紙の本
18世紀から19世紀のドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー氏の代表作です!
2020/07/15 10:41
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、18世紀後半から19世紀のドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー氏の代表作です。同書は、1819年に公刊された書で、その大きな特徴として三つが挙げられます。一つは、著者が認識論の上でカントを継承しており、カントを簡明にし、明快にその観念主義を発揚していることです。二つ目は、意志としての世界で、我々に最も直接な意志から出発して、一切の本性、自然の本体をもそれに認めた事であり、これは形而上論として最も独創的な方面であるということです。そして三つ目は、観念の顕照として著者が見た世界は、全くプラトンの理想から出たもので著者の意志形而上論の光明ある方面であり、終局目的観に近接した理想的の見方であるということです。原書は4巻と続編から構成されています。中公クラシックスでは全3巻シリーズで刊行されており、同巻である第1巻目は、「第1巻 表象としての世界の第一考察―根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観」と「第2巻 意志としての世界の第一考察―すなわち意志の客観化」の内容が収録されています。
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主観−客観/現象−物自体、あらゆる相対性の地層を発掘するように読む。書かれた物と現実が、あるいは読書体験と現実経験が、一致するように読む。表象という言葉が能動であるのか受動であるのか、意味の更新を迫られる。
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私たちは、自分が「享楽的消費社会」の只中でその『自由』と恩恵を享受しながら、収入、生活、老後などの様々な問題で身動きが取れない『孤独』を感じざるを得ない。
水がどのような形であっても、その本質を表すことに変わりないように、人もまた、どのような場合にもその本質が現れることをショーペンハウアーは述べている。
しかし、2012年の現実は、どの場合に誰かが作ったレッテルを貼られ自分の本質で内容に感じられてしまう。
今こそ、自分の好む、好まざるの思想を超え、新しい考え方、生き方を見ようとしなければ。
そのヒントを与えて食えるかもしれないと思える本である。
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「物自体というのは意志のことである」というのは一見トンデモなんですが、
あれは「一切皆苦」のことなんじゃなかろうかと思いました。
(そういう表現をすると割と腑に落ちるというか)
学会でショーペンハウアーの研究をしてる人がことあるごとに
「あれは実体のことじゃないんだ」と言ってらしたのを思い出します。
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読む前の世界と
読んだ後の世界が
違って見える可能性のある本
何度も読みたい、というか読まなければ理解できない
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『意志と表象としての世界』の構成 p37
第一巻=認識論、第二巻=自然哲学、第三巻=芸術哲学、第四巻=倫理学
《第一巻 表象としての世界の第一考察―根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観》
冒頭 p5
「世界はわたしの表象である」―これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。
(解説)わたしの意識の外に世界が実在する、と主張してみても、そのことを確信するのもまたわたしの意識である。この言葉は、外から押しつけられるいかなる既成の価値をも疑う、という態度表明でもある。
継続こそ時間の全本質である。p20
理性によって正しく認識されたものが真理 Wahrheit であり、悟性によって正しく認識されたものが実在 Realitat である。p57
教義(ドグマ)に没頭するのは閑暇のある理性のやることである。行動は結局のところ教義に左右されず、わが道を行く。大抵は抽象的な格率に従うことなく、まだ言葉になっていない格率に従う。このような言葉になっていない格率を表現したものことそ、ほかならぬ人間の全身全霊なのである。
むしろ理性の機能は一段下位にあたるもので、この機能はいったんきめた決心を守らせ、格率を突きつけ、一時の弱みに反抗させ、首尾一貫した行動をとらせることにある。
哲学の任務は具体的な認識を抽象的に再現することである。いいかえれば、継起的で可変無常な直観、一般に情という広範囲の概念のうちに抽象的でないとか明晰でないとかいうネガティブなレッテルで一括されているところのいっさいを、抽象的な明晰な知にいたるまで、つまり一つの永続不変の知にいたるまで高めること、これが哲学の任務である。p184
哲学をする能力はまさに、プラトンが定めたように、ひとえに多のなかに一を認識し、一のなかに多を認識することにある。p185
フランシス・ベーコン「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである」(『学問の発達』)p185
理性は貴い志のためにも悪しき企てのためにも、また賢明な格率のためにも無分別な格率のためにも、とにかく組織的に首尾一貫してこれらを実行する用意を均等にそなえていて、またそれに均等に役立つのである。これはまさしく理性の女性的で、受身的で、保存的で、みずからはなにも産み出せない本性のしからしむるところであろう。p193
エピクテトス「貧乏が苦痛をもたらすのではなく、欲望がもたらすのである」p196
(ストア派の)開祖ゼノンにおける出発点は、最高の善、すなわち精神の平静による至福状態に達するためには、自分自身と一致した生き方をしなければならないということであった。[一致して生きるとは、すなわち同一の理性に従い、自分自身と調和して生きることである。Cf. ストバイオス『自然学及び倫理学抜粋』―同じくまた、徳とは全生涯にわたって魂が自分自身と一致することにある。ところでこれは、変化する印象や気分によってではなく、どこまでも理性的に、概念に従って自らを決定することによってのみ可能である。]
身体というこの唯一の客観は本質的に他のあらゆる客観とは異なっていて、あらゆる客観のなかでこれのみが意志であると同時に表象である、ということである。これに反し他の客観は単なる表象であり、いいかえれば単なる幻影でしかない。したがって身体こそ世界中でただ一つの現実的な個体である。すなわち身体こそただ一つの意志の現象であり、かつ主観にとってただ一つの直接の客観なのである。p229-230
幻灯の映し出す絵はたくさんあり、さまざまであるが、すべての絵が眼に見えるかたちになるのは、たった一つの焰のためである。この比喩と同じように、相並んで世界を満たし、相次いで事件としてせめぎ合う現象はさまざまであるが、しかしそのなかで現象するものはたった一つの意志であって、万物はこの意志が可視的になり、客観的になったものにほかならない。意志はあの変転推移のただなかにあってもあいかわらず不動である。意志のみが物自体である。p343
現象は無限の差異性と多様性をそなえているが、物自体としての意志は一つである。意志は一つであるという認識だけが次のことについての本当の解明を与えてくれよう。自然界のすべての産物にみられる見違えようのないあの不思議な類似性 analogy 、すべての産物は同時に与えられてはいないが、結局同一テーマのヴァリエーションとみなされるあの同族的な相似性についてである。このことと同様に、世界のあらゆる部分と部分とのあの調和、あの本質的な連関、部分と部分とが段階を構成する必然性、われわれがたった今考察してきたあの必然性―こうしたことを明晰に深くつかんで認識すれば、すべての有機的な自然の産物の否定しようのない合目的性の内的本質と意義に対する、真実で十分な洞察がわれわれには開かれてくるはずである。p345
われわれが生きかつ存在しているこの世界は、その全本質のうえからみてどこまでも意志であり、そして同時に、どこまでも表象である。この表象は、表象である以上はすでになんらかの形式を、つまり客観と主観とを前提とし、したがって相対的である。客観と主観というこの形式と、根拠の原理が表現している、この形式に従属したすべての形式とを取り除いてしまったあかつきに、さらにあとに何が残るかをわれわれは問うてみるなら、これは表象とはまったく種類を異にしたものであって、意志以外のなにものでもあり得ず、それゆえこれこそ本来の物自体である。p363
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ヘラクレイトス 万物の永遠の流転を悲しんだ
プラトン たえず生成するが、ついに存在しないものと軽視
スピノザ ただ一つ存在し持続する唯一の実体の、単なる偶有性
カント スピノザの見解で認識されたものを単なる現象と呼んで、物自体に対立
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最終的な、大きな主張は、その通りのように感じた。
それは、この世界が知り尽くされることがないように思われるからだと思う。シンギュラリティを経て、解明尽くされるのか?なおも疑問である。
主張の細かな部分は、書かれた時代もあり現在の科学による説明とは異なり、古く、もはや説明に説得力がないものもある。ただ、これは大筋とは関係しない。世界が解明し尽くされることがなければ、結論は変わらないように感じている。
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ニーチェやワーグナーに大きな影響を与えたショーペンハウーの代表的著作。最初の鎌田康男氏の当時の時代背景の解説や彼の簡単な一生の紹介があってそのあとに本文が始まる。「世界は私の表象である」という文章から始まるのが興味深い(さてそれはどういうことですか?ということになる)。
本書は1巻から4巻に至るその前半の1巻と2巻を収めており、1巻で表象、2巻で意思の説明、そして3巻で表象の第2考察としての芸術、4巻で意思の第2考察としてのペシミズムが展開される。
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ニーチェに影響を与えた実存主義哲学者として、ヘーゲルと犬猿の仲だった在野哲学者として、数々のアフォリズムを残した厭世哲学者として、間接的に名前だけは知られているショーペンハウアーを、直接読もうとする読者があまりにも少ないのが残念で仕方が無い。これほど分かりやすく、面白く、魅力的な哲学者は滅多にいないというのに。
ドイツ本国でさえ発売当時見向きもされなかった『意志と表象としての世界(正篇)』の難点は、ショーペンハウアー哲学の独創性が遺憾なく発揮されている第三巻と第四巻が、その前置きに過ぎない第一巻と第二巻の背後に隠れている点であろう。その第一巻と第二巻が収められた本書は、ショーペンハウアー哲学の理解にとって避けては通れない鬼門であるとは言える。
しかしながら内容は決して難解でも退屈でもない。「世界は私の表象である」の一文で幕を開ける第一巻「表象としての世界の第一考察」は、その名のとおりわれわれが認識している世界の哲学的分析に終始している。第二巻「意志としての世界の第一考察」で論じられる「意志」は、ショーペンハウアー哲学最大のキーワードであろう。それを神の言い換えに過ぎないと断ずる評者もいるようだが、時間・空間・因果性によってフォーマットされる以前の世界をあえて「意志」と名づけた辺りは、感情によって世界が形成される実存主義哲学の先駆ともいえ興味深い。
『意志と表象としての世界(正篇)』はショーペンハウアーの主著であり、邦訳はほかに白水社の全集版と理想社版があるが、入手のしやすさと分かりやすさでは西尾幹二訳の本書が群を抜いている。このまま忘れ去られてしまうのはあまりにも惜しい、特に若い読者に読んでもらいたい古典的名著であり名訳である。
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「いっさいの目標がないということ、いっさいの限界がないということは、意志そのものの本質に属している」
なっとく。今自分が行ってることごとについては目的があるけど原因は説明でなきない、ただ意志があるだけ。
で、世界は意志が表象したものである
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ショーペンハウアー「 意志と表象としての世界 」
1巻 認識論 世界は何であるか探究した巻。世界は わたしの表象(目前に見るように心に描くもの)である」としている。
難解部分は読み飛ばしたが、理性、死、幸福、苦悩についての名言は 現代的で面白かった
理性
*理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす
*人間は理性を有するが故に、死を意識する。哲学は死の練習である
幸福と苦悩を同列に扱い、要求と現状の不釣合という認識の欠陥に起因したものとしている
名言
*世界はわたしの表象である。これは生きて、認識をいとなむものすべてに当てはまる真理である
*過去というも、未来というも〜夢のように儚いものなのである
*わたしは客観からも主観からも出発しないで表象から出発した〜表象は客観と主観の両方を含んで、両方を前提としている
*動物は死おいて初めて死を知る。人間は〜意識しながら死に近づいていく
*喜びは 幻想である〜満足は長続きするものでなく〜幸福は偶然から借りてきたものであって、返却を求められる〜そもそも苦しむことなく生きようとすること自体に矛盾がある
客観は 主観の表象として、主観に対応して存在するにすぎない
表象の世界は 客観の側面では、時間と空間と物質に、主観の側面では、純粋な感性と悟性に還元される
2巻 自然界を存在論的に考察した巻
身体を介して現れる意志を物体化して捉えている。自然界の淘汰を 種の生存欲という意志として 展開。意志を「目標も限界もなく、終わることなく 盲目的に生を欲する存在」と捉えている点は 厭世的で、現代の人間を批判しているようにも感じる
意志とは
*意志は物自体である
*すべての表象、すべての客観は意志の現象であり、意志の現れである
*意志は個別のもの、全体をなすものの内奥であり、核心である
*意志は盲目的に作用しているすべての自然力のうちに現象する
*意志は微小な個物の中にも分割されず全体として存在している
内部抗争は意志にとって本質的なことである〜各種のイデアによって客観化される意志の内部抗争は〜種に属する個体同士の絶滅戦となって現れる
名言
*すべての表象(すべての客観)は、意志の現象であり、意志が目に見えるようになったものである〜意志の客体性
*意志の客観化の諸段階は、プラトンのイデアにほかならない
*認識は、意志の客観化の高位の段階に属していて〜個体や種を維持するための道具であり手段である
*いっさいの目標がないこと、いっさいの限界がないことは 意志そのものの本質に属している。意志は終わるところを知らぬ努力である
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ばりおもろい。
ニーチェの哲学的熱情を駆り立てたショーペンおじさんの主著であり、二十世紀の西洋思想を語る上で特に重要な一冊。
時間と空間の考察を読むあいだアインシュタインの相対性理論が脳内をチラチラしたが、案の定アインシュタインはショーペンハウアーを深く敬愛していたらしい。
科学的努力とは世界の仕組みを理解するのに欠かせないが、我々人間という意識主体を説明するのには不十分で、そこには「哲学」や「思想」が必要になる。
主観と客観は表象によって統合されていて、我々の無方向で盲目的な意志だけがあるのみ。
人の根源的な欲動性や力の偏在を認めるあたり、その後出てくるフロイトやニーチェの思想にも接近していく。
まさに二十世紀を生み出す礎石としてのドイツ哲学。
これからが楽しみ。
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面白かった。「この世界は最悪な世界で、生き辛い」が全面的に出された本。
悲観的、だからこその思考。
内容がちと難しいので、哲学初心者は避けるべきかな。個人的には、シンプルな読みづらさを感じたのがネック。