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紙の本
アウトブリード (河出文庫)
著者 保坂 和志 (著)
小説とは何か? 生と死は何か? 世界とは何か? 論理ではなく、直観で切りひらく清新な思考の軌跡。真摯な問いかけによって、若い表現者の圧倒的な支持を集めた、読者に勇気を与え...
アウトブリード (河出文庫)
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商品説明
小説とは何か? 生と死は何か? 世界とは何か? 論理ではなく、直観で切りひらく清新な思考の軌跡。真摯な問いかけによって、若い表現者の圧倒的な支持を集めた、読者に勇気を与えるエッセイ集。【本の内容】
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紙の本
小説の「小説性」について徹底的に考え抜くこと
2003/05/25 17:43
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
『言葉の外へ』があまりに素晴らしかったので、ちょうど文庫本化されたばかりの本書を再読して、あらためて「小説という仕組みを使って何かを考えようとしている」(『小説修業』)保坂和志は小説という仕組みを超えたところでもやっぱり考え続けてきた人なのだと思い至った。保坂和志が考え続けてきたのは、「科学と哲学は、人間と世界の配置を劇的に変えた。科学や哲学との連関を失ったら文学が書かれ読まれる意味はないと僕は思う」ことと「心から書きたいのは、小説ではなくて哲学なのかもしれないと思う」こととが切り結ぶ場面で、小説の「小説性」について徹底的に考え抜くことだ。
保坂和志はあとがきで、小説が別種のディスクールを用意することができるとしたらそれはどういう手続を経るのか、タイトルの“アウトブリード”(OUTBREED:異種交配)はここからきている、と書いているが、それはつまり「小説という仕組み」を超えたところになりたつ小説のディスクールを模索するということなのだと思う。文庫化に際して「自作に関するエッセイ」を数点追加収録したとある。この「自作に関するエッセイ」の素晴らしさのうちに、「小説」の次に来るディスクールへの道筋を考え続ける保坂和志の面目が躍如している。
紙の本
若者から圧倒的支持を得ている保坂和志氏の直観で切り拓く斬新な思考法によるエッセイ集です!
2020/07/06 09:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『草の上の朝食』(野間文芸新人賞)、『この人の閾』(芥川賞)、『季節の記憶』(谷崎賞)など次々に話題作、名作を発表してこられた保坂和志氏のエッセイ集です。同書では、「小説とは何なのだろうか?」とか、「生と死とは一体どんなものだろうか?」、さらに「世界とは何だろうか?」といった疑問に、論理ではなく、直観で切りひらく清新な思考の軌跡を描いています。同書の構成は、「愛」、「やっぱり猫のこと、そして犬のこと」、「重層の時間」、「人間の肯定」、「羽生→理数→小説」、「言語化の領域」、「様態のこと」、「現代文学のベクトル」、「混乱や飛躍」、「よく知っていない何か」となっており、興味深い話が次々に登場してきます。
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「当たり前」の陥穽
2003/07/08 09:36
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
とても考えさせられる。
保坂和志の小説は二三読んだだけで、その時にはそれほど面白いとは思わなかったのだが、オリオン氏の一連の書評に惹かれ、本書を読んだら他の本も読むべきだと思った。
「小説とは何か? 世界とは何か?」とは帯に付されている言葉だが、私と世界とはいかにかかわっているのか、というのもまた重要な問いだと思う。
その手がかりとして保坂が用いるのは、何よりもまず感覚だろう。感覚と言葉のずれ、言葉にできない感覚、世界をどう認識するかなどなど、何度も読み返してみなければ私には理解しきれない考えのなかで、保坂が感覚を重視しているのははっきり浮かんでくる。
「『よく知っていない何か』は、いつも特異なディスクールによって語られている」44頁
その時、彼はその特異な感覚を邪魔なものとしてはねのけることはせず、何か未知のものの到来であると考える。そのディスクールの意味を問うことで、小島信夫や田中小実昌、サミュエル・ベケットらのテクストと付き合っているようだ。
保坂和志はわかったもの、当たり前のものを当然のものとして扱う態度を忌避する。小説の描写などがなぜあるのか分からないという時に、わからないまま小説とはそう言うものだという風にして「当たり前」の小説を書き始めたりはしない。
彼は自分の感覚に忠実だ。それは結構むずかしいことだと思う。人が当然だと思っていることに敢えて異議を唱えるのは、母に怒られたり、誰かにたしなめられたりして、いつしか平坦さのなかに埋まってしまう。わからないということは考えるチャンスであるとは教師が言う言葉だが、その美辞麗句も実際自分の考えの自明性を突き崩されそうになった時には易々と捨てられる。
「当たり前」とはひとつの恐怖である。
しかし、自由もまたひとつの恐怖であるだろう。自由であるからこそ、不自由に回帰してしまう。
数多ある小説がどれも同じようなディスクールで語られている、それがなぜか分からない。そう感じたら、それは不自由さを意識したと言うことだろう。小説を読みはじめる時には、誰もがそのような不自由さを感じたと思う。私も、なぜ状況や会話を描かなくてはならないのか分からない時期があった。そもそも、小説という「ディスクール」がなんなのか、今もって分かっているとは言い難い。しかし、われわれはその見慣れた当たり前のものに安心してしまうのではないだろうか。
見慣れたものは詰まらない、紋切り型で喋る人は詰まらない、と彼が書くのはそれに徹底して抵抗しているからだろう。
紋切り型とは、認識の死なのだ。
彼は、科学と哲学を文学を生み出す異種交配の方法として考えている。三者の結合としての文学を夢みる。
中盤に配された「「世界の意味」のための下書きの準備」や、「生と死についての問題へのアプローチについて」という、奇妙なねじれた標題を持つエッセイは、ともに科学と文学を結びつけようという試みが良く現われていると思う(きちんと全体を把握してないのでこれより良い例はあると思う)。
特に、この部分。
「量子力学を自然なこととして語ることのできる文の構造さえ考えられればそんな問題は一挙に解決してしまうだろう。/いわば。もしくは。排中律を否定することを当たり前とする文は、それは間違いなくとても奇妙な文だろうが、それに馴れてしまえばきっと使って使えないことはないだろう。あいにく、いまだにそれをまともに考えた作家や哲学者はいない」197頁
何も、を保坂和志がまともに考えているというわけではないのだが、それにしろこの文の持つ意図というのは普通、奇異に見えるだろう。科学がもたらした認識の枠組みの根本的変化を、今ある自明の言語で考えることはその変化を均してしまうことではないかという意識がこのような問いを発させるのだろう。