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商品説明
【伊藤整文学賞(第16回)】40を過ぎて自分が金毘羅だったことを思い出した「私」。幾多の危機とバッシングを奇跡のように乗り越え、野生の金毘羅へ。自伝的「金毘羅」一代記。『すばる』掲載を単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
笙野 頼子
- 略歴
- 〈笙野頼子〉1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。「極楽」で群像新人文学賞、「なにもしてない」で野間文芸新人賞、「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞等、数々の賞を受賞。
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紙の本
笙野頼子の絶対的自己肯定
2006/01/24 19:22
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
「水晶内制度」が出たと思ったら、ほぼ一年後に出たいまのところ最新の長篇。長篇をこの短いスパンで出すというのはこれまではなかったんじゃないか。本人は千葉に引っ越したおかげだと書いているが。
「水晶内制度」が国家や制度、女性男性といった“私”とその外部(もちろんそんな二元論では書かれていないがとりあえず)という構図で書かれたSF的な作品であるとすれば、「金毘羅」は私にとっての私というような構図を持っていると言える。両者はともに「読み換え」=「書き換え」の戦略を持っているのだけれど、「水晶内制度」が国家の根拠となる神話の読み換えを試みていたのに対し、「金毘羅」では自分自身をその対象としている。
その方法とは、“私”は実は生まれた時に一度死んでおり、そこに金毘羅が入りこんで生還した存在であるという着想を基点とし、自分の人生、存在を「金毘羅」として読み直すというもの。これにより、「小さい頃からはぐれ者で、両親に多大な迷惑を掛けて、どうにも社会になじめなかったんだけど、そりゃ仕方ないや、私金毘羅だったのだもの」(これは引用ではない)、という感じに自身の人生を肯定的に反転させてしまう、他に類を見ない変形的自伝風小説が出現する事になった。おそらくはかなりの部分自伝的要素を含んでいるのに、そこに自分が金毘羅として転生した経緯が一緒くたに語られるという特異な構成になっている。
この小説で“私”は、社会の中の異者としての自分自身を絶対的に肯定し、そこを足がかりとして国家や国家神道、科学の振りをしたオカルト、などなどに対して、つねにカウンターとして振る舞うという決意をいだく。伊勢に祀られている様々な神ではなく、途中まで自身の守護神だったサルタヒコでもなく、江戸期に庶民的人気を持っていた“カウンター神”金毘羅として自身を捉え直し、あらゆる抑圧と戦うという決意である。神道、記紀神話など国家や権力に吸収されたものにたいして、被抑圧者の痕跡を探し出し、抑圧された者として自分を定位し、そこから反逆の狼煙を上げるというのは「水晶内制度」にもあったが、ここではその主体は私自身となり、一匹狼としての哄笑を響きわたらせている。
この小説、「S倉迷妄通信」以来顕在化してきた宗教的要素が中心となり、記紀神話や仏教的素養のない私にはかなり難物になっている。笙野頼子の方針として、柄谷行人が「日本近代文学の起源」などで提起した「内面」「風景」といった、現代日本文芸批評のほとんど基本ともなっているメソッドに対してのアンチテーゼとして書かれている面もあり、どちらかといえばその柄谷メソッドに馴染んできた私にとって、相当な異物感が感じられる。まさに、その異物感があるからこそ、緊迫感のある読書になるのだが、いかんせん記紀、仏教的知識の不足を痛切に感じるところがある。
はっきりいって、「水晶内制度」などよりも難解だった。語られるエピソードの数々は面白いし、退屈ではないのだけれど、私にはこの小説の射程が全然掴めない。勘所を理解出来ていないという感じが残る。この小説は昨年度、何人もの人がその年のベストに挙げていたようで、そのせいか結構読まれているようだけど、いったいどう読まれているのだろうか。
笙野頼子の現時点での集大成であり、国家神道に対して神道左翼を自称する抵抗者として自身を金毘羅と見なす闘争宣言ともいえる、おそらく笙野頼子作品のなかでもメルクマールとなるだろうことは確実の作。
「壁の中」から