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商品説明
自閉症青年の重大犯罪の取調べと裁判はどう行なわれたのか? 自閉症裁判初のリーディングケース「浅草女子短大生(レッサーパンダ帽)殺人事件」を徹底取材。司法・教育・福祉・司法精神医学が問わずにきた重要課題を解明。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
佐藤 幹夫
- 略歴
- 〈佐藤幹夫〉1953年生まれ。國學院大學文学部卒業。批評誌『樹が陣営』主宰。フリージャーナリスト。著書に「精神科医を精神分析する」「ハンディキャップ論」など。
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紙の本
タブーに挑む渾身のルポ!
2005/03/06 21:15
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:林幸司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いわゆるレッサーパンダ帽男による浅草女子短大生殺人事件を扱っている。平均的視聴者である私には異常者による通り魔事件ぐらいにしか映っていなかったが,本書を一読して冒頭から驚かされた。男は高等養護学校を出た障害者であったが,ほとんどの新聞はこれを黙殺して中卒とした。障害者の人権を謳うべきマスメディアとしては,凶悪犯が養護学校卒では犯罪報道しにくかったのである。本書はマスメディアがタブー視した障害者による犯罪を真正面から捉え,自閉症裁判のリーディングケースとなった裁判過程を丹念に追う。
前半,男の障害を巡って精神遅滞か自閉症かを争う二人の医師の攻防は,それぞれの知識と経験を総動員して双方に説得力がある。不謹慎な言い方かもしれないが,法廷ミステリーのための拵え物ではないかと思わせるほどにスリリングで,見識の限りを尽くした学術論争の一手一手につい引き込まれてしまった。対照的なのは裁判長とのやり取りである。裁判所はつまるところ責任能力にしか関心はなく,落としどころを捕まえてほっとしている様がありありと浮かぶ,そしてこれもまたリアルである。
もとより一診断名がその人の全てを描くものではない。自閉症という診断名に全てを託して「減刑を,情状酌量を」と訴えるのが著者の狙いなら,おそらくは唯のひとりの支持も得られないだろう。本書が投げかけているのは,「人としての罪と罰を求めればこそ,障害への理解が不可欠となるのであり,それなくして責任も贖罪も十全足るものとはならないのではないか。ほんとうの意味での再犯の防止とはならないのではないか」という問いである。都合の良い人権擁護マスメディア,支援に値する人々に対象を限ってきた福祉,責任能力論争に明け暮れて治療や処遇に無頓着な司法精神医学,時間はかけるが型通りの判決に安住しがちな刑事司法,などなど既得権化した既成の枠組みに重要課題を突きつけているのである。
副島洋明,大石剛一郎両弁護士の方針如何ではこの問題提起も本作も生まれなかった。弁護の冒頭で自閉性の障害を持ち出したことは障害と福祉の専門家である佐藤氏でさえ「意外」と感じさせたほどであり,おそらくはこの不意打ちが氏に取材と著作の決心をさせたのではないか。その後三年に渡って努力の限りを尽くした弁護活動は詳細にルポされ本書の核を成す。ところがこれだけの苦労をしながらその弁護は一審判決に何ら影響を与えられず,弁護士をして「自閉症にこだわりすぎた。もっと事実関係で争うべきだった」と(一旦ではあるが)述懐させているくだりはあまりにも哀しい。外形的事実の大枠は争いようのないものであるから,弁護方針は正しく意義のあるものであった。判決はリーディングケースとならなくとも,その弁護過程は自閉症と犯罪と再犯防止という等閑視された領域に大きな一歩を残したのである。
判決にも新聞にも黙殺された弁護活動を丹念に追い,困難を極めたであろう被害者加害者双方の当事者への取材を重ねて,障害の理解による真の贖罪と再犯防止を世に問うた佐藤氏の労作の意義は大きい。ボーイフレンドの柔術大会出場応援という曇りなき青春の休日をその道行きで永遠に奪われたO.M.さんへの,難病の上に男に無心され続け心身ぼろぼろになりながら皮肉にも男のしでかした事件故に共生舎の支援に出会い最後の数ヶ月だけの幸福を享受して他界した妹への,鎮魂の書でもある。
紙の本
福祉と刑事裁判の現状
2005/04/01 23:27
16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さいとうゆう - この投稿者のレビュー一覧を見る
2001年の4月に起きた浅草女子短大生殺人事件は、容疑者がレッサーパンダの帽子をかぶっていたという奇異さから、こぞって報道各機関も取り上げたのだが、その後の展開や判決を巡って大きな反響が起こることもなかった。常軌を逸した人間の通り魔的な犯行として片付けられてしまった感さえある。
報道当初、容疑者が高等養護学校の出身者である事実はなぜか伏せられていた。殺人という重大事件において、容疑者が障害者であるという要素が、報道機関の自主規制を招くことを警視庁、報道関係者ともに危惧したのではないかと著者は勘ぐる。
犯罪を起こした者は、罰せられねばならない。この基本的な法社会のルールはとても大切だ。しかし、その罪に対する罰の妥当性、量刑設定のプロセスに関して、留意すべき問題点が本事件には多々ある。
容疑者の「殺意」をめぐる応答には矛盾があり、タクシー運転手の証言は黙殺され、取調べ警察官の先入観は取り除かれることがない。詳細な裁判の傍聴記録を通じて浮かび上がってくるのは、現行裁判制度が持つ不備、すなわち司法の非自立性であり、知的障害を抱えた人間の生き難さである。目に見えぬ傷害ゆえ福祉の支援からこぼれ、配慮なき社会に適応してゆくこともできぬ者たちが、半ば必然的に罪の領域へ足を踏み入れていく悪循環——。起きてしまった痛ましい事件から、結局何も学ぶことなく繰り返されていく愚行。これでは加害者も被害者も救われることがない。
元・養護教諭の経歴を持つ著者は、自閉症の疑いが持たれるレッサーパンダ男に寄り添いつつも、愛娘を失った被害者の家族の声にも耳を傾けていく。その一つ一つの声が採録されてゆくごとに、どこに「罪」があるのか判然としなくなる。誰が「罰」を受けるべきなのかわからなくなる。子供の罪は親の責任か? 病んだ者は隔離すればよいのか? 生涯に苦しみだけ刻み込んで死んでいった容疑者の妹に、どんな希望を与えることが可能だったか?
発せられた瞬間かき消えてしまう生の「声」を、文字でつかまえることは難しい。その声は、「沈黙」の場合さえある。固定された活字は、「声」の世界を殺してしまう。しかし、文字化しないことには、そのやり場なき怒りも悲しみも、同時代への警鐘として伝達されることがない。
《「誰の裁判なの?っていつも思う。それが腹立たしいんです」》(被害者の母の言葉)
《検察官が描いているY・Mは、どこからどう見ても動かしようのない凶悪な殺人者であり、反省などするはずのない悪質で異常な人間になっていて、私が知っているYとはとても同じ一人の人間とは思えないのです。》(元・担任教諭へのインタビュー)
加害者も被害者も、法廷においては個別性を奪われ、与えられた役割を仮構的に演じる記号的な存在者として扱われる。彼と彼女に関わったすべての人々が異和感を感じる不快なドラマ、それが今回の刑事裁判である。「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」を正義の護符のように叫ぶ者たちのすぐそばで、超えるべきハードルがどんどん高くなっている、そんな気がする。