「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
現代文学の最前線を担う作家は、なぜ論争を挑み、闘わなければならなかったのか。論争関係の文章や対談などを収録、書き下ろしを付して、文学、そして批評とは何か、書くことと読むことの倫理を問いつつ新たな文学観をひらく。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
笙野 頼子
- 略歴
- 〈笙野頼子〉1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。「極楽」で群像新人文学賞、「なにもしてない」で野間文芸新人賞、「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞等、数々の賞を受賞。
関連キーワード
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
私的言語の戦闘的保持
2006/01/24 19:24
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
十四年にわたる「純文学論争」にまつわる経緯をまとめ、その間に書かれた文章を(書き下ろし含め)四百ページ収録する名実共に論争のまとめ本(なお、まだ一冊分ほどの未収録原稿があるらしい)。「ドン・キホーテの「論争」」では、論争相手が誰も反論しなかったため、自発的に論争終結を宣言したが、この本ではそれ以降の「群像」追放事件などの舞台裏を暴露しつつ、「害虫」(本文中での表現)大塚英志批判の数々にはじまり、最終的には柄谷行人的文学観に対するオルタナティブを提起する、奥の深い一冊だ。
この本は面白い以上に、笙野頼子の小説エッセイにかかわりなく、いったい何が彼女を動かしているのかを如実に示す一冊だ。小説も、このような論争も、笙野頼子のなかでは何ものかとの“戦い”という意味では同一線上にならぶものなんだと思う。その意味で、論争などしていないで小説に専念して欲しい、というような物言いは、笙野頼子に対しては的はずれだ。
彼女の文業のおよそすべてを「戦いの記録」と呼びうる、と以前書いた。明らかに戦闘的な「レストレス・ドリーム」を挙げるまでもなく、最初期の頃から戦いという契機は笙野作品にはつねに伏流している。というより、笙野頼子が書くということはすなわち戦うということだ。何に対して戦うのかと言うと、乱暴に単純化すれば、自己自身が存在しているということそのものを隠蔽しようとするものに対する戦いだ。
それは女性差別的な日本語という言語そのものだったり、マスコミ言語というものが適当な物語をでっち上げてしまうことで目立たない少数者がいなかったことにされてしまう事態だったり、最近の文学をろくに読みもしないで、最近の文学はつまらない、芥川賞などなくしてしまえ、などと酒飲み話のような戯言を雑誌や新聞で喋ったり書き散らかしたりするような連中がとりあえず敵だ。まあ、マスコミなどが流布するわかりやすいがゆえに人口に膾炙しやすく、それでいて個々の人間の営みは無視されてしまう、そういう状況に笙野は憤っている。
純文学論争を笙野が起こさなければならなかったのは、無責任かつ夜郎自大な抽象的マスコミ物語的文学論がやすやすと人々に受け入れられる事によって、個々人の地味だが着実な読者を持つだろう営為が押し流されて見えなくされてしまうという危機を感じたからだろう。笙野が護ろうとするものが“文壇”などではなく、“文士の森”という言葉を使って表現されているのは、そのような個々人の、本質的には孤独な作業の場をイメージして使っているからだろう。抗戦、という言葉づかいはそのような実感から出てくるものだ。
そういった、個々人を抑圧する状況に対して、「私」という具体性から言葉を発信し、つねにそこには多数者に対するマイノリティが存在するのだという主張を行うこと。笙野が自身の文学について述べる、私的言語の戦闘的保持、というフレーズは、そういった声を上げる場所そのものの基盤を確保する戦略だ。その意味で、論争も小説もつまりはおなじ一つのことを企図している。
この本は、そんな笙野頼子の戦いのエッセイにおける記録だ。大塚英志批判にはじまり、様々な文章が収められており、対談座談、文学賞選評などなど、笙野頼子が文学にどうかかわったかがかなり見通せるようになっている。論争に興味があるものの雑誌を追っていなくてどうなっているかわからない、という笙野読者はもちろん必読だが、一文学者の「戦いの記録」として非常に面白い一冊だ。
補足記事
「壁の中」から
紙の本
本物の戦いとはこれである。「引き受けた」と言うだけでは駄目なのだ。
2005/11/03 20:43
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:じゅらいドらい - この投稿者のレビュー一覧を見る
あなた、「文学」をどう思います? 文学なんて(笑)、今時読んでられねーよ、とか思っていません? 私は思ってました。文学とエンタメの垣根なんてねーよ、と。しかしあるのです。それはエンタメをもしくは文学のどちらかを下に見ているのではなく、純文学とジャンル小説の違いはあるのです。だからこそ文学だけを攻撃してくる者がいる。「今の文学に価値はない」と。「これだけミステリが売れてるのだから純文学は駄目だ」「漫画で儲けたお金で純文学はやっていけている」そんな言説お目にしたことはないでしょうか。そんな低レベルな意見言う人がいるの、とお思いの方は正常です。そう、当事者意識の無い、何でお前がそんな出版社や業界を代表した意見を言うのだという意見が、今、いえ昔からずっと今に至るまで、文学界隈では溢れているのです。そしてそう言う者はもともと文学に関係なく、どっかからわいて出てきたようなおかしな妖怪みたいな者ばかり。そんなくだらない言葉に、正直に立ち向かっては立ち向かった者のほうが愚か者に見えてしまう。だから今までそんな言動を糾弾した作家は滅多にいませんでした。笙野頼子氏はひとり妖怪変化どもに真正面から戦いをいどみました。そして案の定、愚か者、被害妄想、ヒステリー女と多くの人から(主に評論家)から馬鹿にされました。それはおかしい、絶対おかしいと笙野氏は何年も作家の武器である文章で戦いつづけました。やっと、最近になって、笙野氏が正しいのであると愚かな愚民達(私も含めて)は気付き始めました。ここに、一人で戦いつづけた作家の戦歴が刻み記されています。それでも、まだこの戦いがあったことさえ知らない者のほうが圧倒的に多いのです。必死で男達(そう、評論家の多くは男であり、笙野氏が女であることはこの戦いにおいて重要な意味があります)は黙殺、弾圧、隠滅しようとしています。この本を読んだ者は、今までの自分の愚かさに反省することしきりでしょう。そして妖怪どもの馬鹿っぷりに大笑いできること確実です。なにせ笙野氏は本物の作家なのですから、文章に芸があります。読むことに楽しさがあります。この本ひとつで芸術として昇華させてしまっている。すごい。