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紙の本
グロテスクな教養 (ちくま新書)
著者 高田 里惠子 (著)
「教養」は、誰の、どんな欲望によって求められて(非難されて)きたのか? 知的マゾヒズムを刺激しつつ、一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪で少しさわやかな教養...
グロテスクな教養 (ちくま新書)
グロテスクな教養
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商品説明
「教養」は、誰の、どんな欲望によって求められて(非難されて)きたのか? 知的マゾヒズムを刺激しつつ、一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪で少しさわやかな教養論論!【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
高田 里惠子
- 略歴
- 〈高田里惠子〉1958年神奈川県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。現在、桃山学院大学教授。著書に「文学部をめぐる病い」などがある。
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紙の本
進学高校で「勉強してないごっこ」がおきる理由。この「ごっこ」に普通の受験秀才が巻き込まれると、かなりの確率で人生を棒に振る危険があるから、普通の人は一心不乱に合格目指して勉強しなさい!
2006/11/12 09:44
18人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
まず最初に断っておく。本書は基本的に「出自を問わない平等な筆記試験によって選ばれた受験の勝者たち」向けに書かれた本であり、いわゆる進学校を経て東大・京大・一橋大あたりに入学し卒業した人「だけ」に向けて書かれた本であるということだ。通常だと「早稲田・慶應」あたりの一流私大も「受験の勝者たち」に入ると私は思うが、この本では、どうもはいらない感じがする。それほど本書は、ある意味で「いやったらしい(庄司薫)」視点で書かれているからだ。私は受験戦争を勝ち抜き東京都立の進学高校を経て一流国立大学を無事卒業したわけだが、実は高校受験の段階で早稲田高等学院と慶應附属をすべっている。だから都立の進学高校に無事入学できたとき、同じクラスに早稲田高等学院や慶應附属に合格しておきながら、それらの学校を蹴った人たちがごろごろいることを知った時は正直驚愕した。早稲田や慶應を蹴るということは、当然進学する大学は東大か一橋でなければならないからだ(もっとも定員400人の学校で早稲田200人、慶應100人くらいの合格者を出していた高校だったんで、「早稲田、慶應なら目をつぶっても入れるな」くらいには私も密かに思ってはいたのだが)。更に驚愕したのは、そいつらがやたらと「自分は如何に勉強していないか」を自慢しあうようになったことである。やれ哲学書や教養書(丸山真男や高橋和己、あるいは柴田翔の本は定番だった)を読んでいるかをひけらかし、自分が如何に「遊び」に通じているかをひけらかしあう。昨日はラジオの深夜放送を聴いているうちに徹夜しただの、お笑い番組や歌番組を見たのという話がクラスで延々と続いていた。麻雀も高校のうちから流行り始めていた。高校受験で滑るという屈辱を経験した私はこうした風潮になじめず、「もう二度とあの屈辱は味わいたくない」と現役合格を目指し必死になって勉強していたのだが、私のようなクラブ活動もせず勉強ばかりする生徒は「帰宅部生」として揶揄されていた。どうしてこんな現象がおきるのか、なぜみんな一心不乱に一緒に受験勉強に励まないのか不思議でならなかったが本書を読んでこうした積年の疑問が氷解した。要するに受験戦争の勝者(実際には高校に受かっただけでは勝者ではなく、一流大学に合格しない限り勝利は確定しないのだが)は「自分がたんなる秀才、たんなる勉強ができるだけの優等生でないこと」(つまり自分はもっともっとすごいスーパーエリートであり、すごい人間であること)を必死になってアピールしわかってもらおうとしていたのだ。大学合格後聞いた話では同じことは開成でも麻布でもあり、特に麻布はひどいということが分かった。しかしこうした「勉強してないごっこ」の風潮は被害者も出す。実は、「ごっこ」のプレーヤー達の多くはウソツキか二重人格者で、家に帰った途端必死になって勉強したりしているのである。この切り替えが上手く出来ない人たちは見事なまでに成績が急降下していく。冒頭に触れた旧友もその口で、慶應附属を蹴った男は一浪して慶應に進学したのである。
本書の評価の分岐点は第4章「女、教養と階級が交わる場所」をどうとらえるかにかかっているような気がする。著者はどうも「受験戦争の勝者たる高学歴女性は結婚には不利で、結婚戦線での勝利者は上流階級のお嬢様たち」と言いたいようだが、これはちょっとピントがはずれているように思われる。高学歴だろうが金持ちの娘だろうが結婚する人は結婚するし出来ない人は出来ないようにしか私には思えないからだ。それに結婚で結構大事なのは夫と妻の金銭感覚と教育観で、夫婦の出身階級や学歴があまりにはなれていると、それはかなりの確率で夫婦喧嘩の種になり、しばしば深刻な溝を生む原因になるように思われる。結婚という、プライベートな問題を学歴と強引に結びつけようとした著者の試みは失敗だったのではないか。
紙の本
女にもてないことは悪いこと?
2005/12/21 17:23
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桑畑三十郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
東京大学の佐藤俊樹助教授によると、東大キャンパスから、もっさりした「ガリ勉」が消えたそうだ。お勉強ができるだけの、たんなる受験優等生はいまや女にもてないとか。その理由はコミュニケーション能力の欠如にあるらしい。
また京都大学では、「お勉強家で、話題がこむずかしく、つきあいづらい」学生は「いか京」(いかにも京大生)と呼ばれ、これまた女にもてないらしい。
ここで本書の著者は、女ごときにもてる、もてないということが、そんなに大事なことかと疑問を呈する。これを男が書くと、ただのもてないやつの僻みだと聞こえるが、著者は女性だけに、その後の議論の展開には説得力がある。実際に今のエリート学生に読んでもらいたい。ただ本書のコンセプトは、教養や教養主義をめぐるすっきりしない諸言説そのものを呈示し、「教養言説の展覧会」を試みることにある。だからはっきりと結論が出ているわけではない。でも著者の言わんとするところはよく考えればわかるであろう。
「すこし長いあとがき」によると、出版にあたって編集部の人に、一冊くらいは、読んで「いやーな気持ち」になるような新書があってもいいでしょうと言われたそうだ。しかし、コミュニケーション能力が欠如し、女にもてない学生時代を送った私は、読み終わってけっこうすっきりした気分になりましたぞ。
紙の本
どんなに美しい魚でも、生きた魚としての存在には水が必要
2007/06/22 16:49
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:レム - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本を読むと、まだ学歴という尺度でしか教育程度を表現できない日本の知的育成環境の貧しさをひしと感ずる。
教養には確たる定義がないそうだ。ただ、教養の定義を考えるときのキーワードがある。重要なことは、自己を作り上げるのはほかならぬ自分自身であり、かついかに生くべきかを考え決定するのも自分自身という認識なのだということである。この本の根底には終始このキーワードが隠されている。
著者は、本書で教養言説の展覧会を試みており、多数の文献からの引用を並べている。問題意識があるほどに、この夥しい文の中から教養の本来のあり方を考えさせるポイントがいくつも見出せる。
教養論が盛んだった1930年代の文章も数多く引用しているが、今日これを読んでも議論展開に何ら古さを感じない。それどころか、現在の我々に直接届く言葉が次々に綴られていることに驚く。哲学者・古在由重によると、「ドイツの高学歴の学生が、ナチス政権確立以前にファシズムへの動向をしめしていた。」とある。1932年の文であるが、今日でもカルト集団に身を投じたり、あるいは社会問題を引き起こしたりする「高学歴」の人達が思い起こされる。注目したいのは、当時の学生も、ある「社会文化的条件」におかれていたと古在が述べている点である。この「社会文化的条件」は、社会経済であったり、時代背景であったり、種々の社会制度レベルであったりもするだろう。他の引用からもこの「条件」、言い換えると「教養の活かされる場」が非常に重要であることを感ずる。
また、教養を論ずるときの代替指標としての教育にも視点が向けられている。19世紀に開国した日本が帝国大学を作るときにドイツから輸入したのは、大学の理念ではなく国家が官僚や人材を養成するという考え方のみであったことが述べられているが、まさに至言である。脱亜入欧とまで叫ばれたその時代にあっては、これは一時的に必要な判断であったかもしれないが、恐るべきことに日本は今日に至るまでそのドグマから抜け出せていないことである。まして、国家運営への影響力が官僚から民間へと大きくシフトし、社会が多様化している現代においては、これはまったくもって時代錯誤の教育システムとなってしまっている。そのような前提を疑いもせずに教育論を進めても無理が生じるだけで、結局は論点が学校(制度)という現場にしか戻れないだろう。
本来、教養は開かれた「場」を活用の領域として必要とするはずである。にもかかわらず、このような教育論の背景があるために、一向に教養を高める社会ができないのではないだろうか。
どうも教養があるというのは、個人的な学問レベルや教養の高さだけに限定した評価ではないようだ。本書から、教養の素因を育む教育制度、自己を考えつつ周囲とコミュニケーションして影響を与える本人、そしてそのような場を提供できる能力ある社会、という全体的な存在と構成が組み合って初めて成り立つ評価なのではないかと読み取れる。
ここで、教養を魚にたとえるならば、この魚がいかあるべきかをいくら考えても、色や形、尾ひれの大きさだけに注目するだけでは、結局はグロテスクな姿への議論となってしまってしまう。これが今日の教育論であり、そして教養への考え方の姿なのではないだろうか。どんなに美しい魚でも、生きた魚としての存在には水が必要であるように、教養には育み活かされる場が必要であり、そこを重要な論点とすることが必要なのだ。
教養という名の美しい魚は、社会文化的な評価の場という水を得てやっと泳ぐことができ、そして初めて周囲の人々と社会に良い変化を自然にもたらすこととなるのだろう。