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紙の本
「よく味はふ者の血とならん」(文鳥堂書店のブックカバーより)或いは「虚にして実、実にして虚、バランスが命綱」(阿佐田哲也)
2004/11/12 03:00
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投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
>(「おわりに」より)
1941年生まれの文芸評論家・川西政明さんが小説とともに歩んできた日々を振り返りながら語った随筆『小説の終焉』は、とても充実している。二百ページほどの本なのに、百冊分くらいの小説世界を堪能したような読後感が残っている。
第一部では「私」と「家」と「性」と「神」の>が、第二部では「芥川龍之介」と「志賀直哉」と「川端康成」と「太宰治」と「大江健三郎」と「村上春樹」の>が、第三部では「戦争」と「革命」と「原爆」と「存在」と「歴史」の>が語られる。
小説を読み、日々の生活を生きつづける。『小説の終焉』のなかで語られているのは、あくまでも小説そのもののことなのだけれど、その文章には川西さん自身の六十年あまりの生活の分厚さが、とても骨太な力強さとなって息づいている。
たとえば「神の終焉----踏むがいい」のなかでは、遠藤周作と武田泰淳のふたりが扱われている。図式的な言い方をすれば「遠藤周作=キリスト教」であり、「武田泰淳=仏教」である。でも幸か不幸か物心ついた頃には既にクリスチャンとして日本に生きていた僕は、「キリスト教/仏教」なんて割り切り方はあまりに粗雑で乱暴で馬鹿げていることを肌身に感じながら日々生きてきたから、次のような文章に触れたとき、「あっ!」と思った。そして読まずぎらいだった遠藤周作の『沈黙』と『海と毒薬』を、その次には武田泰淳の『富士』を読もうと動機づけられた。ついでに三浦綾子さんとかも。
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うわべだけ鮮やかな言葉ではなく、生活の重みをもった滋味豊かな言葉。
さまざまな角度から語られる近・現代の日本の小説についての言葉に耳を傾けながらその豊かさを堪能するもよし、これだけのことが書かれ尽くしたあとにいったいどんな小説を書くことができるというのだろうと未来の小説家気分で思い悩むもよし。とりあえず僕にとっては、「すべてのものは、変化する。変化するものは互いに関係しあって、変化する。よろこびも悲しみも、変化の中にある」というフレーズが、終極は「死」に他ならないような茨の道のささやかな導きの光のように見えていたりする。
読みながら「中上健次が出てこんやんか」とか「坂口安吾はどうしたんじゃい」とか「梶井基次郎はなんで出てこんのや」とか(←この三人の僕が大好きな作家の名前さえ出てこない)、きわめて個人的なイチャモンが心のなかに生じなかったと言えば嘘になるけれど、読み終わってみると「そんなことは戯言に過ぎなかったな」と思う。この本には絶妙のバランスがある。ひとりの人間が自らの血肉として生きてきた小説への思いを率直に語り継ごうとしている、その本気さ加減に僕は大いに感動させてもらった。なんというか、久しぶりに「ありがとうございましたッ」と言いたくなる本に出会った気がする。