サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

送料無料 日付更新(2017年7月)

【HB】お店とネット利用で最大200ポイントプレゼントキャンペーン(~9/30)

電子書籍化お知らせメール

商品が電子書籍化すると、メールでお知らせする機能です。
「メールを登録する」ボタンを押して登録完了です。
キャンセルをご希望の場合は、同じ場所から「メール登録を解除する」を押してください。

電子書籍化したら知らせてほしい

アフターダーク
  • みんなの評価 5つ星のうち 3.4 423件
  • あなたの評価 評価して"My本棚"に追加 評価ありがとうございます。×
  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2004.9
  • 出版社: 講談社
  • サイズ:20cm/288p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-06-212536-9
  • 国内送料無料

紙の本

アフターダーク

著者 村上 春樹 (著)

真夜中から空が白むまでのあいだ、どこかでひっそりと深淵が口を開ける−。「風の歌を聴け」から25年、さらに新しい小説世界に向かう村上春樹の書下ろし長編小説。【「TRC MA...

もっと見る

アフターダーク

1,512(税込)
本の通販全品
3%OFFクーポン!!
こちらは「本の通販ストア全商品対象!3%OFFクーポンキャンペーン」の対象商品です。
※キャンペーンの適用にはクーポンの取得が必要です。

キャンペーン期間

2017年9月22日(金)~
2017年9月28日(木)23:59

新刊お知らせメール登録

この著者の新着情報

一覧を見る

あわせて読みたい本

この商品に興味のある人は、こんな商品にも興味があります。

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

このセットに含まれる商品

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

商品説明

真夜中から空が白むまでのあいだ、どこかでひっそりと深淵が口を開ける−。「風の歌を聴け」から25年、さらに新しい小説世界に向かう村上春樹の書下ろし長編小説。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

村上 春樹

略歴
〈村上春樹〉小説家。著書に「ノルウェイの森」「ねじまき鳥クロニクル」「アンダーグラウンド」「レキシントンの幽霊」など。

この著者・アーティストの他の商品

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

みんなのレビュー423件

みんなの評価3.4

評価内訳

紙の本

今夜の出来事

2004/09/09 16:45

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コモンセンス - この投稿者のレビュー一覧を見る

 台風一過の晴天の一日、『アフターダーク』を読んだ。18の章から構成される小説だが、15章に入る手前では、あと残り4章でどうやって物語を終わらせるのだろう、このままだともっと大きな小説の予告編みたいな作品になってしまうのではないかと心配したが、杞憂であった。以前、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996)の中で、村上はこんなことを言っている。
 「書きはじめのときに全体の見取り図があるわけではぜんぜんなくて、とにかく書くという行為の中に入り込んで行って、それで最後に結末がよく来ますね、と言われますが、ぼくはいちおうプロのもの書きだから結末は必ず来るのです。そしてある種のカタルシスがそこにあるわけです。」
 『アフターダーク』の結末がもたらすカタルシスは、唐突なことを承知で言えば、川端康成の『伊豆の踊子』のそれに似ている。『伊豆の踊子』は、自らの歪んだ性格に悩む主人公の一高生が旅先で旅芸人の一座と知り合い、彼ら彼女らから「いい人」と思ってもらえたことで精神的に快癒する物語だ。『アフターダーク』もまた、子どもの頃からいつも2つ年上の美しい姉と比較されながら育った19歳の大学生マリが、深夜(午後11時56分)から朝(午前6時52分)までの時間帯の大都会の片隅でいろいろな人間と出会い、彼ら彼女らからプラスの言葉とまなざしを受けたことで、マイナスの自己イメージから抜け出して姉との関係の修復に向かおうと決意する物語だ。
 ただし、物語のすべての場面がマリを中心としたものであるわけではない。むしろ『アフターダーク』は夜の街に棲息するいろいろな人間たちの群像劇として構成されており、同時進行する複数の物語がリンクする結節点にマリが位置している。映画化すれば、たぶん行定勲監督の『きょうのできごと』のようなスタイルの作品になるであろう。もっとも『きょうのできごと』はどの物語もハートウォーミングなものだったが、村上春樹の世界にはあくまでもエネルギー保存の法則が存在していて、マリの物語が暖かなエンディングを迎える一方で、白川というシステムエンジニアの孤独で冷たい物語は残酷な結末に向かっていく。小説の技法として面白かったのは、すべての物語が、遠くの星から円盤に乗って地球にやってきた宇宙人の視点(あくまでも私の受けた印象)から語られていることだ。
 「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」—これは『アフターダーク』の登場人物の一人、高橋テツヤの人生のモットーで、『アフターダーク』のポスターに印字されている。最近、尿管結石の除去手術を受けたばかりの私も、同じことを医者や看護婦から言われている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

公平性ということ

2004/09/11 00:54

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:非出来 - この投稿者のレビュー一覧を見る

一般に社会とか世間とよんでいる場所は、公平にできていない。そのことを踏まえた上で、著者はだからこそ、公平性を主張する。著者は自分と関わる物事に対しては、公平性を保とうと、この『アフターダーク』は成立させている。
『海辺のカフカ』で村上春樹は想像することに責任が生じると主張した。
『アフターダーク』においては、その責任のあり方を問う内容になっている。責任のあり方も公平ではないのだけれど、公平性を保ちたい、と。
村上春樹は一人称で書くことが多かったが、25年を経て、小説の新しい視点を切り開こうとしている。俯瞰的な視点は阿部和重『シンセミア』、ジョン・アービング『第四の手』を彷彿させる。『シンセミア』は視点をあらゆるモノに変化させ、『第四の手』は視点からの距離感は一定である。
しかしながら、村上春樹は『アフターダーク』において、まるで衛星から地上を捉えるかのように書いている(小説の中では違う表現を使っているけれど)。小説という手法は同時多発的に発生する事象を捉えることができない。主人公は「わたしたち」であり、空間を移動することは出来るが、同時にそれを俯瞰することはできない。
なんだか、難しいことばかり書いてしまったけど、僕の最大の焦点は、誰がシャツのアイロンをあてるかで、それは読んでのお楽しみ。
もうひとつ、小説の大きな楽しみは、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』探しだ。主人公の高橋は頬に傷がある。ここで、『長いお別れ』を思い出すともう罠にはまる。『アフターダーク』はレイモンド・チャンドラーへのオマージュが散りばめられた小説なのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

思いつきでも力ずくでもない何か

2004/09/13 21:35

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る

 1行目からちょっとびっくり。おや、村上春樹はかなりスタイルを変えてきたな、って感じ。ここで言うスタイルとは文体と構成。なにせ主語が「私たち」だ。今までこんなスタイルはあっただろうか? 一人称単数以外で書かれた小説って少なかったのでは?
 「いや、あの小説は三人称だった」みたいな指摘は多分マニアの方がやってくれるだろうから僕は穿鑿しないが、村上の小説は大体が主人公自身が語るか、そうでないにしても(そうでない小説が実際にあったかどうか僕はちゃんと憶えていないのだが)語り手は主人公にかなり近い場所にいたはずだ。それが今回は「私たち」であり、しかもその語り手はカメラという、かなり引いた位置にいて観察し、語る。うーむ、今までとはかなり違う。
 そして、冒頭から9ページの1行空けてあるところまでのいくつかのパラグラフは今までならなかったのでは? その次の段落の冒頭はこうだ──「彼は声をかける、『ねえ、間違ってたらごめん。君は浅井エリの妹じゃない?』」──そう今まではここまで直截ではないにしても、ほぼこれに近いくらい直截に物語は始まった。少なくとも、この『アフターダーク』のように夜の街をクドクドと描写するばかりで殆どストーリーが進行しないままなんてことはなかったはずだ。
 普段の翻訳調も少し押さえ目だ。今までみたいに日本語の文章を読んでいてその英訳文が頻繁に浮かんでくることがない。
 読み進むと小説の骨組みが見えてしまう(これも今までなかったことだ)。「ははあ、こういう意味づけでここにこれを持ってきたか」とか、「なるほど、これにはこういう想いが込められているんだな」なんて余計なことを考えてしまう。もちろん村上春樹が本当にそう思って書いたかどうかは知らない。しかし、そう読めてしまうのである。語り手である「私たち」がなにかと判断したり解釈したりしてくれるのも気になる。「おいおい、今までみたいに読者に自由に想像させてくれよ」という気にもなる。
 ひとことで言うと、村上春樹も随分オッサン臭くなってしまったみたいだ。なんだか説教じみてきた気もする。即ちそれは村上春樹も歳を取ったということだ。
 そんな風に少しずつ不満を覚えながら最後まで読み通すと、(あまりにベタな評価なので適切でないかもしれないが)村上春樹も中年としての役割を、若い人たちに対して年長者の役割を引き受け始めたのかなあ、という感想に行き着いた。
 そこには思いつきでも力ずくでもない何かがあった。意外に深い、深い読後感が残った。
 村上春樹と同様、僕も歳を取ったのかもしれない。

by yama-a 賢い言葉のWeb

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

これでいいのか

2004/09/14 23:52

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:夢の砦 - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹の作品を是まで愛読してきたが、そろそろ考えねばならぬ時がきたのかもしれない。思わせぶりな描写、結末らしきものが存在しないことなどは許容できるが、面白くないものは面白くない。時代考察はなされているのか。ラブホテルの描写は、とても現代のものとは思えない。「わたしたち」とは誰だ。読者をなめているのか。編集者、出版社は読者のことを大切にしなければ、見捨てられる。期待が大きい作家だけに関係者に切にお願いしたい。「だめなものはだめ」といえる勇気を持ってください。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

大いなる長編への序章なのか

2004/09/16 20:12

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:katu - この投稿者のレビュー一覧を見る

そもそも「作家デビュー25周年記念作品」というのが解せない。書きたいときに書き、書き終わったら出版していた(ようにみえる)村上春樹にとって、こういう出版の仕方はどうにもそぐわない。「25周年記念ということで何か書いてくれませんか」と頼まれたので、仕方なく書いたような気がしてならない。まあ、それは言い過ぎなんだろうけど。

『神の子どもたちはみな踊る』以降、村上春樹が三人称を用いること自体はもはや珍しいことではないが、視点が宇宙的というか映画的になっており、その視点による見え方をいちいち説明するというのは今までにない書き方である。また、ジュンパ・ラヒリの影響というわけでもないだろうが、全編現在形で押し通している。

読み進めていくと、ああアレにも似ているコレにも似ている(例えば「TVピープル」「加納クレタ」「眠り」などなど)と感じるのだが、読み終えてみるとどれにも似ていないという気もする。そして、この話をどう解釈していいのか戸惑うのだ。細かいことを書いていけば、「逃げられない。どこまで逃げても逃げられない」というセリフからは、もうこの社会とのコミットメントを断ち切る訳にはいかないのだというようなことが見えてこないこともないし、その他示唆的な記述は色々とあるのだが、総じて何を言いたいのかがよく分からない。

ここで、最初の話に戻るのだが、どうも本作はもうすこし大きなアイディアをとりあえず小出しに出したような気がしてならない(長編というには短いし)。つまり、次なる長編(本当に長い長編)への序章なのではないだろうか。私はそう思いたい。

k@tu

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

会話・クリシェ・固有名詞・そしてカメラ・アイズ

2004/09/17 23:48

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:脇博道 - この投稿者のレビュー一覧を見る

素敵なプロローグだ。クールな夜の始まりが一糸乱れないカメラワーク
のように活写されている。動き出すアナザー・ワールド。いつもの作品
とは少々スピード感が早いとはいえ、それはきっとカメラが移動する速
度が早いからだろう。夜は闇。だが街の夜は光で満たされた白日の闇だ。
そして24時間均一の光で満たされたファミレスにおいて物語は始まる。

村上氏は、どうでもいいこと、を描写することにおいて超一級品の作家
である。評価が分かれた(小生は好きな作品であるが)ねじまき鳥クロ
ニクル、まではそれが徹底的につらぬかれていたと思う。がその後の作
品においてはどうでもいいこと、は影をひそめ、どうでもよくはないこ
とに除々にシフトしていったように思われる。しかし再び本作品におい
て、資本主義の極北において明滅を繰返すどうでもいいこととしての記
号に満たされた世界に文体が帰還した。こうでなくてはと思う。事物の
等価性、微妙な相違、それらが生成する軋み。そして、その軋みは大き
なクレバスに少しずつ変化していく。それらを会話とクリシェと固有名
詞のみをツールとして徹底的にクールに描写しつくすこと。文体の方法
として洗練の極みに本作は達している。

となれば、使用されるツールは初期作品において使用されていた固有名
詞が2004年現在における街において的確にサンプリングされたもの
に限定されるだけのことであるし、会話やバックグラウンドミュージッ
クは、そう変わりばえのしない初期作品からの反復であるとしてもさし
て驚くには当たらない。むしろ反復が快楽と連動しているのが氏の小説
の真骨頂であるのだから。あえていえば、カメラ・アイズという第3の
視点を導入したことが目新しいといえばいえるが、氏が音楽とともに映
画フリークであることを思いおこせば、たいした発見ではないことは自
明であると思われる。

読み進むうちにひとつの些細なことに気付いた。数字、である。氏の作
品においてツールとして重要な役目を果たしてきたどうでもいい数字(
例えば煙草の本数)が登場してこない。すこし考えた。答えらしきもの
が見つかった。それは本作をつらぬく、時間、である。何時何分何秒、
資本主義的世界においてこれほど重要な意味を持つナンバーは存在しな
い。これだけは、どうでもはよくないこと、の範疇に入るだろう。小道
具として使用されていた数字が、本作では大道具として使われているの
である。とはいえ、現在時刻が午前3時37分25秒であったとして、
この数字に重要な意味があるかたもいれば、どうでもいい時間であるか
たももちろん居るだろう。世界はそれぞれに進行しているだけなのだ。

第1作「風の歌を聴け」は深夜の台所で書かれたという話がある。そ
れでは本作は深夜のファミレスで書かれたのかもしれない。もちろん、
どうでもいいことではある。が、そう思いつつ読むと快感である。
多分、本作は、氏にとって特異点に位置づけられる作品であると私には
感じられた。とっさに浮かぶ同様の作品としては「国境の南 太陽の西」
がある。そして私にとってはどちらも無類に面白かったのはまぎれもな
い事実である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

ひとつの観念のなかで演じられた抽象的な殺戮劇

2004/09/20 16:57

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 都市を闇が被う。あたかもスクリーンセイバーのように。巨大な生き物を包み込む皮膚のように。
 都市が纏う皮膚は言葉だ。肉体を離れ純粋な観念的視点となって、二つの世界(あちら側とこちら側、死と生)を隔てる壁を通り抜ける言葉(『アフターダーク』の語り手である「私たち」)が、都市を覆い尽くしていく。あたかもスクリーンプレイのように。聞こえないBGMのように。

 真夜中。深まっていく暗闇の中で、二つの世界を結ぶ回線が繋がる。
 物語の第一の層。読書する女の子(浅井マリ)と凡庸な名前を持った若い男(タカハシテツヤ)が出会う。ラブホテル(アルファヴィル)の部屋の中で、知らない男(白川)に殴られ裸で血を流していた中国人娼婦と本名を捨てた女(コオロギ)が登場する。
 第二の層。海の底に沈んだ心とともに純粋で完結的な眠りに陥っている美しい娘(マリの姉エリ)。深夜のオフィスで仮面をかぶせられた「顔のない男」が、娘の部屋のテレビの画面越しにその姿を凝視している。やがて娘はあちら側へ移動する。二つの部屋は、同じ時間性の中にいる。
 二つの層を結ぶのは、防犯カメラに隠し撮られた白川だ。白川が一人キーボードに向かい、古典音楽を聴きながらシステマチックに腹筋運動をこなす深夜のオフィスは、エリが見えない血を流しているもうひとつの「アルファヴィル」であり、顔のない男とはあちら側の世界に住むもう一人の白川である。

 フィッツジェラルドが「魂の暗闇」と呼んだ時刻。二つの世界を結ぶ回線が揺らぐ。
 深い沈黙に支配された部屋の中で、浅井エリが目覚める。顔のない男は姿を消し、あの純粋な視点としての「私たち」だけが彼女を観察している。やがて彼女の輪郭が鮮明さを失い始め、ブラウン管の光が消滅する。「あらゆる情報は無となり、場所は撤収され、意味は解体され、世界は隔てられ、あとには感覚のない沈黙が残る」。
 それはひとつの「小さな死」の情景である。村上春樹はかつて「午前三時五十分の小さな死」(『遠くの太鼓』)に書いていた。朝が訪れる前のこの小さな時刻に、僕はそのような死のかたまりを感じる。長い小説を書いていると、よくそういうことが起こる。
 白井とは、シネマ・コンプレックスのように重層的な物語を分泌する作者、つまり「長い小説」を書いている村上春樹その人の影だ。論理と作用の相関関係について思考を巡らせ、観念的な暴力(作中人物の死)をふるい、「何か別のもの」の出現を期待する小説家。

 明け方。新しい時間と古い時間がせめぎ合う。
 物語の第一の層では、高橋が法律家を志し、マリが中国留学を決意する。第二の層では、エリの目覚めを通じて「何か別のもの」が胎動するささやかな予兆が現れる。「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ。そして健全な知性を獲得するには、それなりの時間と労力が必要とされる」。だから「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」。

 ひとつの闇が死に、次の闇が訪れるまで。村上春樹は沈黙し、読者は途方に暮れる。
 村上春樹が『アフターダーク』で描こうとした「予兆」が、意識の直接的な一体感や身体の共有的な状態のようなものを指しているのだとしたら、そしてそのような「何か別のもの」の胎動を「研ぎすまされた純粋な視点」としての言葉を通じて、つまり「マジ怖い相手」(作者の影としての白川、白川の影としての顔のない男)の露呈とその消失を通じて描こうとしているのだとしたら、それもまたひとつの観念(もうひとつの「アルファヴィル」)のなかで演じられた抽象的な殺戮劇でしかない。

★全文掲載

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

気になる視点

2004/09/24 18:53

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:アイレ - この投稿者のレビュー一覧を見る

昼と夜の長さが同じという秋分の日に一気に読み終えた。様々な角度からの視点によって見られる側と見る側に、あちら側とこちら側の世界に、どちらにでも意外と簡単に行き来できてしまう。回線はたやすく繋がれてしまう。そんな人の危うさ、眠らない街の闇の淵に、自分自身が足を踏み入れてしまったような錯覚に陥る。それは戯曲っぽい文体のせいなのか…? それにしても『私たち』が気になります。観念的な視点だというこの『私たち』に、やはり劇場の観客の目を想像してしまったりもする。見られる側と見る側のどちらが真実の世界なのか、追う者と追われる者のどちらが正義なのか境界線が非常にあやふやで、答えがない。だからこそ「ゆっくり歩いて、たくさん水を飲もう」という高橋君の言葉にほっとします。救われます。最後にアルファヴィルのカオルさんと海辺のカフカの星野さんは、知り合いのような気がするのは私だけ? 村上ワールドは健在だと思う。これもひとつの視点であり、アフターダーク…私は好きです。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

巨大な監視カメラ

2004/09/26 19:05

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ナカムラマサル - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹の才能には舌を巻く。(最近は顔までかっこよく見えてきた)
何でもない言葉を格言のように感じさせるハルキ節も健在。
何よりも、これほど多用な読み方がなされ得る作品は、現時点では彼にしか書けないだろう。以下も、数多ある「アフターダークの読み方」のうちの一つとして提示したい。

本作の「視点」についてどう捉えるか。それが本作を読む際のポイントとなるだろう。
「宇宙人の視点」「神の視点」「鳥の視点」…すでに数々の書評家によって論じられているが、本作にちりばめられた符号から「監視カメラの視点」と名づけた中島一夫氏の論(週刊読書人9/17号)に追随しつつ、「安心のファシズム」に絡めて読んでみると、本作がより深いものに感じられた。

「安心のファシズム」(岩波新書)の内容について触れたい。
監視カメラ・携帯電話・ネット家電・住基ネット…これらのおかげで、私たちの生活は飛躍的に便利になってきているし、「安心感」も与えてくれる。たとえば、監視カメラ。監視カメラを設置するということは即ち、自分も監視されるということに他ならない。「自由」か「安心」かを天秤にかけたとき、多少の不自由を感じても、「安心」の方を大多数の現代人は選択する。だが、犠牲にした「自由」と同じだけの「安心」は、実は与えられていない…言わば管理社会への警鐘を鳴らしている本である。

本作「アフターダーク」の俯瞰の視点から、エリとマリという2人の姉妹にそれぞれ焦点が定まっていく方法は、都会に生息する無数の人間の中から、巨大な監視カメラが無作為に選んだ者の一夜を、淡々と映しているかのように感じられる。
「視点」からすれば、彼らは、「一人一人違った顔と精神を持つ人間であると同時に、集合体の名もなき部分だ。ひとつの総体であるのと同時に、ただの部品だ。」とされている。

監視カメラが映し出す、人間性を排除した無機質な世界の中で光るのが、マリがこの夜出会った「高橋」や「コオロギ」の存在だ。
—「でも君なら大丈夫だよ。うまくやれる。僕もここで帰りを待ってるし」
—「世の中にはね、一人でしかできんこともあるし、二人でしかできんこともあるんよ」
ほんの短い時間を共にしただけなのに、彼らはマリに貴重な言葉を残していく。
他人を信じてもいい、そう思わせてくれる人物たちだ。
彼らと出会った後のマリは確実に変わっている。

ラストの一行は、次に監視カメラに選ばれるのは自分なのではないか、という恐怖感にも似た思いを抱かせるが、信じられる人間がまだ夜のどこかにいるかもしれない、という希望が、孤独な暗闇に一筋の光明をもたらせてくれる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

タイトルはいい!

2004/09/27 13:51

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:山  - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「アフターダーク」って、まずマッキントッシュのスクリーンセーバーが思い浮かんだんだけど、そんなのが小説のタイトルになるわけないので、辞書を引いたら「日没後」。
 わお!と思いました。
 なんて思わせぶりなタイトルなの。昼じゃなくて夜。太陽の光が届かない闇の世界。使い古された熟語なんだろうけど、今これをタイトルに持ってくるなんてセンスいい!
 想像力がグイグイ掻き立てられました。しかも25周年記念ときてる。こりゃ傑作に違いない。と、予約して心待ちにしてたのに……。
 なにもかもが放りっぱなしで終わっちゃってる。作者はレトリックの天才だから、なんとなく最後まで読ませられてしまうんだけど、消化不良です。未解決だらけ。
 しかも「長編」ということになってるのに3時間ぐらいで読める。短編ではないかもしれないけど、よくて中編てとこですよ。これって今話題の「かさ高紙」使って本を分厚く見せかけてるんじゃないの。
 とまあ批判めいたことばかり感じたくせに、デニーズで「チキンサラダ」や「かりかりのトースト」食べたくなったりする、村上ワールドにはまっちゃったところもあり、どっかでは楽しんだことも確か。
 これって何が言いたいんだろう? そういう「答え」を小説に求めるのは読者なら当然なのに、ぽいっと突き放された感じ。いや突き放されたというより、書いている時点で作者が「答え」なんか放棄してるんだろうな。
 小説というのは「答え」なんか書いてなくても、「ただ読む」ことに意味を発見できればそれでいい。純文学の世界では今そんな考えが多く見られる気がするんだけど、この小説はそれに当てはまらない。「私たち」とかの意味を持った布石がたくさん打ってあって、それの後始末をしないでジエンドになっちゃうのは、卑怯だと思う。
 そのうちエライ批評家が、この小説の意味を読み解いてくれるかもしれないけど、そういうのを信じてはいけない。「アフターダーク」は、最初に思わせぶりなタイトルが決まっていて、それに刺激を受けて作者が文章を紡いでいった結果、失敗したのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

夜の濃密さの中に小さな灯がともってる

2004/09/27 21:30

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:トパーズ - この投稿者のレビュー一覧を見る

大概の人が眠りにつく頃に、物語ははじまる。
夜明けなら息がほんのりと白くなってしまうような、冬が駆け出し始めたような遅い秋。なんて、この小説にぴたりと似合う季節なんだろう。
 私は依然に、夜働いてた事があるので(小説の中での職業とは違うのだが)コオロギとマリの会話は、心の中にぽつんと小さな灯が、ともるように素直に受入れる事が出来た。それまで親しくなかった人と急に交わす思ってた以上に深刻でリアルな話。これは夜にしかあり得ない、夜の濃い空気でなければ、こんなに近い距離感で、誰かの話に真剣に耳をたてる事もなく、饒舌に話す事さえないだろう。ギュギュッと抱き締められたように濃密な距離で他人の話を感じる機会が、私にもあったことを思い出させてくれた。
 登場人物はそれなりにみんな孤独で、夜の中で静かに呼吸してる。
 本文の中に以下のフレーズがあって
「部屋全体は暗く、彼の机のある部分だけを、蛍光灯の光が天井から照らしてる。『孤独』という題でエドワード・ホッパーが絵に描きそうな光景だ」
 そこまで読んでやっと気付いた。この箇所だけではなく、この物語の風景全体ががまるで、エドワード・ホッパーの絵みたいなのだと。登場人物でさえ旅行者で、街路の中から明るいネオンのともった室内の中で行われてる事を傍観してる、ついそんなホッパーの絵をイメージしてしまった。大概の登場人物は物語の針が進んでいく街に住んでいるのではなく、そこを目指して他所からやって来た人がほとんどだから。
 いろいろな予感や淡い期待を抱いてしまうのも、ホッパーの絵をイメージしてしまうのかも知れない。
 今となっては、マリもエリも絵の中に描かれても、不思議でないような気さえするくらいだ。ホッパーの絵の中に、メランコリーな表情をした若い女が、映画館の壁にひっそりと佇んでいる絵があるのだが(タイトルはニューヨークの映画館といいます)彼女達はなんとなく、具体的にその絵をイメージしてしまう。外見は違えども、ふたりともよく似てる。今は不安で押し潰されそうな彼女達だけど、10年後はどうなっているのだろう。特にマリの事が気になった。私はファミレスのコーヒーを前にして、いじけて不安げに佇むマリの事が大好きになってしまったから。
 夜も段々と長くなり、もう2ヶ月もすれば、地面に落ち葉が一杯で、それをふみしめるとカサコソと言う乾いたような、でもまだ中心は湿っているような小説の中の季節がやってくる。
今年は秋が来るのが待ち遠しい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

「センチネル」と「うなぎ」で読む

2004/10/06 21:37

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:GG - この投稿者のレビュー一覧を見る

 宣伝文句に「作家デビュー25周年記念」とある。1979年度「群像」新人賞受賞作品「風の歌を聴け」から25年。80年代を画する新人作家は、今や国際的な評価を受ける大作家となった。

 そう、2004年の現在、村上春樹は国際的な大作家なのである。好むと好まざるとに関わらず。そのことが、本書を読みやすくも読みにくくもしている。

たとえば、いま18歳の読者(女性としよう)が本作を最初の村上作品として手にした場合を考えよう。はじめのうち彼女は作品世界に違和感を覚えるかもしれない。しかし、一般的な高い評価が、彼女の読書を後押ししてくれるはずだ。読みすすむうち、作品と波長があってくるかもしれない。ポジティブな読後感が得られたなら、その彼女にはこれから村上ワールドにひたる楽しみが待っている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、『ねじまき鳥クロニクル』もこれから初めての作品として読めるなんて、ちょっとうらやましいような気さえする。蛇足ながら、短編にもカッコイイのがたくさんあるよ、と教えたくなってしまう。

しかし、古くからのファンで、過去のどこかで村上ワールドに深くとりこまれる経験のある読者の場合は話が違ってくる。過去の素晴らしい読書経験が却って新作を虚心に読む邪魔をしてしまう。たとえば、古い例で恐縮だが、『蛍・納屋を焼く・その他の短編』が新刊だったときに「蛍」を読み、心を強く動かされた記憶が私にはある。すると、彼の新作への期待は非常に大きなものになる。心のどこにも直ぐには落ち着かない、あの読後感をまた味あわせてほしいと願ってしまう。

そして、こういう読者が本書を読むと、この『アフターダーク』にもいいところはあるけれど、村上春樹はもっとスゴイのに、などと思ったりするのである。それが昂じると、生意気なファンの通例で、『××』まではよかったけれど、今のムラカミはちょっとねえ、と言ってみたり、あるいは裏目読みをして、作品の一部を極端に拡大した妙な「解読」で悦に入ったりすることになる。

そんな一人よがりを避けるためには、優れた読み手による評論の導きを得るのが一番だ。私の知る限り、もっとも優れた村上春樹読解は、内田樹氏によるものである(『期間限定の思想』所収「邪悪なものが存在する」)。本作『アフターダーク』についても、彼のウェブ日記の記述に蒙を開かれた。

キーワードは、「センチネル」と「ディーセンシー」そして「うなぎ」である。

なるほど、そう読めばよいのですね、内田先生。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

ささやかな胎動へ

2004/10/13 23:52

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る

浅井マリと姉エリの関係がふと『ノルウェイの森』のなかの直子と姉の関係とパラレルなものに思えてしまって(77頁あたりから)、気がつくと読み始めの頃の違和感もほとんど気にならなくなっていて、しっとりと身体にしみ透ってきた感じ。

>(『ノルウェイの森』)

そして直子はある日、部屋で首を吊っている姉を見つける。『ノルウェイの森』ではそうなる。でも『アフターダーク』ではそうはならない。

>

(『ノルウェイの森』では、直子は姉ではなくワタナベのベッドにそっと入ってくる。姉はすでに死んでしまっているから。)

失ってしまったもの、取り返しのつかないもの。乗り越えたつもりでいても、それは、よりによってこんな時にって思うような場所で人を狂わせたりするものだったりする。そういう個人的なものを、クールに突き放しながら(ベタつかない感じで)やさしく掬い取ってくれるのがこれまでの村上春樹の小説だったように思う。『アンダーグラウンド』でオウム信者へのインタビューをしたあとに書かれた小説もその点ではあまり印象は変わらなくて、あくまでも個人的で潔い優しさを僕は受け取ってきた。(そして、確かに何かが足りないような気がしていた。)
でも『アフターダーク』は違うように感じた。たとえば、ラブホテルで働きながら怖い人たちから逃げ回っているコオロギというあだ名の女性の台詞。彼女はある意味とても村上春樹っぽい登場人物で、たぶん「鼠」とか「羊男」系列のトリックスター(はぐれもん)的なキャラクターにあたるんだろうなと思う。が、大阪弁である。女性である。村上春樹らしくない。(と僕は感じた。)

>

こういうことは小説自体とはあまり関係ないことかもしれないけれど、村上春樹自身は小説家として、自らの切実な喪失体験のようなものを『ノルウェイの森』までのいくつかの小説を書くことで乗り越えて、「自己療養へのささやかな試み」(『風の歌を聴け』)というプロセスを終えて、(『アンダーグラウンド』を境にして)社会へのコミットメントという方向へ新しい一歩を踏み出した。そして『海辺のカフカ』までの小説を書くことで「(社会への)コミットメント」というプロセスに一区切りをつけて、もう一度自分が小説家としてスタートした場所に戻ってきてくれたのではないかと思う。あえて初期の小説と同じような道具立てを使って新たなスタイルを実践しながら。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

“らしい”作品

2004/10/22 20:33

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:R2 - この投稿者のレビュー一覧を見る

ここ10年くらいの間で、待ち遠しいのは、
村上春樹の新作とスターウォーズの封切りです。

評価が★★★★★か…?
悩んだ…。
“評価”=“私が満足”だったかというと★★★★かなー。
だけど、
“新作でた”というだけで★★★★★(好きなのでしようがない)。

前作(カフカ)がハラハラワクワクものだったので、
今回のは、なんだろー、なあ。
(村上春樹)“らしい”って感じでしょうか。

街の描写がよかった(印象に残ってる)。
“新宿”がね。

★★★★★ね。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

感覚だけの未完成ノート

2004/11/13 10:39

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:melt_with_you - この投稿者のレビュー一覧を見る

それが魅力だ、と言ってしまえばそれまでだけど、感覚中心で決して完璧に完成されない作品、これが春樹ワールドの魅力でもあるけど、この作品は未完成ノートだ。
この本は1枚の紙が厚くて、文字も大きい。カバーは和田誠。複雑な心境だ。
相変わらずの登場人物の言い回し、時計表示という仕掛け…。
言いようのない不安感とそれに隣接する安らぎをかろうじて感じられたのが救いだ。

でも、これが第三期春樹ワールドだとしたら、20年来のファンを考えないといけないなあ…。この本の厚さで2年以内に続編が出たら怒るよ、私は。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

日本の小説 ランキング

日本の小説のランキングをご紹介します一覧を見る