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商品説明
【前川佐美雄賞(第2回)】茂吉が五十代のときに詠んだ五つの歌集、「石泉」「白桃」「暁紅」「寒雲」「霜」。五十代に足を踏み入れた、日常をシュールに俯瞰する歌人が茂吉の突出した空想力と独特の時間感覚を徹底解読する。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
短歌—落差を詠み落差を読む文学
2003/09/06 23:00
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投稿者:辺見カフカ - この投稿者のレビュー一覧を見る
小池光は、短歌は詩ではないと言う。こういうことを伝えたいからこういうことを書いた、ということがないのが詩だという。だからどうでも読める。対して、上から下まで通った意味性がある、つながりが見える、だから安心して読めるのが短歌だという。それなら散文か、というとそれもまた違うという。どこがどう違うのか。
短歌には短歌の詠み方(作り方)、また読み方があるというのだ。それがこの本を読むと明瞭によくわかる。俳句でも詩でも散文でもない、「短歌」というものがどういう種類の文学なのか、なにに焦点をあて、なにを見所とする文学なのかがようく見えてくる。
たとえば、作者は茂吉の作品の中でも人口にあまり膾炙しない有名でないものをあえて取り上げ、次のように読んでみせる。(本文75ページ〜 『白桃』)
伊香保呂の榛名の湖(うみ)の汀にて消(け)のこる雪を食べるをさなご
「…伊香保呂の榛名の湖の汀にて…とまことにおごそかに、荘重に歌いはじめる。それで次になにが出るかと思うと、ただこどもが雪を食っている。その落差に意表をつかれる。もっとも想定できなかったものに出くわしたという感じがする。「をさなご」が最後の最後に出てくるのでいっそう意外性が増す。…最も想定できないものに出くわす、という印象は一首の価値判断のひとつの基準として重要である。そこにたたずませる力が発生するからである。別にいうと謎が生まれる。こどもはただ残雪のかけらをほうばっただけなのだが、そこが、「伊香保呂の榛名の湖の汀にて」であればその行為になにがしら謎めいたもの、一種の神秘性が付着する。この神秘性はこどもの行為じたいに由来するものではいささかもなく、あくまでも言葉が作り出した、新たなことばの関係によって生み出される。そこに<文学>というものがある。」
こう書く一方で、作者はまた、次のようにも読んでみせる。(本文143ページ〜 『暁紅』)
冬の雨ほそく銀座に降りにけり道頓堀のおもほゆるころ
「…人を食った歌である。…月を見て太陽を思うというに等しくないか。…それで歌になるか、なるなら苦労しない。…新宿にいて渋谷を思う式の発想がなぜ歌にならないか、いうまでもなくそこに落差がないからである。東京にいて渋民村を思う、なら落差がある。むろんこの落差は相当手垢にまみれている。落差が落差としてみえすぎたときすでにそれは落差ではない、…しかし落差を意識し、落差のあいだに散文では表現できない飛躍を抱え込もうとする意識において、東京から渋民村への発想は規範に添っている。ところが、銀座から道頓堀ではただの空間の移動であり、東西盛り場のあっけない併置だ。飛躍はどこにもない。だから、こういう発想を常人はしない。…常人でない茂吉は、しかるに、こういうセオリー破りを時に平然と行い、何ら動揺しない。落差の原理を無視し、併置であろうとあるまいと気にせず、ただ口をついて出たままの語気にのみしたがって歌に成す。その有無を言わせぬ奇妙な迫力がひたひたと迫り、殆どあっけにとられてしまう。…」
このように、この本には自身、「歌は直角に作る」という小池光が、それゆえに茂吉の歌の、また茂吉という人間の、どこにその「直角」「落差」を感じているのかが一首ごとに具体的に示されている。「短歌入門」の類の著書をもたない小池光の短歌観、またその作歌の勘所、工夫のしどころ、また読みどころがようくわかる一冊である。