紙の本
寓話的でSF的で哲学的で幻想的で、他に類をみない、私が大好きな短編集です
2009/07/23 18:00
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:らせん - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦後イタリア文学を代表する作家、イタロ・カルヴィーノの傑作と言われているのが、本書『レ・コスミコミケ』です。
寓話的でSF的で哲学的で幻想的で、他に類をみない短編集です。
宇宙創世の始めから、この世に起きたあらゆる出来事を見届けてきたと自称するQfwfq(クフウフク?)じいさんが、この一連の物語の語り部です。
このじいさん、ある時は宇宙を構成するあらゆるものが、ただ一点にひしめきあっていたビッグバン以前の出来事を“ご近所物語”として語り(ただ一点に)、またある時は、回転する銀河の公転周期を測るため、銀河の端っこにしるしをつけてみたり(宇宙にしるしを)、またある時は、一億光年離れた向こうの星雲に「見タゾ!」と書かれたプラカートを発見して、その謎の「見タゾ!」の告発にビビって、意趣返しを企んでみたり(光と年月)、ある時は、進化の途上で陸にあがるのを頑固に拒む魚類の叔父さんに婚約者を奪われたり(水に生きる叔父)、またある時期は、じいさん自身が絶滅した恐龍だったり(恐龍族)、Qfwfqじいさんの語ることは正にワールドワイド・ビヨンドザタイム。
どんな時でもQfwfqじいさんはいて、あらゆるものがQfwfqじいさんなのです。
落語に出てくるご隠居が披露する、博識と昔話を宇宙規模にスケールを大きくしただけの、途方もないホラ話しと言えなくもないですが、ビッグバン理論をはじめ、きちんとした学説に基づく宇宙理解がそのベースにはあり、その科学知識に想を得た突飛な物語がSFの傑作といわれる所以です。
また「いつでもどこにでも偏在する」Qfwfqじいさんの存在は、多分に哲学的で、仏教の華厳経に出てくる「一即多・多即一」という概念(私なりの解釈では、この宇宙において万物は互いに交じり合いながら流動しており、「一」という極小のなかに無限大の「多」一切が含まれ、無限大の「多」のなかに、「一」という一切の極小が含まれる)を思わせます。
そして、はしごで昇れば手が届きそうなほど近くに月があった頃のじいさんの恋を語った、冒頭の一遍「月の距離」に見られるような、絵画的な美しさは正に幻想的です。
「無色の時代」は、灰色な地球に色ができはじめた頃、じいさんが出会った美少女アイルに色を教え、最後は彼女を失う切ない話ですが、白黒の世界に色がついていく場面が、これも詩情あふれる美しさで語られており、映画『カラー・オブ・ハート』の先をいっています。
私がこの本を「寓話的でSF的で哲学的で幻想的で、他に類をみない短編集」と書いたのは、Qfwfqじいさんのホラではなく、こればっかりはまったくの真実なのです。
ふつう短編集を読むと、一番好きな話はコレ!と決まってくるものですが、この本に限ってはどの話も好きで、私的ベストワンが決められません。
12の物語、その全てが個性的で甲乙つけがたい。
また本書を楽しむ上で重要なのが、米川良夫さんの訳です。
まるでQfwfqじいさんの言霊が降りてきたんじゃないか、と思わせる素晴らしい語り口に魅せられて、何度も繰り返し読む私の愛読書です。
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素朴な言葉で壮大な宇宙を描いてしまったレ・コスミコミケ
2007/08/04 19:01
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投稿者:sanctusjanuaris - この投稿者のレビュー一覧を見る
レ・コスミコミケは間違いなく異色だと思う。
構成としてはQfwfgが語る、
12章の物語からなっている。12個の章は、
ほとんど独立した短編として読むことができる。
一応時系列になっている(時間的前後関係が
不明なものもある)が、当の作品の中で、章の
時間的前後関係はとりたてて重要ではないと 思う。
「月の距離」(第1章)に出てくる「つんぼの従弟」は、
気ままに自分のロマンを追いかけている。彼は
『不在の騎士』に登場するグルドゥルーに
似ている。VhdVhd夫人はこの「つんぼの従弟」に
憧れ、QfwfgはVhdVhd夫人に恋焦がれる。
このような三角関係
(一人の女性を巡って二人の男が争う)、
そして
トリックスター的な自己
(両生類としてのQfwfg、あるいは恐竜としてのQfwfg)、
二項対立
(「宇宙にしるしを」のQfwfg vs Kgwgk etc.)
が基本的な人間関係となっている。この関係を軸に物語りは
動いている。
各章の独立性が強い。とても面白い章もあれば、
退屈なのもあった。一人の人間の現実も、
百億光年離れた銀河も、宇宙ができるより前も、
恐竜の心情も、
水素の誕生も、
自由に行き来してQfwfgは語る。
(彼が何者かは謎である。)
宇宙の特殊な現象、
人間の日常生活とかけ離れきった世界の出来事を、
あたかも私たちの日常生活の出来事を
記述する/語る調子で、展開させていく。
魚の叔父と新生類のフィアンセの間で
板ばさみとなった両生類のQfwfg。
宇宙の原型段階で、あらゆるものが未分化の状態に
あっても、真の愛情の発露であるPh(i)Nko夫人(後に
光熱エネルギーに分解され消滅してしまう)の
発言はただ、
「ねえ、みなさん。おいしいスパゲッティをみなさんに
ご馳走してあげたいわ!」という素朴なものだった。
カルビーノは、
いがみ合い、失恋、深い愛情など、素朴な
日常の出来事を、壮大な宇宙の現象に
絡み合わせて、面白い描写をする。
その力量ゆえに、
Qfwfgが壮大な宇宙見渡し図を、
人の素朴な言葉でさらりと言いのけてしまった
異色の作品が出来上がったのだろう。
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不思議とリリカルなほら話たち
2004/11/03 23:59
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投稿者:べあとりーちぇ - この投稿者のレビュー一覧を見る
長らく絶版だった本書も、ようやくまた手に取ることができるようになった。河出文庫の『柔かい月』に次ぐコズミック短編集復刊第2弾である。
イタロ・カルヴィーノ氏というと「ほらふき男爵」的な作風がイメージとして浮かぶ、という友人が居る。確かに『まっぷたつの子爵』、『木のぼり男爵』、『不在の騎士』の「われわれの祖先」三部作が一番好きだという彼女には、カルヴィーノ氏の作品はそういった意外性とユーモアに満ち溢れたものだろう。
本書も基本的には「大法螺」の短編集である。語り部Qfwfqじいさんは何せ、宇宙創世以来のすべての出来事の生き証人なのだ。ビッグバン以前、まだ全宇宙がたったひとつの点に集まっていた頃を懐かしむ「ただ一点に」などという思い出話さえもがちゃんと収められているほどである。何百万世紀、何億光年という時間と距離を軽々と飛び越えて、Qfwfqじいさんは遍く宇宙に存在する。
「いくら賭ける?」に出てくるように、彼にとっては「今日、原子ができるかどうか」の賭けも、「アーセナル vs レアル・マドリードの試合でどっちが勝つか」の賭けも、そう大して違わない昔話なのである。ほとんど気の遠くなるような壮大なスケールの物語を、さらりと語るQfwfqじいさんの格好いいことと来たら…。
ハヤカワ文庫SFで出ていた版の帯には「宇宙は笑いで始まった」という煽り文句が踊っていた。原子(アトム)を使っておはじき遊びをしたり、星雲を飛ばし合って宇宙全体を追いかけっこする「終わりのないゲーム」や、1億光年離れた星雲から覗くプラカードの「見タゾ!」というメッセージに翻弄される「光と年月」などは、なるほど自由奔放なイマジネーションを駆け巡らせたユーモア溢れる作品である。
しかし本書でより魅力的なのは、ユーモラス作品よりもむしろ「月の距離」や「恐竜族」、「無色の時代」や「渦を巻く」などの、ファンタジックで切ない短編たちだと思う。月が梯子を上れば手が届く距離にあった時代の、月に焦がれる男と彼に焦がれる女の物語。絶滅した恐竜の最後の1頭が、疎外感と生き残りの誇りを抱いて生きる物語。まだ世界に色がなかった時代のQfwfqじいさんの恋物語。生命に「形」がなかった頃から恋焦がれる相手を探す物語。
設定はどれも奇想天外なのだけれど、「ほら話」というよりはあまりにもリリカルで幻想的な作品たち。カルヴィーノ氏独特の味付けの効いたロマンスというか、はっとするほど美しい情景が詰まっている。
原題を無理矢理日本語に直すとおそらく「宇宙的喜劇」ということになると思う。人類の精神史や科学史をユーモラスに風刺しているシーンがあちこちに散りばめられているのもさすがの上手さである。
そういうほら話の中に見え隠れする、語り手のQfwfqじいさんの意外に叙情的な一面を意識して読み返せば、きっと読むごとにまた新しい魅力に気付くことができると思うのだ。噛めば噛むほど味が出てくる、本書はそういう作品である。
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こんな発想は他の作家には無理
2019/09/06 22:40
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本では私が先に読んだ「柔らかい月」の方が初めに発刊されて、何年かたったのちに「レ・コスミコミケ」が発刊されているが、イタリアでは「レ・コスミコミケ」の方が早くに発刊されている。といっても、この小説に登場するQfwfqじいさんのほら話は時空をはるかに超越している地球がまだ暗黒だったころどころか、地球そのものが誕生していない時代のことも語り始めるのだから、何年か前にどちらの本が先に刊行されているかどうかはどうでもよくなってくる。原子で遊ぶ物理や恐竜や月と地球が隣接していた時代の話と奇想天外なのはカルヴィーノ作品ならでは、こんな作品はほかの人には書けない
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SFとホラ話が溶け合って、ぐるぐる渦を巻いているような
2009/02/21 00:04
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投稿者:東の風 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宇宙のはじまりの頃にあったこと、人間などまだいない太古の時代に起きたことを、<わし>こと<Qfwfq老人>が語っていく連作短編集。
混沌の中に生まれたはじめのいーっぽみたいな、SFとホラ話が溶け合ってぐるぐる渦を巻いているような、何ともいえない面白味がありましたねぇ。あっけにとられているうちに、ずんずん、ずんずん、話が進んでいって、はあ? はああ??? とどのつまり、ははは、おかしいね、あははーと笑うしかないみたいな・・・。まったくもって、これは愉快でユニークな短編集なのでした。
「月の距離」「昼の誕生」「宇宙にしるしを」「ただ一点に」「無色の時代」「終わりのないゲーム」「水に生きる叔父」「いくら賭ける?」「恐龍族」「空間の形」「光と年月」「渦を巻く」のひぃふぅみぃよぉ、全部で12の短篇からなっています。
なかでも、次の三つの短篇が面白かった!
★地球からすぐ手の届く距離に月があった頃、わしらは舟に脚立を立ててな、それをのぼるだけで月に行けたんじゃよ・・・・・・「月の距離」
★わしがまだ子供だった頃、Pfwfpとゲームで遊んだんじゃよ。で、そのゲームというのが変わっていてなあ。アトムの原子を、ビー玉みたいにはじいたり転がしたりぶつけたりしてな・・・・・・「終わりのないゲーム」
★ある夜、わしが天体望遠鏡を覗いておった時のことよ。一億光年の彼方にある星雲から、妙なプラカードが矢印みたいに突き出ておってな。そこに、「見タゾ!」と書いてあるんじゃよ・・・・・・「光と年月」
本書の帯に、作家の川上弘美の推薦文が載ってまして、<そりゃあもう、類のない本なんです>と書いてあるんですけどね。ほんと、こいつは風変わりで、無類のおかしみがある一冊。
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海に浮かぶ船のへりから月に乗り移ったり、一億光年離れた星雲から、双眼鏡とプラカードでメッセージのやりとりをしたり……何とも不思議なイマジネーションの世界。
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カルヴィーノの到達点の一つとの誉れ高い一冊だが、実は初読。ビッグバンの瞬間から、広がっていく宇宙、太陽の誕生、地球上に大気が生まれ色彩が広がるとき、月が地球から離れていくとき、水生生物が陸に上がるとき、恐竜が滅びた後などを全て実体験した Qfwfq 老人が語る連作短篇。果てしない想像力で描かれる物語世界が、Qfwfq 老人の軽快な語り口とあいまって、どれも素晴しい。ところどころに挿し挟まれる物悲しい離別の物語もペーソスが効いている。
お気に入りのシーンは何といっても「ただ一点に」に描かれるビッグバンの瞬間。Ph(i)Nk 夫人が「ねえ、みなさん、おいしいスパゲティをみなさんにご馳走してあげたいわ!」という一言がきっかけになって、この宇宙は生まれたのであった!
久しぶりにカルヴィーノ熱が再発しているので、何冊か読み返してみるつもり。
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カルヴィーノ、待望の復刊。稲垣足穂の『一千一秒物語』をもっと理屈っぽく書き込んで仕上げたという印象。
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いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。
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はイタリアの作家イタロ・カルヴィーノの傑作SF小説。中世三部作(『からっぽの騎士』『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』)がすごく面白かったので楽しみにしてました。
ようやく読み終わりました。
一編ごとに想像力を喚起させられる。宇宙の彼方の銀河を駆け巡り、太古の深海に棲み、原子の球をぶつけあう。ビッグバンの前から生きるqfwfq爺さんの大法螺譚。
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安心して他人に勧められる。良い意味で。私はかなり好きだ。ほとんどの話に(恋)愛が絡むのは、イタリア人らしいというべきか?
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大まじめに大ホラ吹きな宇宙創世を書いている。
一話一話ふざけている故に、なんだかチャーミング。ウキウキにしてくれた。
絵本にしたら子供は大喜びするでしょうに。
その分翻訳がありきたりなのがもったいない。
円城塔さんが翻訳して出し直したらどうだろう。
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しごく人間臭い宇宙史。月からビッグバンから量子力学から重力場から恐竜まで、永遠の命を持っているらしい語り手qfwqfが、自分の若かりし頃の思い出を語る。qfwqfは言ってみれば万能ではない神のようなもの。
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20世紀イタリアの小説家イタロ・カルヴィーノ(1923-1985)によるSF風の綺譚集、1965年。何とも壮大な綺想譚、その余りに度外れたスケールの大きさと過剰に饒舌な綺想とが、ついにナンセンスの軽やかさへと反転してしまっていて空の彼方に飛翔し去ってしまうようで、そうした物語の無内容さから来る透明な可笑しさが読んでいて心地よい。
しかし、こうした度外れたスケールゆえに透明感のある寓話の随所に、男女の愛や嫉妬や独占欲や競争心といった人間的なスケールの要素が含まれていて、それが物語の無内容の純度のようなものを損ねてしまっているのではないかと思われたのだが、宇宙大のスケールとの対照から却ってナンセンスな可笑しみが出てくると云えるのかもしれない。
訳文は拙い。Qfwfq の饒舌な口上を、目で流れるように読みたい。
□
特に面白かったのが「月の距離」「ただ一点に」「いくら賭ける?」の三話で、突き抜けて軽くなったイメージの広がりが心地よい。
「月の距離」
まず何より、月に梯子をかけて上る、というイメージが素敵だ。かのミュンヒハウゼン男爵にも月旅行の話があった気がする。月はファンタジーの想像力をくすぐる。自分は小さい頃にどこかで見た記憶の中の絵本のイメージで空想しながら読んだ。他の作品にも云えることだが、この綺想でいっぱいの物語に絵本作家が挿絵を描いたらどんなふうになるのだろうと想像するのも楽しい。
「宇宙にしるしを」
実体だけの世界からシニフィアン/シニフィエという形而上学的区別が生じる過程の物語。それは則ち、概念と個物の区別、表象と実体の区別、現象と物自体の区別、その他もろもろの二項対立図式が生まれるということ。宇宙に初めてつけられるしるしというモチーフが、それ自体で素敵であるし、記号論的にも興味をそそる。原-記号?
「しるしに囲まれて暮らしているうちに、初めはただそれ自体の存在をしるすもの以外の何ものでもなかった無数の事物をだんだんしるしのように考えさせられるようになり、ついにはものがそれ自体のしるしに変貌して、しるしをつくろうとしてわざとつくったやつらのしるしといっしょくたになってしまったのだ」(p74)。
「ただ一点に」
宇宙開闢のその端緒に、穏やかで平和な愛情とその喪失という、幸福と哀切の物語があったとしたら、という愉快な空想。宇宙の始まりの言葉が、聖書の厳かさではなくて、こんなにポップなものだったとすると、その歴史はどんなものになっているのだろう。
「ねえ、みなさん、ほんのちょっと空間があれば、わたし、みなさんにとてもおいしいスパゲッティをこしらえてあげたのにって思っているのよ!」(p86)。
「いくら賭ける?」
大小だとか遠近だとか疎密だとかの位相論的な感覚を両極端へ行ったり来たり狂わせられているうちに、全てが等し並みに無内容になってただ並列に排列されているだけのような気がしてくるから面白い。健全な思考はその都度ごとに適切なスケールの感覚を選択することで成立している、ということが分かる。宇宙の運命も人類の歴史もおよそ��羅万象をこんなナンセンスな賭けの上に乗せて遊びにしてしまっていること自体が、愉快であるし爽快である。
「わしは別に自慢をするわけじゃないが、最初ッから、やがて宇宙が存在するってほうに賭けて、うまく当てたし、またそれがどんな具合になるかってことでも、学部長(k)yKを相手に、何度も賭けをして勝っていたんだ」(p151-152)。
「空間の形」
抽象的な数学的観念(平行線の公準)を空想の遊びにしてしまう自由さ、具象性の鈍重な衣服を脱いだ綺想の軽さ。どこまでも交わることなく地面に到達することもなく墜落し続ける二人の軌跡と。そんな二人の平行線運動を着地点も曖昧にどこまでも間延びしながら語り続けていく Qfwfq の冗舌な文字列と。そして、墜落していく二人(実体)とその語り(表象)とが、まさに平行線のように parallel に重なり合って区別がつかなくなっていく・・・。
「もちろん同じこれらの行だって文字や言葉の行列というよりもただの黒糸のようにほぐしていって線それ自体という以外の何の意味もない連続的な平行直線になるまで引きのばすことだってできるのだし、その線の絶え間なくのびてゆきながらけっして出会うことのないのと同じようにわしらもやはり、わしも、ウルスラ・H‘xも、フェニモア中尉も、その他のみなも、けっして出会うことなく絶え間なく落ち続けてゆくのだ」(p221)。
「光と年月」
現代の電子的コミュニケーションにおけるディスコミュニケーションの状況を、片道1億光年(+α)のメッセージの遣り取りという戯画を通して、予言していたかのような作品。しかしその状況は、たまたま電子的装置を通して顕在化したというだけで、本質的にはコミュニケーションに予め孕まれているディスコミュニケーションであることが分かる。
「わしはこれこそわが品位と威信とを添えるものだと、自分の行っていることに自信満々というところだった。そこで大急ぎでわしのほうに人差し指を突きつけているプラカードをふりかざして見せたのだった。と、ちょうどその瞬間に、わしとしたことが実に不様な目に――度しがたい大失策、地の底にでも潜りこんでしまいたいほど恥ずかしい人間としての惨めをつくした有様に落ちこんでいったのだった。しかもすでに賭けはなされていた。その姿は標識つきのプラカードのおまけまでつけて、宇宙空間の大旅行へとはや船出して、もはやだれにもそれを止めることができないまま、幾光年の距りを貪りつくしてゆき、星雲から星雲へと拡がってゆき、将来の幾百万世紀にもわたって批評やら哄笑やら得意顔やらの洪水をまき起こしてゆくのであって、そしてその洪水はまたその後の幾百万世紀にわたってわしのもとに帰って来て、このわしにまたいっそう間抜けた言いわけと、不細工な修正を余儀なくさせるのだった」(p244)。
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石ノ森章太郎が「COM」に連載していた『ジュン』をはじめとして、画面上に異様に大きな月を掲げる映像表現は多々ある。ルナティックとは狂気のことで、月の大きさはファンタジー色の濃さに比例する。だが、これはその比ではない。なにしろ、比喩でなく手を伸ばせば月に手が届くのだ。月の引力で潮が満ちた満月の夜、人は船を出す。脚榻(きゃたつ)に乗り、思いっきり手を伸ばして月にしがみつくと、月の引力圏に入って月の上に降り立つことができる。月が地球からこんなにも遠く離れる遥か以前の物語である。
巻頭の「月の距離」には、その昔、月に一度満月の夜に月に渡ってミルクを採取する人々の物語が語られる。月と地球が近かったころ、その引力に引かれて地球から月に引きつけられた物質が月上で醗酵し、チーズのようなものになる。それを掬い取るために人は月に降り立った。そんな話を語るのはQfwfqという名の語り手である。見てきたように嘘をつくという言葉があるが、Qfwfqは本当にその場にいたという。
それだけではない。船長夫人に愛される耳の聞こえない従弟を嫉妬した。月に魅せられた男と、その男を慕う女。そしてその女を恋い慕うもう一人の男が織りなす、一人の女を巡る二人の男の三角関係を描いたありふれたメロドラマ、のはずなのだが、何しろ舞台が月の上だ。一度月に行ってしまって、タイミングを逃すと次の満月まで地上に帰れない。しかも、その間にも月と地上は離れつつあった。
ありえない世界をさもありそうに子細にリアルに描くのはイタロ・カルヴィーノの最も得意とするところ。『見えない都市』で見せたハイパー・リアルな情景描写が思い起こされる。これで一気に引き込まれ、期待に胸をわくわくさせながら次の作品に移る。というのもこれは連作短篇小説集なのだ。舞台は、ミクロコスモスからマクロコスモスまで、望遠鏡や顕微鏡のつまみを回すように、一作ごと自在に変化する。
各章の巻頭にはエピグラフが付される。科学書から引用した科学的な事実の断片である。それを受けて語り出すのがQfwfqという名の爺さん。太陽系がその姿を現すずっと以前から、宇宙のどこかに何らかの形で存在していた不可知な実体。ある時は恐竜、またある時は両棲類。それくらいなら感情移入も可能だが、感情など持たない「もの」に寄り添って、この世界が生成変化する場面を目撃し証言する。要は『ほら吹き男爵の冒険』の宇宙版。
普通ならありえない設定で、まことしやかに飄々と物語世界を闊歩するのがカルヴィーノの作品世界の住人だ。『まっぷたつの子爵』しかり、『不在の騎士』しかり。今度はスケールが違う。宇宙の創世期から理論物理学が想定するミクロコスモスの世界まで縦横無尽に語り尽す。マーカス・デュ・ソートイ著『知の果てへの旅』の愛読者なら喜びそうな、科学的知識の啓蒙書の雰囲気も併せ持つ、物語調で書かれた宇宙の創世記である。
とはいえ、科学に疎い読者には、そうそうは易々と中に入り込めないものもあり、紹介するのは、こちらの好みに合ったものに限らせてもらう。読者によって好みの異なることはあらかじめ言っておきたい。全十二篇中、ここで取り上げるのは巻頭の「月の距離」を含む「水に生きる叔父」、「恐竜族」、「空間の形」の四篇。共通するのは、濃密な情景描写、物語性、男女の三角関係、失われたものへの哀惜感といったところだろうか。
進化の過程で水辺から離れたところで暮らすQfwfqには変わり者の大叔父がいて、いまだに水中から出ることを拒み続けている。一年に一度は叔父を訪ねるのがこの家族のならいで、Qfwfqはご機嫌伺いに出かけるが、大叔父の態度はいつもと変わらず素っ気ない。Qfwfqはこの変わり者の大叔父に許嫁を紹介することをためらうが、案に相違して二人は意気投合。最後には許嫁はQfwfqのもとを離れ、水中で大叔父と暮らすことを選ぶ。時代の推移に取り残されながら、それを肯んじ得ない者を描く「水に生きる叔父」は、次の「恐竜族」とも主題を共有する。
「恐竜族」は、すでに恐竜の時代を過ぎ、新世代の生物は恐竜という存在を忘れ果てている。Qfwfqはその忘れられた恐竜の最後の生き残り。ひょんなことから新世代の生物と暮らし始めるが、いつ自分が恐竜であることを知られるか不安で仕方がない。そんな時、一人の女を好きになり、付き合い始めるが、新しい女との出会いが話者の心をゆすぶる。時代に適応できない人物の心の揺れを恐竜に託して語る物語である。
「空間の形」は話者がQfwfqであると明記されない。実際、これは誰なんだろう。なぞなぞめいた話で、ヒントばかりがたくさん書かれるが、解答は明示されない。他の物語群とは一線を画し、宇宙とも時間とも距離を置いている。どうやら、文字を紙の上に記す過程を主題にしていることは分かるのだが、主人公である私と、その恋するウルスラH’xと、ライヴァルであるフェニモア中尉が何を意味しているのかがまったく分からない。
私見では万年筆のような筆記具が関連しているように思えるのだが、今のところ絶対ではない。そもそも寓話を意図していないという意味で、何が何を表すというような読解は不要なのだ。ではあるが、微妙に官能的な描写を読む読者には、これが何を描いているのか知りたくなるのは作者はすでに承知。であれば、それを読み解こうと再読はおろか、何度でも読み返し、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。読書の喜びこれにつきるものなし。
宇宙を舞台に、現実にはあり得ない世界を描いているという点ではSFのジャンルに入るのだろうが、どことなく収まりが悪い。騎士道小説の枠を借りながら、そのジャンルそのものを批判しているセルバンテスの『ドン・キホーテ』さながら、作家と自らが描いている世界との距離感が遠いのだ。先端的な科学知識も無限大に引き伸ばされた時間軸の上では、先史時代のそれと何ら変わりがない。そういう冷めた知性がどこかほの見える。それでいて、対象への愛も強く感じられるのは、喪われたものへ向けられた哀惜ゆえだろうか。