紙の本
脱亜入欧
2005/05/26 21:10
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:稲葉 芳明 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「Jポップ」なる名称はいつ生まれたか?——本書はこの問いかけから始まる。
1988年10月に開局したFM局「J-WAVE」は、放送時間の8割が音楽(既存のFM局は5割)で、しかも洋楽しか流さないという特異の編成を行なっていた。そのJ-WAVEでも邦楽をかけて貰おう、洋楽しか流さない局からオンエアされるような曲(邦楽)はクオリティが高いと看做される筈だ——というレコード会社の思惑から「Jポップ」(=「日本のポップス」の呼称)という言葉が生まれたのが88年暮頃のことらしい。
CDプレイヤーの爆発的普及に伴い、音楽業界はレコードからCDに移行し、百万単位で売れるメガヒット(アルバム)が連発される。Jポップは、この音楽バブル期に丁度乗っかる形で人口に膾炙する。この辺の経緯は、具体的数字・データを出して経済誌ばりに詳細に分析していて、読み応え充分。
しかし、本書の最大の面白さはその先、つまり、「Jポップ」産業を支えた若者の心理的変化・社会的背景を探る章にある。80年代、中流意識が広がった結果訪れた「自己表現が大衆化する時代」との関連を論考している箇所は、社会学的分析としてとても読み応えがあった。
ぼくが一番唸ったのは、宇多田ヒカルの音楽を何故斯くも日本人が愛するのかという<問>に対する<解>である。詳しくは本書第4章を参照して頂きたいが、「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」というファンタジーが重要な要素の一つであり、それがひいては、「(英語ネイティヴが聴いて自然な歌として鑑賞に堪えるレベルの物は皆無の)擬似英語を日本人相手に歌うという奇妙な現象」を引き起こしている——と筆者は解く。ぼくなりに言い換えれば、<脱亜入欧>という呪文に、依然として日本の音楽界およびリスナー(ユーザー)は縛られているということになる。一向に国際化しないJポップのアキレス腱を、鮮やかに論じてみせて秀逸である。
Jポップ好きの人の中には不快感を覚えるかもしれないが、この音楽を客観的に捉えられる人なら、本書が提起している論題の深さと広がりを把握出切る事と思う。
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『Jポップの定義』という意味ではなく、日本の音楽は日本のビジネス界、産業にどれだけ影響を与えたか。という事が大体のメイン。
例としては、マスメディアと音楽(邦楽)の関係、アナログからデジタルへの移行と邦楽の関係、そういった事を詳しく書かれてある。そしておおよその他からの文献などか資料である。
にもかかわらず、筆者はあとがきに「日本のポピュラー音楽産業の全体像を分析的にとらえ、正確に記述した本や資料が見当たらない。」と書いてある。
しかし、たった3ページからでもこの本から与えられた情報量というのは、とかく濃いものがあった。
たったひとつ”カラオケ”や”CD”というものを語るだけでも、その歴史的背景、経緯などの資料や記事を持って来、そこで筆者が分析していた。その情報量には目を見張るものがあった。
我々、日本人が今の音楽に対して求めているもの(筆者は「ファンタジー」や「ナルシズム」などと述べている)への文献も深く頷けるものがあった。
この本を通して、音楽を商品として見ている。という日本のマーケティング状況を更に垣間見れた気がする。
個人的に「Jポップとは何か」という疑問を自分に投げかけた時、「Jポップ」というのは、需要の為に作られた音楽でしかなく、自然的にそれはマスメディアに影響された大半のリスナーにはウケがよい、そんな存在なのだと思っていた。
というのは元々「ポピュラー」を和訳すると「民衆的な、人気のある」という意味になるからだ。そういえば、Bjorkがいつかインタビューで答えたコメントに「子供でも大人でも聞けるようなポピュラー音楽でなければいけない」と言った事がある。
そうなると、国民的アイドル達がポピュラーか。というのが浮かび上がる。例として、モー娘。や浜崎あゆみやSMAPをあげよう。これらのグループ(または個人)は小学生も知っていて、更に主婦の方や、ご年配の方まで知れ渡っている。というのは、やはりレコード会社・事務所含め、圧倒的にマスメディアが大々的に宣伝している力の影響が多く、その威力はTVやタイアップ、つまり日本広告産業と深く関わってくる。それは内容の善し悪しは関係なく、「どれだけ民衆に浸透させて、音楽を買わせるか」というJポップの販売手法になってくるような気がしてならない。
そういう販売の仕方や、内容の良し悪しを一部のリスナー(自分含め)が評価した結果、「煙たがれてしまうJポップ像」が出来上がってしまっていた。
結局「Jポップとは何か」という疑問に対して答えうる返答というものは、とても漠然としており、筆者が言うように「ローカルである日本文化に生きる日本人とは何か」という新たな疑問の入り口になるのかもしれない。
「産業界でのJポップ」として言える事も筆者の文献の通り、そろそろ製品内競争が始まってもいいのだと思う。
インターネットやパソコンを通し誰でも音楽が作れ、自己主張の民衆化になった今の時代。Jポップをとりまくマスメディア達のイメージを覆し、もっともっと純粋に楽しく、ステキな音楽達が日本の中で溢れて欲しいものだ。
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Jポップを取り巻く経済と社会から論述してある。多くの音楽についての論述は、その中身から語るか、その取り巻きから社会心理的に語ることが多いが、多くの取材を通して経済的側面と社会的側面から述べられており、労作であると同時に分析に力強ささえ思える力作である。■旧来のロックシーンでのプログレやそのあまりに技巧に走った音楽に対する反抗としてのパンク現象は、社会の運動であり、また音楽の運動、現象であり、その運動や現象にプログレあるいはパンク、近くはグランジとして実態を表現できる呼び名が付けられた。■しかし、Jポップは、音楽業界が起したカテゴライズしたブームであり、その是非はともかく、仕掛けられたものであるとする。
■デジタル化の影響としてMIDI、CDであり、それらは製作面でも機械とコストダウンと時間の短縮化が現場では図られた。プレーヤーの大衆化によって、一家に一台から一人に一台へとプレーヤーが莫大に増える。楽器を弾かなくても良い音楽製作。
■TVとヒット曲のタイアップとしてのCM。CMに使われる曲は、15秒である。つまりさびの部分だけ印象的に仕上げれば、成功した曲になる可能性が多い。よって、さびの部分と全体が違和感を持った曲が時として製作されることにもなる。TVドラマの主題歌のヒットは、ドラマの終焉と同時に起こる現象、すなわち長く続かないヒット曲現象、が、興味深く具体例を出して論じられる。
■TVタイアップ現場では物議をかもさない曲の選考、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲で作ることを目指している。■広告表現と音楽表現は、最終目的がまったく違う。作者は音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されないという極端な主義を取っているものではない。
■「ココロ」の時代の音楽受容
聞き手の変わり方として、カラオケの巨大音楽メディアとして考えられている。通信カラオケによってカラオケボックスという音楽革命がされたとする。一般に、カラオケの利用客は、昼間では主婦層、午後には、学生層が多い。カラオケボックスが、「70年代が「学習社会なら、80年代は「表現社会」だ。学習という情報のインプットばかり続けていた人々は、アウトプットを求めて破裂しそうになっている。いま教養とエネルギーのある女の人達を襲っているのは、自己表現への欲求だ。その上、近代社会の私たちは個性という悪夢に取り付かれているから、誰もが表現すべき自己を持っていると信じ込んでいる。■80年代は自己表現が大衆化する時代だといえる。誰もが即席にシンガー・ソングライターになり、自分史をつづる。」「増補<私>探しゲーム」上野千鶴子
84年には、自分を中流と看做す人が、人工の81%にまで増え、「中流意識の飽和点」に達した時代でもある。二人にひとりが大学、短大、専修大学に通うようになったのは、885年だとされる。日本人が追い求めた「平等化」は、「均質化」へと変貌し、かえって「個性」化への憧れをはぐくんだ時代でもある。違いがわかる「中流」85年度の国民白書はそのように記している。
■カラオケボックスの興隆は、娯楽の多様化のひとつの形態であると同時に「均質化」した社会の「自己表現」の媒体ともなった。自己表現を通じて自分自身になろうと欲する潮流がこのあたりから始まる。自己愛的な自己表現は、「その商品を所有する自分を好きかどうかである」自分がその商品を持つこと、カラオケではその音楽を歌い上げる自分が好きかどうか、自分を是認できるかどうかが基準となる。
■日本という音楽産業のかたち
98年レコード生産額が6074億、10年で市場規模を2倍にした、「Jポップ的セールス」。2004年3773億にまで現象。これは、88年から89年の市場規模である。
■世界第二位の巨大市場としての日本。音楽の輸出はほとんどまったく無い驚嘆な国内市場に依存する日本。洋楽が、全体の1/3を占める。コンサートチケットを買い取ったり、協賛金を出したりする「アーチスト助成費」のカット。レコード会社の出す「事務所助成費」の削減が、「アーチスト」側には相当に響いた。「マネージャー一人とアルバイトで一つか二つのバンドを抱える事務所なら、それだけで食っていけるとされた資金がカットされることになる。
■インディーズの売上額は、日本レコード協会に加盟するメジャーレコード会社からの出荷額のおおよそ5.9%に相当する。
■着メロの興隆、着歌の隆盛。音楽再生機としての携帯電話の普及8466万台。
着メロの著作権使用料徴収額75億
通信カラオケの著作権使用量徴収額55億。
着メロに適した曲の条件、「耳に残るさびの部分が5秒あればいい」レーベル・モバイル社の上田正勝社長(エイベックス出身)
など、Jポップの社会現象を経済的側面からも「冷静」にみている。この手法に賛否あるかもしれない。■しかし、生活が懸かっている音楽家たちがごく一部を除いて、殆どである現状からすれば、音楽家を取り巻く状態を、また音楽の業界の姿を知っておくことも重要なのではないか、「音楽」ファンであればなお更のことではあるが・・・。■欲を言えば、「電通」の広告代理店的な上からの文化創造について、疑問を呈してももらいたかったが・・・。まあ、いいかぁ。
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タイトルどおり「Jポップ」に対する分析を行った作品である。しかし、この作品の特徴は、得てして「アーティスト分析」「楽曲分析」になりがちなこの命題に対し、「Jポップ」という誰しもが知ってそうで実はその概念がよく分からないこの言葉の定義を詳細な調査を行うことにより明確にするだけでなく、「Jポップ」を取り巻く社会的・経済的・技術的変化を詳細に記すことにより、解き明かそうとしたことにある。つまりは社会構造や文化の変化が「Jポップ」にどのような影響を与え、何をもたらしたかを示すことにより、洋楽とも古典音楽とも違う「Jポップ」なるものの特殊性や変遷を追ったものだと言えるだろう。
今作において、それを解き明かすために用いたキーワードというべきものは、「デジタル化」「テレビ」「カラオケ」「ココロ」「市場」である。それぞれの分析は皆考えさせられるものがあるが、その中でも、今の音楽の「質」や「特徴」を分析する上であまりに示唆に富んでいたのは、2章「デジタル化は何をもたらしたか」と3章「テレビとヒット曲」である。
音楽の製作現場におけるデジタル化の進行は、楽器を弾かずとも、学術的な音楽知識がなくとも、大金をかけなくとも、容易に音楽を作れる環境をもたらした。また、今まで「人間の演奏」では不可能であった音作りを可能とし、ダンス・ユーロビートといった音楽を著しく進化させもした。しかし、あらゆる演奏のミスや音程のはずしの修正、他の音源のつけたし・削除ですら容易に可能なデジタル技術による楽曲製作は、一方で、今までの音楽製作に必要不可欠であった「特殊機材」「職人的技量を持つ演奏家」「編曲者」の存在価値を相対的に低め、彼らの活動の場を奪ってしまった。その結果、「修練に修練」を重ねた演奏者同士の技術や思考のぶつかりあいが持ちえる「迫力・凄み」や「緊張感」を曲から確実に奪い去ることになるのである。さらに、日本経済の不況によって音楽業界にも広がったリストラの動きが、このことを加速させてしまう・・・。
機械技術に頼った低予算・少人数による音楽製作を促進したからである。機械技術の進化は、「想像の世界」でとどまっていた音楽の具現化ではなく、同じ音色・同じリズムパターン、同じメロを使いまわした「無個性で魅力に欠けるインスタント音楽」を安価で大量生産するのに絶大な威力を発揮した。効率と利益の追求のために・・・。
そして、もう一つ今の音楽の質を考える上で見落としてはならないことがある。それは3章で記されている「テレビタイアップ」である。
90年代から始まったタイアップ時代は、その使用曲の製作・選定に関し、レコード会社やアーティストの意向よりも、スポンサーや広告代理店の意向の方が優先される風潮を生み出した。そこで重視されるのは、使用する曲全体の完成度とかメッセージ性とかではなく、短いCM時間の中で聞き手を惹き付ける印象的なメロディーやCM商品のイメージを増大させる何かがあるかどうかである。事実、タイアップの有用性に最も早く気付いたビーイングは、サビ部分に相当する10〜30秒部分だけ録音したデモテープを数多く作���、スポンサーの要望にそった曲をいつでもすぐに提供できる体制を築き上げた。90年代前半から中盤に至るビーイングの大繁栄をもたらした大きな理由であろう。
しかし、後々にも継承されたこの手法は、曲の全体像を考えての曲作りの減少を招き、一方で「サビだけしかいいところがない」「他のメロ部分とサビメロとがかみ合っていない」楽曲を氾濫させてしまう・・・。
さらに、スポンサーのイメージ戦略や広告代理店の意向を重視するあまり、曲もアーティストも「当たり障りのない無難な路線」のものが選ばれるようになってしまい、先鋭的な雰囲気を持つ歌い手や攻撃的な楽曲・難解な楽曲が敬遠されるようになった。そして極めつけは、それら様々な風潮の積み重ねや広告業界の成果重視の体質が、過去の成功体験に引きずられた「売れるアーティスト・大手所属のアーティストをより起用して、無名なアーティストや弱小事務所のアーティスト、売れ筋ではない音楽をやっているアーティストを起用しない」とワンパターンで安直な戦略に終始してしまう流れを生み出してしまったことにある。このことが、「売れる奴は売れる」「売れない奴はいつまでたっても全く売れない」という「売上の2極化構造」だけでなく、特定少数のアーティストの人気(例えば宇多田、浜崎ら)に依存する社の体質、業界体質をももたしてしまう。もはや「タイアップなし」「人気アーティストなし」で曲を大量に売ることを自ら構造的に不可能にしてしまったのである。
ここでは、ネガティブな面だけを書いてしまったが、こういったことを含めた社会的・文化的な動きが、「Jポップ」ならではの特殊性・面白さを形成したのは間違いないだろう。ほかにも現代音楽を考える上で示唆に富んだ考察があるので、音楽好きであるのなら、一度は読んでいただきたい。
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「Jポップって、一体何?」そんな問いから始まるこの著書では、「Jポップ」という言葉は誰が考えたのか、なぜそんな言葉が生まれたのか、それは日本のポピュラー音楽をどう変えたのか、について述べられています。
「Jポップ」という言葉は、ミュージシャンが始めた音楽上の運動に名前がついたのではなく、音楽産業がマーケティングのためにつくった言葉である、という点は興味深いところ。
カラオケという消費行動についての考察、タイアップがポピュラー音楽に与えた影響など、そのどれもが身近な話題ばかりで読みやすい、かつ読み応えのある一冊。
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なかなか鋭い分析で包括的な日本の音楽産業の歴史斬った本。ただ途中、本人が音楽好きなのはわかるんだけど、軽い気持ちでこの本を手にとった人には分かりにくいんではないかと思う説明不足な表現がいくつか。しかしながら濃い〜本だった。
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日本のポップスなど海外では全く通用しないというのはもう昔からのことだが、この本でそういうことがさらにはっきりして良かった。Jポップのアーティストは、他の国では通用しないのだ、という自覚はあるのか? あるならもっと照れみたいなもんがあっていいんじゃないのか?
昔からなぜこんなものがそんなに売れるのかと不思議でしょうがなかったが
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J-POPだけでなく80年代以降の若者文化に言及している本。1,2章は海外の音楽事情(オーディオの発達など)と変わらないんじゃないかと思ったけど、後半、テレビCMとのタイアップについて読むと、J-POPの細切れ感が説明されている。海外の音楽は今でもアルバムを想定したシングルという流れになっていると思うが、日本は単発、しかもその中身まで細切れになっている、というところに私はコマーシャライズされた音楽に違和感を覚えざるを得ない。海外、洋楽はもちろんマーケットを絞るなど商業的に音楽産業が扱われることもあるが、まず第一に芸術である、という大前提が死守されていると思った。
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渋谷系についてサイエンスしたくなったんです。
てへ★
渋谷系についての記述がしっかりしてあって
原稿をかく参考になりました。
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読み助2009年2月17日(火)を参照のこと。
http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2009/02/
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ムーブメントがまずあって、カテゴライズされ、ネーミングされていくものでしょ。それをメディアが先行してしかけてその思惑通り定着してしまうって・・・。Jポップという言葉にも、その世界で「アーティスト」と自称する連中にも違和感を感じていた訳が、この本を読んで腑に落ちた。日本の音楽を取り巻く環境って淋しすぎる。
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Jポップに関しての分析が、幅広い視点から行われている。
第一章は、Jポップというカテゴリーが誕生した背景
第二章は、Jポップ誕生期ごろの音楽機器産業の変化
第三章は、ヒット曲とテレビ(ドラマやCMタイアップなど)の関係
第四章は、カラオケやバンドブームな聞き手側の変化
となっており、ここまでの分析であれば(内容はしっかりしているものの)普通のJポップ関連の本であり、特別優れているとはいえないだろう。
しかし、第五章において、海外との比較を行うことにより、日本の音楽産業の特異性を指摘している点が興味深い内容だった。
日本音楽産業の極端な国内市場依存、音楽アクセスの乏しさ、(第三章とも関連する)日本独特のマーケティング手法のあり方など、日本独自の文化が形成されているということが指摘されている。
それに引き続いて、第六章では、CDの売上減少の代わりに着メロ産業が巨大化している点や、インディーズのレコード会社が台頭してきている点などを取り上げている。
あとがきにおいて、「(日本の音楽産業が世界に開いておらず、日本列島の内側だけで孤立していることに対して)この孤立性こそが、日本のポピュラー音楽の個性であり、ひいては日本文化の特性でもあるのではないか。」とあるように、日本独自の音楽産業文化について指摘している点が、この本の醍醐味ではないだろうか。
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ちょっと妄想が過ぎるんじゃ?と思ったところもあったけど、面白かったし懐かしかったり勉強にもなった。最後の最後で、なんとなくだけどあたしの考えてることと合致したんじゃないかと思う
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ただ単にJポップの変遷を辿るだけじゃなく、日本人の消費傾向から分析してるのが面白くて悲しかった。「消費行為そのものが自己表現である」「日本人が音楽を聴くのは、その音楽が好きなのではなく、その音楽を聴いている自分が好きだから。」。Jポップそのもののことも知りたいし、自己表現としての消費、日本人の消費についても色々知りたくなりました。
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「J-POP」という言葉が いつ頃から使われ始めたのか。
いつの間にか浸透していた言葉ですが、FM局J-WAVEが放送開始された頃からのようですね。世界に通用する(しているような気がする)日本の曲という妄想(願望)から登場した言葉。
CDが売れない時代が続く中、J-POPの向かう先は何処なのか。国内市場のみの販売に特化している世界。著者は「音楽」そのもののあり方に目を向けるべきと書いていますが、現在最も売れているAKBを見ても、CDの売り方は逆の方向へ進んでいるように見える。