- カテゴリ:一般
- 発行年月:2004.7
- 出版社: 国書刊行会
- サイズ:20cm/331p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-336-04566-6
- 国内送料無料
紙の本
ケルベロス第五の首 (未来の文学)
人間に似た異生物が住む惑星を舞台に、「名士の館に生まれた少年の回想」「人類学者が採集した惑星の民話」「尋問を受け続ける囚人の記録」の3つの中編が複雑に交錯する、謎と真実の...
ケルベロス第五の首 (未来の文学)
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商品説明
人間に似た異生物が住む惑星を舞台に、「名士の館に生まれた少年の回想」「人類学者が採集した惑星の民話」「尋問を受け続ける囚人の記録」の3つの中編が複雑に交錯する、謎と真実のタペストリ…。ゴシックミステリSF。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
ジーン・ウルフ
- 略歴
- 〈ウルフ〉1931年ニューヨーク生まれ。兵役を経てヒューストン大学の機械工学科卒業。『Plant Engineering』誌の編集に携わった後、SF作家となる。
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紙の本
すべては揺らぐ
2004/11/03 19:55
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:野沢菜子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
難解な作品、と聞いていたので、ちょっと構えて読み始めたのだが、最初の数ページではやくも物語世界にがっちり取り込まれ、あとはもう夢中で読み進む。面白い!
まずは地球の植民惑星の広大な館で弟と暮す少年の物語。部分的にうんと進んだ科学を使って妙に荒廃した社会を営む、地球人の末裔たちの世界である。だがまずこの「地球人の末裔」に疑義が投げかけられる。地球人の植民によって滅んだとされる先住生物には姿形を変える能力があり、実は今の住民達はこれすべて、姿形ばかりか中身までそっくり地球人をコピーして自分達は地球人の末裔だと思い込んでいる先住生物ではないかという説が提示されるのだ。
少年の父は遺伝子操作に長け、改造女性を使って売春宿を営んでいる。この世界では、子供や奴隷の売買は普通。使用目的別に改造された人間達が売買される。やがて少年は自分が父のクローンであることを知る。父もまたその父のクローン、代々そうやって「命」をつないできたのである。父は失敗作を売ったらしく、少年は市で自分と同じ顔をした奴隷を見る。少年と弟を養育するのは曽祖父の頭脳をそっくりシミュレートしたロボット。感情まで備えているようだ。そこへ、地球から人類学者が訪れる。だが彼は本当に地球から来たのだろうか? 奇妙で残酷なゴシック調の世界で、少年のアイデンティティーはどこまでもとらえどころがない。
第二部はこの人類学者が採取した(あるいは創作した?)伝説。第一部でほのめかされた星の成り立ちが語られる。これまた、夢魔の世界に引きずり込まれるような、揺らぎに満ちた物語である。
そして、囚われた学者の手になるらしい手記を中心とした第三部。ここでも、結局定かなものはなにもない。彼は本当に地球から来たのか? 謎は謎を呼ぶばかり。
私とは誰か、から始まって、民族全体のアイデンティティーが、ついには存在というもの自体が揺らぐ。語り手の語りから始まって、定かなものはなにもない。人格、記憶、全てが蜃気楼のようにとりとめがない。過去も現在も未来も、全てがゆらゆらと揺れ動く。眩暈がするような物語世界である。
深読みすればどこまでも深読みできるのだろうが、ストーリーのみを楽しんでも十二分に面白い。というふうに、この作品をどんな読者にも楽しめるようなものにしてくれた訳者の力量に、敬意を表したい。
紙の本
「あまりに知的」なため(?)評価されなかった傑作
2005/11/08 10:39
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SnakeHole - この投稿者のレビュー一覧を見る
訳者・柳下氏のあとがきによれば「日本において最も過小評価されている作家の真の処女作」である。舞台は地球を遠く離れた辺境の双子惑星サント・クロアとサント・アンヌ。植民の歴史は百数十年前のフランス人から始まり,やがて遅れてやって来た(おそらくは)アングロ=サクソンと抗争を経て,奴隷制と先端技術が共存する特異な社会を形成している。
小説は3つの部分から成り,読者にコトの全体像を把握できないもどかしさと行間を想像する快楽を強請しながら進む。全体のタイトルにもなっている「ケルベロス第五の首」ではサント・クロアの首府ポート・ミミゾンのある娼館にまつわる秘め事が語られ,次の「『ある物語』」では,サント・アンヌにかつて生存していた(そして今も生存している)というアボ(アボリジニの略)とよばれる「先住民」の伝説が語られる。そして最後の「V.R.T」で……。
柳下氏はウルフの作品が日本で相応しい評価を得られなかった理由の一つは「あまりに知的」であることだ,というのだが,そしてオレもそれに異を唱える気はないのだが,それだけではなく,なんつうか日本の読者っていうのはこういうタイプの小説を楽しむのが下手なんぢゃないかと思う。楽しみ方がわかんないヒトが多いっていうべきか。筒井康隆に「読者罵倒」(「原始人」所収)という傑作があるが(そういえばこの小説のありようは「驚愕の曠野」に通じるものがある),あの中の「面白くないのは小説ではなく自分の想像力の貧困に由来する」ってクダリを思い出す。……とこうまで書かれたら読みたくなってくるでしょう?
紙の本
双子星の謎
2005/08/14 20:16
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみ丸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、ジーン・ウルフという
本来もっと紹介されうるべきSF作家の作品です。
中篇三篇からなる、作品なのですが、
舞台は、地球人が植民地化している双子星の
二連星、しかし、その星には伝説があり
地球人が絶滅させたといわれる、原住民は、
実は、絶滅したのでは、なく
人間と同じ姿になって、人とすり替わって生活していると、
いうのです。
果たして、その実態は!?いかに。
中篇三作は、微妙に関係し繋がっていて、
しかも、全く違ったスタイルで、描かれています。
その三作併せた全体の構成で、大きな枠組みを語ろうというものです。
この舞台そのもの惑星が、双子星だったり、
連作の中篇も双子と、いえないまでも、
二つで一組みになっているものが多々登場して
その鏡面的コピーを問うて、自分(主人公)若しくは、
主体の、アイデンティティを、探っているみたいです。
併し、植民地上での生活で
自分たちの原罪として、しっかり文化をもった原住民を滅ぼしてきた
かもしれないという事実に縛られているのは、矢張り欧米人取り分け、
白人系アメリカ人の、想像というか、リアリティ認識の限界
も、感じずには、いられません。
難解と書評等で、いわれていましたが、
それも、その筈、自分の(アイデンティティ)探しと、
同じだからでは、ないでしょうか?
結局答えは、自分で探すしかない。
紙の本
それが果たして作者の意図なのかどうか知るよしもないが、「曖昧」こそが科学癖の対極にあって微笑む聖なる女神なのだと、そのシルエットを見た気がした。
2004/09/30 22:41
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
初めに、奇妙な父子関係を軸に展開された誰かの少年時代の回想がある。それはどうやら地球上ではなく、植民惑星となったどこかの星での出来事なのだということが明らかになるから、これは確かにSF小説なのだと思う。
次に、最初の話で父親を訪ねてきた人類学者マーシュ博士の名前が使われた見出しの中篇が用意されている。物語は我々人類の古代の出来事のようでもあるが、マーシュ博士の作と銘打っているのだから、彼が研究成果を元に想像を働かせて創作した話なのだろうと見当をつける。民話風のその物語では、ネイティヴ・アメリカンのような人名や地名が多々出てくるのに目が留まった。
3つの中篇から成るこの小説のなかでは、私はこの部分が一番好きで、荒漠たる土地に生を授かった子どもたちの運命に引き摺られて読み進めた。むごく厳しい定めが待ち受けているが、ところどころ、ほんのわずか書かれた描写に、ほんのり温かなものが感じられた。たとえば少年のひとりが出会った少女と魚を分け合う場面にしても、その少女が連れていた赤ん坊を扱うさまにしても……。
最後の話では、身柄を拘束された誰かの尋問の記録として録音テープの内容がはさまれたり、日付の明らかな日記のようなものが出てきたり……。
つながりのよく分からない3つの物語が説明もなく並べられて進行していくわけだし、それぞれに書かれた内容にも何を意味しているのかわけがわからない記述がいくつも出てくるのであるが、その3話めが始まってしばらくすると、舞台となる空間に在る地球や星の関係が徐々にどのようなものかが見えてくる。マーシュ博士という人がどのような経歴をもつ人物なのかも解き明かされていくのである。彼にはどうやら大きな秘密があるようなのだが、その秘密は匂わされるだけで、実際のところどうなのかは闇のなかに葬られ……。
「謎解き」ではなく「謎伏せ」であり、その意味でアンチ・ミステリーという傾向の本でもあると言える。
ファジーなる理論もあったが、科学とは根本的に分析や観察、演繹や帰納という思考によって、事象を定式化したり構造を解明していくものであろう。それは曖昧なるものを理論的に把握できるよう置き換えていく作業だ。
Science Fictionとは、それ自体が相矛盾する要素を含んだ面白い呼称だと思えて仕方ないのであるが、本書は、科学の対極にある「曖昧なるもの」の姿を描くため、まさにそのためにSFという装置を使った摩訶不思議な小説ではないか。
息子が4歳のとき、浴室で急に神妙な顔をし「きょうはイネモリの日だから、イネモリをやるから」と宣言した。「はぁ?」という反応をよそに、彼は浴槽の壁側にシャボン玉液入れ他の容器をずらり並べ、玩具の大きなスプーンで加減しながら各々にふさわしい湯量を注ぎ始めた。小さな神官の遺伝子に埋め込まれた、いかなる人類の記憶がそれを執り行わせたのか。あるいは、いかなる霊的存在が彼に取り憑いたかは今もって謎である。しかし、私は陶然として、ただ、その緩やかな動きを眺めていた。
この物語にもまた、得体の知れない神官による儀式に近い雰囲気がある。読み手それぞれがテーマについての議論やら、伏線と謎解きに凝るのやらも一興。だが、陶然として読み進める快楽を放棄したのでは、あまりにもったいない気もする。
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