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他者と死者 ラカンによるレヴィナス
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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2004.10
  • 出版社: 海鳥社
  • サイズ:20cm/274,6p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:4-87415-498-0
  • 国内送料無料

紙の本

他者と死者 ラカンによるレヴィナス

著者 内田 樹 (著)

レヴィナスの思想の核心である「他者」論を、ラカンの精神分析理論を手掛りに読み解く。難解なことで知られる2人の哲学者に共通する「分からなさ」が、読解の手掛りを提供し、さらな...

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他者と死者 ラカンによるレヴィナス

2,700(税込)

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商品説明

レヴィナスの思想の核心である「他者」論を、ラカンの精神分析理論を手掛りに読み解く。難解なことで知られる2人の哲学者に共通する「分からなさ」が、読解の手掛りを提供し、さらなる謎へと誘う美しい思考のアクロバシー。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

内田 樹

略歴
〈内田樹〉1950年東京生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科(仏文専攻)中退。現在、神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に「街場の現代思想」など。

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著者/著名人のレビュー

「ラカンによるレヴィ...

ジュンク堂

「ラカンによるレヴィナス」という副題にまずはおののく。ラカンもレヴィナスも、極めて難解な思想家であり、一人一人を読み込むだけでも厖大な労力が必要だからである。しかも二人は、通常はそれぞれ精神分析と倫理学という異なる範疇で論じられる人だからだ。だが、内田の炯眼は、「ほとんど同年齢で、同じ大戦間期にフランスで知的形成期を過ごしてきた二人の卓越した知性が、『今、緊急に取り組まねばならない人間的課題とは何か?』という問いに対して振り絞るように出した答えがまるで違っているはずがない。」ことに向けられる。ラカンもレヴィナスも、ナチスによる虐殺をたまたま免れたユダヤ人であり、一貫して「他者」にこだわり、「他者」を考え抜いた人たちであった。そうした二重奏に、いつの間にかアルベール=カミュや村上春樹が加わっている。近年新書版でベストセラーを続ける内田樹だが、本来の面目躍如はこうしたところにあるのだ。
「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ。」モーリス=ブランショは、こう言った。

みんなのレビュー9件

みんなの評価4.4

評価内訳

  • 星 5 (3件)
  • 星 4 (3件)
  • 星 3 (1件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)

紙の本

「中間的なもの」にとどまる強靱な知性

2005/03/22 13:57

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 レヴィナスの著書はまだ読みきったことがない。最小限の「蔵書」をモットーにしている部屋の本箱には、ここ数年来、講談社学術文庫の『実存から実存者へ』と『存在の彼方へ』、ちくま学芸文庫の『レヴィナス・コレクション』がほとんど手つかずのまま眠っていて、どうしても「整理」することができない。いつの日にか必ずや耽読することになるであろうという確信がある。というのも、これまでに読んだレヴィナス関連本(たとえば熊野純彦の『レヴィナス入門』と『レヴィナス』、合田正人の『レヴィナスを読む』、小泉義之の『レヴィナス』)がいずれも劣らず印象的かつ刺激的だったからだ。

 昨年『死と身体』に続いて読んだ内田樹の『他者と死者』は、これまでに読みえたレヴィナス本やレヴィナス関連本のなかでも群を抜いたとびきりの面白さだった。それ以来、折にふれては部分的に読み返し、そのつど世界の様相が一変するような驚愕を覚え、しかしすぐに忘れ、また読み返しては随所にちりばめられた叡智の言葉に感嘆することの繰り返しで(なんといおうか、「中間的なもの」にとどまる強靱な知性の膂力に圧倒されたとでも)、軽々に感想文や書評めいた小文を認めて本箱から「整理」することができなかった。

 もうすっかり内田節に魅了されてしまって、「時間論」と「身体論」が論じられるというライフワーク「レヴィナス三部作」の完結篇を心待ちにしつつ、レヴィナスの「師弟論」「他者論」「エロス論」が考察された前作『レヴィナスと愛の現象学』を眺めては禁断症状の予防につとめていた。そうこうしているうちに、ちくまプリマー新書から新刊が出た。(以下、『先生はえらい』へ続く。)

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2007/01/17 00:03

投稿元:ブクログ

完全なる師、他者としての師。
師の知ではなく師を仰ぎ見る仕方を継承する。
一度も現在になったことのない過去に対する有責性。

2007/01/11 23:45

投稿元:ブクログ

「わたし」についての激しい精解。「わたし」っていう答えの中心(ブラックホール)に絶対に落ちることなく、スパイラル的にその周囲を廻っているような論述。良い意味で。だから最終的には中心に落ち込んでしまう危惧はあるけど。
んで、これは多分のちの彼の「ハイデッガーは死者を、フッサールは幽霊を語っていた」説につながる。
死者は正しく弔わなくてはいけない。幽霊はよくわからないし、コワイコワイ。

2012/08/16 02:58

投稿元:ブクログ

 偉大な書物が偉大であるのは、それが私たちに潤沢な学術的情報を提供し、私たちを知的に富裕化してくれるからではない。そうではなくて、彼らの書物を読む経験はむしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。しかし、その自失や目眩を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである。

 実際分析家は、無知である症状を、自らの知に受け入れることにおいてしかこの道に入ることはできない。無知をあらわにして見せる積極的なみのりは、無=知であり、これは知の否定ではなくて、もっと磨き上げられた知の形態である。分析家をこころざす人の教育は、この無=知へと導く師あるいは師たちの行為がなかったら成し遂げられないものである。それがなければこの人は、分析家というロボットにしかなり得ない。P55

 「何時何分、経緯何度、しかじかの物を確認す」とだけ航海日記に書き記すことができる。「それが何を意味するのか分からないものが、ある」ということを受け入れられるのは人間の知性だけである。それことが機会と人間の差なのだとラカンはいう。P124

 パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側をみさせるような何かでなければならない。ということです。
「絵は見せかけあり、この見せかけこそが見せかけを見せかけたらしめている当のもの」なのである。
 
「そこに現れないものを現す」ためにいちばん簡単で効率的な方法は「隠す」こと、「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」となることなのである。

 ラカンの重要な分析的知見の一つは、「それが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」の発揮する魅惑に人間は決して抵抗することができないというものである。


 師が師として機能するためには、実際に強記博覧である必要もないし、弟子に敬意を強要する必要もない。そうではなくて、「わが師は大洋的叡智の持ち主であり、私の学知などそれに比すべくもない」と哀しげに「それが意味するものを取り消す」だけでよいのである。その取消の身ぶりによって、彼はその弟子の欲望を点火することになる。師は執拗に、おのれの師に引き比べたときのおのれの無知無能を言い立てなければならない。この執拗さが師であるための必須の要件の一つなのである。p139

2010/05/22 05:18

投稿元:ブクログ

軽くざっと読める。読んでいて思わず「そうそう」「そうだよ」なんて納得・共感が多かった本。レヴィナスをここまでやさしく降りてこさせることができるのはすごい。でももっと何か「コア」が欲しいなぁ。

2013/11/16 00:59

投稿元:ブクログ

レヴィナス「知とは本質的に存在の手前に存在する一つの仕方である。それは出来事にかかわりあわないという権能を保持しながら、出来事に接近してゆく一つの様式である。主体とは無限後退の権能、つまり私たちに到来するものの背後に絶えず回り込む権能のことなのだ。」p98

「私は他我を同時に、この世界に対する主観として経験する。すなわちわたしは他我を、この世界、つまりわたし自身が経験するのと同一のこの世界を経験し、そのさいわたしをも、すなわち世界を経験しその世界の中において他我を経験するものとしてのわたしをも経験するものとして、経験する」フッサール『デカルト的省察』p102

主観性とはそのつどすでに間主観性である。だから、間主観性が成り立つときには、他我が事実的に存在する必要さえないのである。フッサールの卓抜な比喩を借りるならば、世界の中の人間がペストで死滅して、私一人が残されても、それのよってもなお「世界が存在する」という私の確信は揺らぐことがない。p104

フッサールが「現象学的判断停止(エポケー)」と名づけた操作は、平たく言えば無意味に耐えることである。それは、既知に還元しえないような対象をじっと見つめ、なぜその対象は既知に還元しえないんのか...といった種類の問いを受け止めることである。フッサールは「エポケー」の原理的な前提を次のように示す。
「世界は不断に普遍的な感性的経験の明証の中でわれわれの眼前に与えられているが、しかしその感性的経験を、直ちに、必当然的明証として要求できないことは、明白である」p126

レヴィナス「『あなた』の顔が『私』をみつめている間も、『無限』はつねに『第三者』すなわち『彼』としてとどまっている。『無限』は『私』に影響を及ぼすけれど、『私』は『無限』を支配することができないし、『無限』の法外さを『ロゴス』の起源を通じて『引き受ける』こともできない。『無限』はそのようにして『私』に無起源的に影響を及ぼし、『私』のいかなる自由にも先行する絶対的受動性において、痕跡としてみずからを刻印し、この影響が励起する『他者に対する有責性』として顕現するのである
かかる有責性の窮極の意味は、『私』を『自己』の絶対的受動性において、『他なるもの』の身代わりとなり、『他なるもの』の人質となるという事実そのものとして、また、この身代わりを通じて、単に別の仕方で存在するのではなく、『存在する努力』から解き放たれた、存在するとは別の仕方として思考することのうちに存する」Cf. 『存在するとは別の仕方で』p186

「幸福とはおのれの欲求を自足することであって、欲求を消滅させることではない。幸福は欲求が「満たされないこと」によって満たされるのである」p208

私がその場所を簒奪したことによって、「ここ」から闇へと追放され、光の中から退去したもの、そして、そのようにして私に「場所を譲った」ことによって、私のうちに癒しがたい有責感を残し、その有責感を介して私の自己同一性と善性を基礎づけたもの、それをレヴィナスは「他者」と名づけた。p261

驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。p265

2012/04/16 07:39

投稿元:ブクログ

読むのは二回目。うーん、ようやく落とし込まれてきた、という感じです。他者への無根拠な有責性は、リアルな医療現場でとてもアプライ可能な感覚です。この感覚は実際に持ってみないと他人にことばで教えられても上手くいきません。自分で主体的に見つけなきゃいかんという話です。

2013/03/10 10:14

投稿元:ブクログ

出版される本の数こそ多いものの、今の日本で読んでみたいと思わせる物書きはそう多くはない。その中で内田樹にはいつも惹きつけられる。それほど関心のないこと(今回はレヴィナスとラカン)について書かれていても、内田が書くならきっと面白いだろうと思わせられる。それは、内田の思考法が明晰で、説得力に富む話法を持っているからだ。

内田はレヴィナスの「自称弟子」である。当然レヴィナスについての言及も多い。その弟子にしてからが、レヴィナスの書くものはよく分からない、と言う。そのよく分からないものを、難解を持って極まるラカンを引用例証することで読み解いていこうというのが今回の内田の目論見である。一つでは分からなくても分からないものが二つ並べば見えてくるものもある、と言われれば、そんなものかと思わされる。内田の術中にはまったも同然だ。

文明の先進国と思われていたヨーロッパで大虐殺が起きた。ホロコースト以後の西欧知識人は世界の在り方について我々が自明だと思い込んでいる思考法そのものを疑ってかかることから始めなければ、何も語ることができないところに追い込まれていた。レヴィナスもラカンもわざと「分かりにくく書くこと」を通して、単に「理解される」ことを拒否している。彼らが難解な語法で語るのは、自分の足をどこに置き、誰の目で世界や自分を見、誰の言葉で世界を語るのかについて、読者に再検討を迫っているのだ。

私が死んだ後でも「世界」は存在している。それは、人間は先験的に共同体の構成員として存在しているからである。フッサールが先験的相互主観性と言い、ハイデガーが「共存性」と名づけ、レヴィナスによれば「同一性」と呼ばれるのは皆一つの存在の様態を意味している。そして、その「世界」の中にはホロコーストの犠牲者も含まれている。つまり、死者は死者として「世界」に存在している。それが存在論の語法というものである。

9.11以後の世界を見れば明らかなように、「死者たち」は生き残った人々によって「死者として生きること」を余儀なくされている。「死者の遺言執行人」として、アフガニスタンやイラクを爆撃するアメリカをはじめとする諸国も、そのアメリカや他の同盟国に対してテロという行為で報復するイラクをはじめアラブ、イスラム諸国の人々も、同じ大義を掲げているのだ。レヴィナスがしようとしているのは、存在論の語法を打ち切り、「死者をして死なしめる」ことである。

レヴィナスはユダヤ人である。家族は殺されたがフランス軍籍を持つ自分は免れた。そこに私が生き残るために彼らを死に追いやったという自責の念が生じる。私は「死者」の身代わりとして在るのだ。普通、人は死すべき存在であることを忘れて生きている。しかし、皮肉なことに人間が善く生きたいと願うのは死を意識したときだ。レヴィナスは「死者」を「同一性」の中に繰り込むのではなく、「他者」として弔うことで、その身代わりとして「善性」への動機づけを見出したのだ。

今、レヴィナスがあらためて注目を集めているという。世界は「存在論の語法」で語ることを止めず、死者はたびたび召還され、終わりのない暴力の連鎖を生��続ける根拠にされてしまっている。こんな時代だからこそレヴィナスのひそかな声に耳を傾けたくなるのかもしれない。レヴィナスの言葉はラカンのそれと同じく、理解しやすいものではない。「彼らの書物を読む経験は、むしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。しかしその自失や幻惑を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである」と内田は書いている。

内田の書くものに難点があるとすれば、そこだ。ハイデガーやフッサール、フロイト、ブランショ、カミュと錚々たる顔ぶれを巧みに引用し、自家薬籠中のものである映画の比喩も駆使して書かれたテクストを読むことによって、読者は、なんだかとてもよく分かったような気がしてしまうのである。手応えのある「愉しさ」を感じさせる書物である。

2015/04/17 12:06

投稿元:ブクログ

http://receiver.hatenablog.com/entry/2015/04/17/120345

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