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商品説明
小説は、読んでいる時間のなかにしかない。読むたびに、「世界」や「人間」や「私」について、新たな問いをつくりだすもの、それが小説なのだ。誰よりも小説を愛する小説家が提示する、決定的小説論。『新潮』連載を単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
保坂 和志
- 略歴
- 〈保坂和志〉1956年山梨県生まれ。「プレーンソング」でデビュー。「草の上の朝食」で野間文芸新人賞、「この人の閾」で芥川賞、「季節の記憶」で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。
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紙の本
リアル。痛みに敏感であること。
2005/07/12 02:54
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
「この連載の中で私は、小説を書く側から他の二つ(=「小説について語ること」と「小説を読むこと」)を、いわば従属させようとしている。理由は、それが最も生産的だと思うからだ。『生産的』とは、小説について考えるべきことが生み出されるという意味だ。私はいまのところ、小説を書く側にふさわしい言葉を全然獲得できてはいないけれど、小説を書くために使っている思考の流れ----それは小説の中に書かれることはない----がどういうものかは読者も少し知ることができるだろう。」
ここのところ最も強烈な悪口として人口に膾炙している日本語は「痛い」という言葉ではないかと思うのだが、暇つぶしに2chで保坂和志に関するスレッドを覗いてみたところかなりとんでもないことになっており、どうやら保坂批判の言葉というのは、ようするに「あいつは痛い」ということに集約されるように感じた。で、この「痛い」という言葉、たぶん昨今の世相を反映する言葉なのであろうから、安易にそれを批判したり否定したりすると、「おまえこそ、すっげえ痛えよ!」となりかねない。でも、だからこそそこがポイントなのかも、と思ったりもする。
以前どこかで阿部和重が保坂和志にたいして、「保坂さんは人が悪いからなァ」というふうな発言をしていて、たしかにそんな気がすると思った覚えがある。いま、その過去の印象を自己分析的にまとめてみるなら、それはこんな感じになりそうだ。
1)保坂和志の小説を読みつづけているとだんだん息苦しくなってくることが多い。
2)それは要するに現実のリアルと小説のリアルを取り違えていた自分に気づくということであるらしい。そういう気づきというのは、なかなか受け容れがたいものである。
3)保坂和志の小説の「リアル」が(たぶん意図的に)現実の「リアル」そっくりの外観を呈しているために、(僕は)思い通りにならない現実の「リアル」の代償をその小説に求めてしまう。たとえば「なにも事件が起こらない」ということ、そのことを「実際、人生ってそういうものよね」というふうなこと(諦念?)を再確認するための補強材料として読んでしまう……これが、息苦しさの印象につながっていたのだと思う。
「息苦しさ」を感じたことは、たぶん間違っていなかったんだろうと思う。その原因と思しきことを考えてみて、「リアル」ということの捉え方が変ったように感じるからだ。でも、リアルっていうのは何か、と今の自分に問いかけても、どうにもうまく答えられそうにない。というか、そもそも「リアル」というのは、(何かが)変ったということに後から気づくというかたちでしか捉えられないものなのかもしれない。というふうなことを思う。そして小説というのは、そういうことを巡って書かれる(或いは読まれる)ものであるようにも思う。
「それは何かであるが、それが何であるのかは知りえない」、そんな何かをめぐる「書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物」(←「書き手と読者との休みないかけひきの産物」ではなく)こそが小説なのである、と保坂和志は書いている。(これは安易なテクスト論的批評への批判の言葉でもあるのだろう。)
で、この本が『書きあぐねている人のための小説入門』などに比べて新しい(というか、深い)点の一つは、ラカンの理論を著者なりにしっかり咀嚼したうえで(ラカンについては以前の著書でも触れられてはいたが、本書ではラカン派の新宮一成の言葉などを引用しつつ、より突っ込んだ考察がなされている)、精神分析的なことがらを超えるものとしての小説について考え、書かれていることにあるのだろうと思う。
「痛み」に敏感であること、それは「痛さ」として批判すべきものではない。僕はそう思います。(蛇足?)
紙の本
読むことの自由
2005/07/10 16:18
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は「新潮」連載の“小説をめぐって”の第一期が完結して単行本になったのです。第一期だから第二期があり延々と不測の事態が起こらない限り“小説の自由”を目指して書き継ぐ未完の大作です。一読者としては先に結論ありの読解ではなく、作者とともに“読むこと”を要請される。
≪アウグスティヌスの「思考を組み立てる手順」を使って書いたら、非常に強い強度を持った小説を書きうるのではないか≫と「13 散文性の極致」に書いていますが、それが本書の骨格とも言える。
作者の小説観は「11 病的な想像力でない小説」について青木淳悟の『クレーターのほとりで』をテキストに検証していく。そのプロセス、語り口に保坂和志の面目が横溢する。だから「この小説は久し振りに登場した、まさに文学や芸術によってしかあらわされることのない想像力による小説だと言える」とした結語を知識として入力したところで意味はない。
そこへ行き着くプロセス、同じ時間を共有して考えて行く。そのことが大事なんだと彼は言い募る。そうすると、読者のひとりとして、単なる観客としての読者どころか消費者としての立ち位置は許せない。“書くことの”の軌跡を“読むこと”で経験して行く当事者としての読解が要請される。「小説は読む行為の中にしかない」
恐らく僕が本書を読了してこんな風に一応レビューを書くことは“書かれた書評”は『小説の自由』というものとは全く別ものであり、もし『小説の自由』という本の精神っていうか、そのものが読み手の裡に立ち顕れ揺さぶるなら、その読む時間の中でしか、本書そのものに触れることができない。
まあ、だから僕のレビューを読むよりは、直に本書を読んで貰った方が間違いないとも言える。(そんな無責任な言い方でレビュー投稿するのも気がひけますが)、レビューだけでなくトラックバック機能を利用して、マイ・ブログで本書に関する僕の繰言が参照できるようになっています。
言葉で伝わらないものを小説家は何とか言葉で伝えようとする。その営為は迂回と道草で一見ノンシャラな極楽トンボに見えなくもなく、改行が殆どないくねくねとした文体、肯定文でなく否定文の連鎖で回路は入り組んでいますが、それもこれも、何とか読み手が早わかりの思考停止をしないように、ヘタな意味づけをして自分に引き寄せて解釈する自分の居場所から出たくない読者に「世界は広いよ、飛び出せよ」と小説の力で持って揺さぶろうとしているのでしょう。
彼の言う“リアリティ”、“現前化”はそういう「1 第三の領域」に属するもので、単なる事実/虚構、本当/嘘を越えたものである。≪小説の外にある意味を持ち込むことや形骸化した言葉の使用法や思考の組み立てに抵抗することによって、アウグスティヌスやカフカやベケットのように世界像が産出される。≫
そんな乗り物だからこそ読み手をどこかへ連れて行ってくれる。離陸したまま帰れなくなるかもしれないが、当事者として作家と読者は同じ時間を共有する。
だからこそ彼は「リアリティを失わないでなおかつ救済されるように小説が書けないか」と誠実に「徹底した日向性」で持って、“書くこと”に挑戦しているんでしょう。書いたものが小説かどうかというカテゴリーはどうでもいい。そういった「4 表現 現前するもの」が産出できたら、それはそれとして、「散文」(小説)と呼ぶのでしょう。
千人印の歩行器
紙の本
私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな
2005/09/10 17:35
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
『小説の自由』と『カンバセイション・ピース』は姉妹編である。本の造りとデザインがそっくりなのだ。だからというわけではないが、この二冊の書物の読後感(というより読中感)は驚くほど似ている。保坂和志の言葉を借りるならば、それぞれを読んでいる時間の中に立ち上がっているもの、すなわち現前しているものが家族的に類似しているのだ。
朝日新聞に高橋源一郎が『小説の自由』の書評を書いていた。いわく、小説とはものを考えるための一つの優れたやり方である。つまり小説とは「小説的思考」によって書かれたもののことだ。では「小説的思考」とは何か。それは実のところ『小説の自由』というこの本の中に流れている思考のことなのである。だから当然この『小説の自由』もまた小説である。
私は自らの実感をもって、この魅惑的な考えに同意する。ただ、「小説的思考」もまた小説を読んでいる(書いている)時間の中にしかない。つまり小説世界の中に立ち上がっているもの、現前しているものこそが「小説的思考」そのものなのである。そうだとしたら、そのような「小説的思考」によって(小説とは何かを考える小説を)書くということはいったい誰がどうやって何を書くことなのだろう。(この困惑はちょうど、すでに立ち上がっている「意識」を使って「意識とは何か」を考えるとは、何がどうやって何を考えることなのかを問う時のそれに似ている。)
また高橋源一郎は、「小説的思考」が小説が生まれる以前から存在したという保坂和志の魅惑的な考えにぼくも同意すると書いている。「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」によって書かれた書物とは最終章「13 散文性の極致」(本書全体の集大成ともいえる章で、「4 表現、現前するもの」とあわせて読むと『小説の自由』のくねくねとした骨格はほぼ了解できる)に出てくるアウグスティヌスの『告白』のことだ。
「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」が「小説が死んだ後にも存在する小説的思考」もしくは「小説という概念とはいささかもかかわらない小説的思考」はては「そもそも書かれることのない(なかった)小説的思考」(純粋小説的思考)といったものまで含意するとしたら、それは魅惑的な考えだと私も思う。
※
『小説の自由』は「小説をまず書き手の側に取り戻すために」書かれた。しかし、このことと「小説は読んでいる時間の中にしかない」という本書の基本テーゼとは一見食い違っている。小説の「書き手の側」と小説を「読んでいる時間」とは別の次元に属することだからだ。しかし実はそこに矛盾はない。なぜなら「小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる」からである。つまり「小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ」。
これに対して「批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい」。さらに引用を続けると、「小説は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ小説自身によってのみ根拠づけられる圧倒的な主語なのだ。/本当の自由とはここにある」。
ここまで書かれたらもう言葉はない。要は「私を読め、私を現前させよ、私を語るな、私を解釈するな」と保坂和志は言っている。この本を、というよりこの「小説」を「書評」などするなということだ。ひたすら読みつづけ、「現前性の感触」に身を浸すか、それとも「この保坂和志という他者の言葉は私(読者)の言葉である」というところまで引用しつくすか。その二つしか途はない。
★不連続な読書日記