がなく、別に語られるべき存在なのか、といった問いに先に答えてほしいとわたしは思う。そしてその後、男性オタク文化の現在を焦点化してほしい。