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伊豆の踊子・温泉宿 他四篇 改版 (岩波文庫)
伊豆の踊子・温泉宿 他4篇
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収録作品一覧
十六歳の日記 | 5-42 | |
---|---|---|
招魂祭一景 | 43-62 | |
伊豆の踊子 | 63-104 |
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紙の本
巻末に作者・川端康成氏のあとがきがある
2020/04/09 22:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「伊豆の踊子」は他の文庫でも出版されているのだが岩波文庫版のいいところは、巻末に作者・川端康成氏のあとがきがあること。作者が20代の時に書き上げた作品から作者自身が6篇選んだとあとがきにいある。川端氏が菊池寛氏や久米正雄氏に認められたという「招魂祭一景」は大正14年に「新思潮」に発表されたものなのだが、ここに登場する曲馬娘は「伊豆の踊子」の踊子・薫と重なるなと思っていたら、作者もあとがきでそのようなことを書いている。私の世代では、「伊豆の踊子」というと山口百恵と三浦友和のイメージが強すぎて、この作品を読んでいくらイメージを膨らまそうとしても、どうしても二人の顔しか浮かばない。
紙の本
明治・大正の在宅介護記録も収録
2019/07/28 20:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読人不知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
表題作のほか、実験作や川端康成氏の少年時代の日記など、創作の流れがよくわかる構成の短編集。
伊豆の踊子などは既に多くの方が感想や評論を書いておられるので、ここでは日記に焦点を当てる。
明治末から大正初期にかけての高齢者を在宅介護する家庭の様子がわかり、介護記録としても貴重な資料なのではないか。
康成少年の在宅時には、少年が下の世話を行い、学校などで不在の折りは、近所の農家の女性が世話に通う。
比較的裕福だった地元の名士だからかもしれないが、このようなご近所ネットワークによる支え合いがあった時代なのだろう。
件の農家は康成少年の祖父に何か恩があるらしく、自身が頭痛でも、赤子が生まれて自分の家庭が忙しくても、深夜でも、介護に通ってくれた。
彼女の働きがなければ、康成少年の創作活動も支障があっただろうと思われる。
また、彼女らとの近所づきあいの経験が、その後の創作活動への土台の一部になったのではないか。
寝たきり祖父は、視覚障碍と初期の認知症もあったらしい。
短期記憶の欠落で食事を取ったことを忘れる件について、当時の人々の認識が「キツネ憑き」だったのも興味深い。
病気や本人のせいではなく、妖怪の類のせいならば、腹も立たないと言う昔の人の知恵だろうか。
「どうせ小説家になんかなれない」云々と突き放しつつ創作活動を許容した氏の祖父は、ノーベル文学賞を受賞した孫と再会できただろうか。
紙の本
涙が零れるようにすがすがしく
2001/03/05 00:58
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:katokt - この投稿者のレビュー一覧を見る
ラストを語るならこの本が欠かせないな、これも今でも学校の教科書にのってるのかな? 載ってないなら必読の短編。ラストを引用しておきましょう。
「私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。中略、船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出任せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」
会話の部分にはさすがに古さを感じるが、今でも十分読める言葉だと思う。言葉に表される気持ちの流れがよどみなく、まさに涙が零れるようにすがすがしく読むものの心にしみこんでくる。
紙の本
二十代で天才であるということは
2012/02/26 09:02
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本文庫には、解説が無くてその代わりに筆者の後書きがあります。そこに「私の二十代の作品から、ここに六編を選び出した。」とあります。大正末期から昭和初期にかけての作品です。こんなラインナップです。
『十六歳の日記』『招魂祭一景』『伊豆の踊子』
『青い海 黒い海』『春景色』『温泉宿』
『温泉宿』が典型だと思いますが、その描写力は、もう、圧倒的なうまさであります。
何の描写がうまいかと言えば、これですね。
「たくましくも幸薄い日本髪の女性(の裸)」
最後についているカッコは何だといわれそうですが、まー、そのままですね。これが抜群に上手であります。例えばこんな感じです。『温泉宿』の冒頭、入浴シーンです。(入浴シーンがこれまた、とてもたくさん出てくるんですねー。)
-------------------------
彼女らは獣のように、白い裸で這い廻っていた。
脂肪の円みで鈍い裸たち――ほの暗い湯気の底に膝頭で這う胴は、ぬるぬる粘っこい獣の姿だった。肩の肉だけが、野良仕事のように逞しく動いている。そして、黒髪の色の人間らしさが――全く高貴な悲しみの滴りのように、なんという鮮やかな人間らしさだ。
お滝は束子を投げ出すと、木馬を飛ぶように高い窓をさっと躍り越え、いきなり溝に跨ってしゃがみ、流れに音を落としながら、
「秋だね。」
「ほんとうに秋風だわ。秋口の避暑地の寂しさったら舟の出てしまった港のように――。」と、湯殿からお雪が艶めかしく、これも恋人づれの都会の女の口真似だった。
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私は本作を読みながらふっと思ったのですが、川端康成と谷崎潤一郎とはどんな関係だったのかな、と。
「どんな関係」というのは、要するに両者とも、小説的世界としては極めて歪に生涯「女性」ばかりを描きながら、描かれた女性はまるで異なっているという意味においてですね。
谷崎の描く女性は、何といっても誇らしげで自信たっぷりです。極めて陽的。
それに対して川端の描く女性は、あたかも陰花の様です。上記にもありますが、どこか幸薄い。
例えば、谷崎の女性は(特に若い頃の作品は)、別に日本女性でなくっても良さそうです。作品の中にも白人のようであるという説明の女性が出ていたと思います。
一方、川端作品は、今回の二十代作品集を見ても、「日本髪の女性」であります。谷崎が、長い執筆生活のちょうど真ん中あたりで、女性の嗜好が大きく変わったのに対して、川端は若い頃から一貫しています。
そのせいだけではないでしょうが、川端がノーベル文学賞を受賞し、その理由の一つに繊細な日本の美を描いたこととあったのは、なるほどと思わせるところがあります。
(ついでながら、谷崎作品には、どの作品もどこか人工的な御伽話のようなところがありますね。描かれる女性が「陽的」であるのとも関係しているんでしょうかね。)
ともあれ、この違いは両者の女性観の違いでしょうか。それとも女性観とはまた別のものなんでしょうか。少し興味深いところであります。
そしてもう一点、本短編集を読んでいて唸ってしまったのは、実に全編にわたって「比喩の嵐」であります。
以前『雪国』を読んだ時に、ふわりふわりと降る雪のことを「まるで嘘のように」と喩えてあったのに感心したのですが、象徴のような隠喩から新しい美意識の創造のような直喩まで、見方によっては少々あざとさを感じかねないくらいにでてきます。(『青い海 黒い海』という小説は、明らかに意図的に比喩による混乱をねらった作品です。)
しかし改めて思うのですが、これが筆者二十代に書かれた作品なんですね。
二十代という時期は、その分野の第一人者、つまり「天才」にとっては、既に「早熟」と呼ばれる時期ではないのかも知れませんが(「早熟」というのはやはり十代中盤から後半という感じでしょうかね。例えば、アルチュール・ランボーのように)、もう知るべき事は知り尽くしてしまった、やるべき事はやり尽くしてしまったという、ほとんど総てのことは手に入れたといった感じの時期なんでしょうか。
しょせん天才とはまるで縁のない私の感覚からは想像もつきませんが(以前、中島敦が、私は若い頃「忘れる」という感覚が分からなかったみたいなことを述べているというのを読んだ時、つくづく人間とは不公平に作られているものだと嘆息しました)、二十代でここまでやれてしまうと、残りの人生は、必ずしも本人にとって「素晴らしいもの」であるのかどうか、少し分からないような気がしますね。
確か、サマセット・モームがそんなことを書いていたように憶えていますが、天才とはそれを持って生まれた本人にとっても大いに「負担」なのである、と。
なるほど、完璧に人ごとながら、そんなものなんでしょうかね。