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商品説明
クローン万歳! バイオテクノロジーはすばらしい。なぜならそれが怪物たちを生み出すから…。全く新しい視点からバイオを論じ、哲学のテーマとしての生殖を取り上げる、ポレミカルな思想への招待。未来はこの一冊から始まる。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
小泉 義之
- 略歴
- 〈小泉義之〉1954年北海道生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程哲学専攻退学。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に「弔いの哲学」「ドゥルーズの哲学」「レヴィナス」ほか。
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紙の本
怪物を歓待する
2003/05/18 16:08
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:稲葉振一郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一読して頭を抱える。相変わらずあちこちにアラやでたらめが目立つ。しかし今回は基本的に有意義なことを書いているような気がしてならない、というか、気分のレベルでは肯定するぞ私はとりあえず。
前著『レヴィナス』ではしめくくりが「繁殖」論であり、次なる課題として肯定的思想としての「人間家畜論」が提起されていたのだが、その展開が早くもここに開始されている。それは『ドゥルーズの哲学』においてよりも明快かつ積極的に、ドゥルーズ継承のひとつのあり方をネグリ&ハートなどよりまっとうに提示するものになっている。
時論的にいえば本書のテーマは優生思想批判の批判である。既存の左翼の生殖技術批判、生殖技術を悪しき生−権力と見て社会的にコントロールしようという志向を批判し、むしろ逆に「できることはなんでもやれ」と生殖技術の社会化、その肯定的な生−権力への奪還を主張するその論法は一昔前、科学批判以前の伝統的進歩主義左翼を思い起こさせる(生殖技術に女性解放の希望をかけたファイアーストーンなど旧ラディカルフェミニストも)。実際それだけなら旧左翼と、そしてネグリ&ハートと変わらないわけだが、一点重要な違いがある。解放された生殖技術の恩恵をこうむる・収穫を受け取る主体は、われわれではない——プロレタリアートでもなく、人間でもない。それは怪物たち、生殖技術によって出現するであろう怪物たち——つまり、ダナ・ハラウェイのいう意味でのサイボーグ——である、というのだ。ここにその思考はマルクス主義的左翼の臨界を越え、逆説的な形でヨナスやレヴィナスと通じていく(ヨナスやレヴィナスにとって来るべき次世代はなお「人間」であろうがしかしそれはやはり「他者」である)。あるいは『ナウシカ』を思い出されてもよい。これに比べればネグリ&ハートの「マルチチュード」なんてしょせん人間であるから、たかがしれている。
もちろんこうした議論はある意味過度の楽観主義とも言える。そして本書には、それへの戒めにつながりうる議論も見られる。すなわち、生殖技術・優生思想とは人間家畜化であるわけだが、人間家畜化はすでに既定の事実であって否定してもしようがない。しかし人間家畜化が家畜化の一種である以上、しょせん優生思想にできることもせいぜいそんなところでたかが知れている。自然選択と人為選択は結局のところ連続しているのであり、生殖技術もダーウィン的進化の地平を越えられない——と。だとすれば、アホな優生思想家が夢見るような「神のごとき人々」も期待できないのと同じくらい、小泉が期待する「想像を絶する怪物」も望み薄ではないか、とぼくなどは思う。
しかし一応この「怪物」について考えてみることは意味のあることではないか。時に「怪物」を生む生殖技術を、そして自然を肯定できないことには、何事も始まらないのではないか。この問題提起は至当であると思える。
紙の本
人類の未来をラディカルに思考すること
2003/05/31 20:35
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書第三章に「埴谷雄高と廣松渉は、革命家たらんとするものは、子どもを生んではいけないと語っていた」というくだりが出てくる。小泉氏は続けて「革命は未来に関わるのに、そのときに人間が生きているべきかどうかについては何も考えていなかった」と、生殖に関して反動的であった「革命家」を揶揄している。そういえば埴谷雄高に「単性生殖」という短い文章があった。革命家たる男子は子どもを生んではいけないが、女子には処女生殖という未来を展望する途が残されているというわけか。(「単性生殖」にそういう趣旨のことが書かれているわけではありません。)
単性生殖に関連して、第一章では、「セクシャリティとは区別される有性生殖という生殖方式そのものが原罪に相当することになる。こう解することで、古代からのキリスト教神学は、一挙に現代的な意義を帯びます」と述べられている。ここで想起したのが、異端の書『トマス福音書』の次の一節。「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、[御国に]入るであろう」(荒井献訳)。
彌永信美氏は「魂と自己—ギリシア思想およびグノーシス主義において」(『「私」の考古学』)で、『トマス福音書』の記述やグノーシス主義のシュジュギアー(合一)体験から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)による単性生殖へと議論を進めていた。小泉氏がいう「古代からのキリスト教神学」にグノーシス主義を含めて考えるなら、その「現代的な意義」とは、クローン技術を身につけた現代のデミウルゴス(創造主)をめぐる神学的思考に対するものにほかならない。
小泉氏は第二章で、「人間なる生物は、肉の歓びを介するのでなければ、生殖に到らないようなそのような生物として自らを形成してきたのである。クローン技術は、こうした人間の前史を終焉させる。いずれ人間は、クローン技術の力能を体験し思考することを通して、現在の肉の歓びを純粋な友愛に転化し、現在の生殖を純粋な子どもへの愛に転化させることであろう」と未来を予言している。
これはほとんどミシェル・ウエルベックの『素粒子』の世界だ。一神教の誕生、科学革命、そしてクローン技術がひらく第三次形而上学革命。そこでは男女の差異が失われるが、「生殖方法としてのセクシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを意味しない」。それどころか、「ちょうど、胚形成の歳クラウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特定されたところだった。人類の現状では、これらの小体はクリトリスおよび亀頭の表面に貧しく分布しているのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく行き渡らせることがいくらでも可能になるだろう──そうすれば、快感のエコノミーにおいて、エロチックな新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚がもたらされるに違いない」(野崎歓訳)。
──生命と自然について、ラディカルに思考すること。やるからには価値を転倒し、価値を創造するまで徹底的にやること。こうして、未来の生殖をめぐる小泉氏の思考は人間の外部へ、「来るべき他者」(『レヴィナス』)へ、すなわち「現行の人間とは異なる品種・人種、「交雑個体」、別の生命体」へと向けられていく。