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紙の本
決して中座などできない極上の俳句談義
2003/07/01 14:27
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:伊豆川余網 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一晩で読んだ。読みやすさというより、〈漱石・子規・著者〉の鼎談によって漱石句100作を年代順に辿るという仕掛けに見事はまり、傍聴を中断できなくなってしまったため。
知られているように、漱石と子規はともに慶応3年生まれ、大学予備門(後の旧制一高)以来の親友。東京の生活が嫌になった漱石が、明治28年よりによって子規の郷里愛媛県松山の中学教師として赴任、そこに記者として日清戦争に従軍しながら結核の悪化で帰国した子規が静養のため帰郷する。といっても子規は、大学を中退して就職するや母と妹を東京に呼び寄せたから近親者は松山にすでになく、まして当時結核患者とあっては、決して錦を飾ってという訳ではなかった。そんな子規を自分の下宿に住まわせたのが漱石。居心地の良さに味を占めた子規が同志を集め、病後の無聊を散じるため盛大に催したのが句会だった。この松山での再会、句会を端緒に、漱石は子規から俳句を本格的に学び、改めて実作の悲喜を知る。子規もまた、〈俳句の指導〉という得難い口実を得て、まだ〈原石〉だった漱石を本音を言える畏友として遇し、その後の短い生涯の〈宝〉としたのだ。ゆえに、世に実名仮名の対談鼎談数多くある中、漱石対子規という顔合わせほど、魅力的な企画はなく、それだけに下手をすれば、これほど思い上がった本はないということになる。
ところが、坪内氏は見事にこの魅惑の架空対談、いや御当人も加えた世紀の鼎談をやってのけた。成功した理由は、まず坪内氏が、『漱石俳句集』(岩波文庫)の編者として全漱石句2千6百余句から8百余句を選んだ経験を生かし、全作句の70%が松山と熊本(五高教授)時代の作であることを見極め、本書選出100句の比率をほぼこれに準じたことだろう。この結果、漱石と子規の対話という仕掛けが、よく効いた(ただし、『漱石俳句集』自体は脚注がやや少なく不親切で、漱石俳句を味読するための最良書とは言い難い)。
つまり、漱石の句を「小説家(さらには文豪)漱石」に囚われ過ぎて選出、鑑賞すると、20〜30代に多作した漱石の俳句作品のいい意味も含めての「若さ」が見えなくなり、味わうのが詰まらなくなる。つまり贔屓の引き倒しになるが、坪内氏のそのあたりの呼吸は程がいい。何よりも子規という〈文豪以前の漱石〉を熟知した、文字通り師匠の「発言」(「発言」は当然ながら坪内氏の虚構だが、そこには子規の随想、漱石の回顧、両者の著名な書簡の内容・表現が絶妙に採り入れられている)を縦横に活用して、ときに用捨なく、ときに暗示的に漱石の(文学)体験を再構築し、時代時代の漱石の相貌を現出させてくれる。
実は、二人の個性に依存して勝手に語らせるだけでも、ある程度面白くはなる筈だが、司会役として坪内氏が適切な話題を振ることで、一座が単調ないし感傷に堕ちるのをうまく回避している。例えば漱石・鴎外初対面となった明治29年、根岸子規庵での初句会の成果(無記名投句という当然のルールの中、鴎外は漱石の作「干網に立つ陽炎の腥し」を選句)に喜々とする漱石など傑作だし、また、子規の郷里の後輩だった虚子が、漱石句へ与えた低い評価を坪内氏が紹介すると、それに対して、漱石よりも子規が憤慨するくだりも最高だ(別の箇所では二人で虚子をからかっている)。このあたり、漱石と子規2者間の往復だけでは得られない展開で、本書にいっそうの生彩を与えている。
子規は、漱石が英国留学中の明治35年に亡くなる。子規への追悼句は本書では90句めに登場し、もちろん二人はその後も(20ページほど)話し続けるのだが、ここまで最高の清談放談を傍聴してきた読者は一瞬、胸を衝かれる。「今夜のこの一座は、一人また一人と、黄泉路を辿って来てくれたお陰の、貴重な一夕だったのだ」と思わずにはいられない。それほどまでに、二人への共感、追慕が、最後はことによく感じられる、好著である。
紙の本
いいのは少しほめ給え。
2003/06/15 18:44
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
(夏の雨) 今回の書評は岩波新書から出ました坪内稔典さんの「俳人漱石」ということで、夏目漱石先生と正岡子規先生に特別ゲストとして参加して頂きました。
(漱石) 稔典君の本の雰囲気を真似ようという魂胆だな。
(夏の雨) そうなんです。坪内さんのこの本は、俳句を作られた漱石先生と漱石先生の俳句の師匠でもあった子規先生を登場させて、仮想座談会を進めるような形で書かれているんですよね。
(子規) 坪内は俺たちのことが好きで仕方がないから、俺たちのことをよく知っているよな。だから、それぞれの特徴をつかんで、きっと漱石ならこう云う、子規ならこう話すって、うまく書いているよ。
(夏の雨) だから、この本は漱石俳句の鑑賞だけでなく、漱石先生や子規先生の人柄なんかもよくわかるようになっています。それにしても、この本で紹介されている漱石先生の俳句を読んでいますと、短期間ですごく上達しているのがわかりますよね。
(子規) 俺の指導がよかったからだよ。
(漱石) わしの才能だよ。
(夏の雨) というより、俳句というのはリズムの文学だと思うんですよね。漱石先生の俳句がすごく上手くなっていったのは、ある時期集中して俳句を作られたからだと思います。明治二九年には五百以上作っています。生活そのものを五七五のリズムで実感していたんじゃないですか。だから、俳句が上手くなりたければ、とにかく作ることだと思います。漱石俳句を年代順に読んでいくとそのことがよくわかります。
(漱石) いいこと云うじゃないか。
(夏の雨) それと、やはりお二人の友情が漱石先生の創作欲を高めたともいえます。私が素敵だなと思ったのは、この本に紹介されています(70頁)が、明治二八年のお二人のやりとりです。引用しますね。「わるいのは遠慮なく評し給え。その代りいいのは少しほめ給え」特に後段の部分、漱石先生の子規先生に対する甘えみたいな表現がいいですね。深い友情を感じます。
(漱石) ところで、君はわしの句の中で何が一番好きなのかな。
(夏の雨) 明治四三年に書かれた「別るゝや夢一筋の天の川」ですね。でも、今日はお二人の友情ということで、子規先生が亡くなった時に倫敦で作られた「筒袖や秋の柩にしたがはず」にしておきます。
(漱石) うまくまとめおったな。それにしても、君の書評名の「夏の雨」は気障でいかん。
(子規) 同感ぞな、もし。