紙の本
映画を見てから読みました
2016/09/21 23:05
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投稿者:ほんだくん - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画を見て、小説を読みたくなって、読んでみたら、映画に出てくるような、カラッとした風景が広がっていて、爽快な読後感。寂寥感。
長く時間をかけて書かれた作品なので、ゆっくり読んでほしい名作。小説を読んでから映画を見るとまた面白いかも。
同じ作家の『小説 太宰治』もおすすめです。
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檀一雄氏は妻を愛していたんだと思う
2020/04/08 09:39
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は沢木耕太郎氏が檀一雄夫人のヨソ子さんに取材したルポ「男と女」の中で「火宅の人」が代表作だといわれていることについて本人は本望だったのかと書いている、私も同感だった。他の作品よりインパクトは確かにあるけど世間からは「家族を顧みず愛人に走った作家」としかおもわれないのではないかと思った。「リツ子その愛・その死」であれだけ夫婦の愛について語っていた方がどうしてと。でも作者は作品中で「その昔書いた愛妻小説を彼女も読んで、それを事実と信じ込み、私が先妻と今の細君とを桁違いに扱っていると妄想したかもわからない」また作中に出てくる愛人・静子についても「その実、大半は今の細君にはじめて逢ったばかりの頃の刻明な印象記なのである」とも語っている。この作品を読むと確かに作者はヨソ子のことが好きだったんなと思える。
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自分がいる場所から逃げ出そうと転居や旅、浮気を繰り返した豪放磊落な男性の生活は、辿っていくだけで確かにお尻に火をつけられた心地する。無頼でいることは大変なのだ。
2001/10/15 12:40
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投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
檀一雄が檀ふみのお父さんであり、死後ベストセラーになった代表作『火宅の人』が昭和の文学史に残る大作であることは知っていたが、直接この本を読みたい、読まにゃと思ったのは、沢木耕太郎の『檀』がきっかけである。それは檀一雄の妻であるヨソ子さんの語りの形式をとった不思議なルポルタージュで、『リツ子その愛・その死』で亡くなった前妻とのことが書かれ、『火宅の人』で愛人とのことが書かれた「正妻」の気持ちが、興奮による熱もなく恨みがましい冷ややかさもなくフラットに表現されていて面白かった。
が、ようやくこの『火宅の人』を読んでみて、「あっ、こりゃあひどい。奥さんや子どもにはあんまりだ」と呆れてしまった。 太宰治などという実名が登場するが、本人や家族、愛人の名は小説としての名を与えられている。しかし、ヨソ子さんに言わせれば、小説として歪曲されていたり誇張されていたり創作の部分が多いのだが、それが却って何でこんな風に書くのだろうという失望やら怒りにもつながっているようで、それがなるほどよく分かる赤裸々な放蕩と情痴の告白になっている。
主人公の桂には4人の子がいる。進んでいくと1人増える。長男は前妻の子で不登校を繰り返した上、ちょっとした窃盗事件を起こす。次男は日本脳炎で全身に障害が残って、ほとんど寝たきりである。
そんな家庭の事情がありながら桂は家を出て、同郷の女優の卵とホテル住まい。仮宿にいることで、歯止めをかけていたつもりであるが、経済的な問題も出てきてアパートを借りることになり、やがて転居もする。
係累を食わせるためと新聞連載はじめ小説を書きつづけるが、ビールやウィスキーをがぶ呑みしたり、人と交わりながら騒ぐことも好きな<宵越しの銭は持たない>気質ゆえ、お金は入っては出て行き、原稿料を前借する場面も多々ある。家にはときどき帰るが長居はしない。学校から帰ったら遊ぼうと思っている子どもたちを裏切ったりする。子どもたちも、そんな風来坊の「チチ(呼び名)」に慣れていってしまう。
執拗までに書かれるのは、女という性に対する情欲と、うまいものは自分の手をかけて食べたいという食欲である。親子ほどにも年が違い少女の頃には娘のように面倒をみていた愛人の体をどう求め、公演や稽古で彼女が留守のときに湧いてくる性欲がどのようなものであるかが記述される。
ふたりの関係に区切りをつけたいということもあって受けた海外旅行の間も、偶然知った彼女の元の愛人に嫉妬の炎を燃やす。おまけに、米国で知り合った女性と行きずりのランデブーに及ぶのだ。
情欲に突き動かされる合い間には、買い物カゴを下げて食材を仕入れ、野性味あふれる料理を人びとに振舞う。
沢木耕太郎も指摘しているが「常に自分がいる場所から逃げたい」男の、煩悩を真っ向から引き受けた生の記録である。無頼として生きるしかない人の切実さがすごい勢いで迫ってくるし、だからこそ周りの人間を魅了し続けたことがよく分かる。
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煩悩の極み
2001/06/09 08:08
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投稿者:典子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
死の床にありながら、20年がかりの大作の最終章を、口述筆記してもらって書き上げたとい本書。まさしく煩悩の極み「火宅」であった。
愛人と情事にふけり、ニューヨークのホテルで自殺の真似事をする。これは小説にも出てくる太宰治のことが羨ましかったのではないかという、檀ふみの談話があった。
檀一雄は引っ越した先で食料を買い漁るのが好きで、「食べるのが好きなのではなく、料理するのが好きなのである」というのが何度かでてきて愉快に思った。
本書に登場している愛人「恵子」が書いた「檀一雄の光と影」という本もある。
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開き直るでもなく、あの人とそうなっちゃいました、と言える人。その開き直りのなさ、言えちゃう残酷さ、全部を引き受けてしまえる大きさ、アナーキーとは、実はこういう人のことを言うんじゃないだろうか。
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「火宅の人」を読み終えて、なんとも言えず悲しく、寂しい気持ちになってしまいました。自分の生きたいように生き、好きな女と暮らし、天然の旅情に身を任せて、あてどのない放浪を繰り返す。こんなに幸せな生き方ってないだろうと思う。だけど、主人公の桂一雄は、どこか一貫して寂しさや悲しさをはらんでいて、そして物語が終章にさしかかるにつれてその悲しさはいよいよ深くなっていくように見える。かつて檀一雄の盟友だった太宰治は「斜陽」で滅んでゆく主人公たち(あるいは滅んでゆく"古きものたち")を描いたけれども、この「火宅の人」もある種そういった「滅びの物語」なのではないかという気がする。豪放な生き様、自分の道を突き進む男、彼は人一倍頑強で生命力にあふれているけれど、ふと気づけば、女たちは去り、ぬくもりは遠くに消え、愛する息子までもが死んでいく。生命力を持て余した主人公だけが後にポツンと残される。やっぱり、これは、悲しいよ。
もしかしたら、私は、檀一雄氏がほとんど「死と引き換えにして」遺したというこの本の、そのバックグラウンドに絡め取られ、私の頭の中にフィルターがかかってしまっているのかもしれない。この物語に「滅び」を感じるのは、「死を前にして完結された長編」という事実に動かされているんじゃないか?と問われれば、否定できないかもしれない。わからない。だけど、私にはこの主人公の悲しさに、人間の本来の姿を見るような気がして、この大きな物語は、滅んでゆく桂一雄というよりも、滅んでゆくすべての現在・過去・未来の人間たちの ―滅びゆくことがわかっていながらも、一瞬の愛や光を手にしようともがく人間たちの― 姿を描いているような気がしてならない。
……なんて、私はちょっとセンチメンタルになりすぎでしょうか?
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ヨーロッパ放浪中に読んでいました。訪れる街々が小説の中とリンクしていて、さも自分が小説の中をほっつき歩いているような不思議さがありました。
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沢木耕太郎の『檀』に触発されて読んだ。檀のヨーロッパ旅行のところが長かった。読みつかれる。 18.Apr.08
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THE・私小説。この本を、或る人に貸したら、
「どんなにユーメイで金持ちでも、好き勝手やってたら、孤独で終わってしまうんだな。俺はそんなの嫌だと思った。」
と言っていた。その、ストレートな感想の方が、心に残っている。
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檀を読んで興味を持ったので読んでみた。
檀を読んだから、だいたいのストーリー、流れはわかってたけど。
読めば読むほど、あーーこんな人って・・・。
どーしよーもないな、この人。イライラ・・・。
って思った。
もっと深く読むべき一冊なのかも知れないけど、
奥さん、関わる女性、そして何より彼自身に淋しさを感じた。
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ガンの激しい痛みの中で、最後の気力をふりしぼって完成させた長編。人々に大きい感銘を与えた。
『火宅の人』の生き方は、現代の管理社会の優等生的生き方と全く反対である。彼は社会のあらゆる約束事、既成の道徳、立身出世、家庭の幸福などを無視し、反逆的に生きとおした。
もちろん今日でも秩序への反逆を試みる者も脱出を企てる者もいるが、その多くが陥るようなみじめな落後者、ひねくれたすね者の生き方とは、檀一雄は全く異なっていた。今日の退嬰化、矮小化、規格化した精神からは絶対に生まれないおおらかさ、本質的な自由奔放さがあった。どんな逆境にもめげない、いや逆境とか不遇とかを受け付けない強さがあった。天然の詩情や旅情のおもむくままに生き、その瞬間瞬間の真実に忠実であろうとした。それがたとえ破滅に、背徳に向かう道であろうともちゅうちょするところがなかった。
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このようにして、私たち男女は、生きて、愛して、死ぬのだろう。
そのとめどなさも、おかしさも、めでたさも、何を咎めだてすることができるだろう。だとすれば、まず涙を拭え。
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リツ子さんが亡くなってからの壇一雄の放浪記。長男一郎、日本脳炎で寝たきりの次郎、弥太、フミ子、サト子、妻ヨリ子との新しい生活を置いて、劇団員の恵子や欧州旅行で知り合った葉子、行きづりの女たち、酒。
こんなすごい生活が淡々と語られていくんだよね。でもこれを書きおわってから3ヶ月後に亡くなってしまったそう。次郎くんとの触れ合いだけがほのぼの。
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能古島は、「火宅の人」檀一雄の終焉の地と言ってよい。息を引き取られたのはもちろん対岸の福岡にある病院なのだろうが。
能古島とかいて「ノコノシマ」という。
去年初めて福岡に出張したとき、この島をついでに見てみたいと思った。前時代の遺物と化した一眼レフを出張荷物の中に忍ばせておいたのも、未だ正式な呼び名も知らぬその島を、仕事の都合がどうであれ1人で「訪ねてみたい」という、躊躇ない思いがあったからだ。
半年たってその時撮った写真の何枚かをまじまじ見直している。
茄子畑の茄子が超アップで写っている。なんでこんなモノ。自分でもわからん。
福岡の街と島とを15分でつなぐ定期船の乗り場から旧檀一雄邸は歩いて10分もかからない。その道すがらの古民家の庭先に小さな茄子畑があった。なにかに駆られるように畑に入り込んだ。無論無断で。夢中でシャッターを切った。苦しくなるほどに前かがみになっていた。
なぜだか写真写りのよい茄子だ。初夏の陽が緑の葉に明るく透けている。深紫の葉脈が美しい。葉に隠れるように黒々とした、だがじつはよくみれば暗い紫色の実がなっている。もう少ししたらバタ焼きがふさわしい肥えた実になりそうだ。漬物にするには痩せたこのままがむしろいいかも。見直してみればそんな風にも思える。
檀が、あんなにも旨いものと女性とに焦がれたのは、なに故なのだろうか。料理に嵌ったきっかけは、幼い頃の母の出奔だったと、『火宅の人』の中にも『檀流クッキング』の冒頭にも同旨の告白がある。では女性についてはどうだろう。「幼い頃母に捨てられたことによる喪失感、欠乏感から」だなどと、ステレオタイプな決め付けをする気はない。文芸評論家でも精神分析医でもない私にそんな評価や診断を下す資格もない。
だが、毎日の通りすがりに見かけるあの茄子を、檀一雄が喰ったであろう事は確信する。もちろんキチンと譲ってもらったかもしれないが、時には奪ってでも女性との結びつきを実現した男である。場合によって盗んででも手に入れて料理して食ったことは間違いない、と私には確信できる。
『火宅の人』と、沢木耕太郎の『檀』を読んですっかり入り込んでいた私は、アノ瞬間、完全に檀一雄の眼になりきっていた。盗ったのではなく撮ったという違いだけだ。その証拠が一枚の茄子の写真である。
茄子畑を過ぎ、島の名物らしい饂飩の製麺所を曲がったあたりから坂道になる。坂道を100メートルばかり登るとその家は「あった」。
あった、と殊更に書くのは、実はその家はすでに取り壊されているとの情報もあったからだ。すでに「跡地」となっていてもそこに立ってみたいとの思いだったから、「あった!」なのだ。
畑の中の道から、朽ちたコンクリートの小道がる。その先にエンジ色の玄関扉が閉じている。三角屋根の白い家は50坪位だろうか。庭には新しい碑が建っていて、縁側からは対岸の福岡の街が真近に見下ろせる。
勿論中には入れないが、かつてこの家のなかには石神井の本宅から運ばれた、レンブラントの自画像が飾ってあった。
『火宅の人』のなかで主人公の桂は��ヨーロッパ放浪の最末期に訪れたプラド美術館でレンブラントの一枚と出会い、はかりしれない衝撃を受ける。
『火宅の人』は20年に渡り執筆された。おそらくは著者自身の遍歴の軌跡であろう。愛人や行きずりの女性たちとの関りを赤裸々に描いたことだけが、注目されるべきではないと思う。同時にまた、誉めたたえらるべき崇高で立派な試みだったとも正直思えない。しかし、今風の若者たちの軽薄な「自分探し」の旅、と同じようなものだったのではないかと思えば少しは合点がいく。日本と世界と、妻と愛人と数々の女性たちを遍歴し、最後の最後にたったひとりで通りがかったのがスペインであり、レンブラントの一枚の前だった、とするならば。
「ほとんど声を挙げたいほどの感動」で「矢庭に、その自画像の前で脱帽になる。思いもよらず、自分の両の瞼からあふれてくる涙が感じられて、私は人気のない廊下の暗がりの方に向かって走り出した」
これほどまでに桂すなわち檀を揺さぶったのは、放浪の果ての果てに見出した自身の魂の有り様にほかなるまい。桂すなわち檀は、妻にも愛人にもヨーロッパで出会った女にも愛想ずかしされ、原稿料を手に入れる手段にも事欠き、曇り空の下パリジャンが歌う地中海の太陽と自由に焦がれるシャンソンにどうしようもなく惹きこまれる。
「頬のあたり、心持ポッと赤味さしていて、この巨人が耐えている淋しい時間の、容易ならぬ彩りに思われる」
その自画像に出会った瞬間の思いを檀はそう記す。だが、《淋しい時間に耐えているこの巨人》とは、レンブラントの自画像にことよせているけれど、実は檀一雄、お前自身に違いないだろう。愛すべきものに惑い書くべきものに難渋し、ヨーロッパのはてまでたった1人でたどり着き、それでも書き続ける自分自身の姿であり、あんた自身の全くの手前勝手な解釈だろ。
でも、その手前勝手な解釈、私にも身にしみるほど良くわかってしまう。これまた極めて手前勝手な解釈ながら。
「赤とんぼ じっとしたまま あしたどうする」
と寅さん渥美清が風天の号で詠んだとき。
「青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか」
と芥川龍之介が餓鬼の号で詠んだとき。
ともに赤とんぼも青蛙も寅さんと芥川自身である。であるからこそその哀しさにふれ人は泣く。自分探しの放浪のはて、たったひとりにになって見出した境地がレンブラントの頬の赤味だったのだとするならば、大小説家のためではなく、1人のはかない男のために、人は涙を流す。
私の連想・妄想からうまれた曲解があたっているかどうか、それは知らない。だがともかく20年がかりの長編を書き上げたころ、檀一雄はこの家に住み、レンブラントの複製画をこの家に飾った。
あと二枚写真がある。
九州電力の電気メーターが写っている。金属製のホロは数十年の風雨でぼろぼろに錆び朽ちている。だが、プラスチック製の本体は真新しくさえ見える。止まっているはずの回転計も回っているかのように見えてしまう。
プロパンガスボンベもある。西日に照らされた取っ手の部分のクローズアップだ。やはり金属部分は真っ赤に錆び、少し強く押したらぼろっと欠けてしまいそうだ。確実に��十年の月日が経過している。八角形の取っ手は、指を掛けるための凹みが八箇所付いている。
そう、あのとき私はその凹みに手を掛けてみた。旨いもの好き、料理好きの檀が30数年前に同じように手を掛けたに違いない取っ手であるのだ。あの茄子は今日の味噌汁の具にするかな。博多で仕入れた酒もいい。
ためしに回してみた。回った。「ぷ、す」と微かに音がした。
その男は、確かに、そこに、いた。
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中学時代太宰治ファンだった私(恥)としては面白くないわけがない! 大人な太宰というかんじですか?(素人発言ですみません) なぜ今まで檀一雄を読んでいなかったのか。