紙の本
からだから染み出た軽やかな言葉たち。
2005/08/01 15:06
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:湖衣 - この投稿者のレビュー一覧を見る
常にからだと接しているふたりの対談者の言葉は、まさしく身体感覚から出ているもので、すんなり心身に染み込む感じがする。
「安心は空間を通して伝染する」さらに、「取り越し苦労は傲慢である」
という言葉が心に刺さった。後者、取り越し苦労というのは今現在の時点の自分から見た、未来のマイナスの面だけを寄せ集めて作り上げているもの、という意味の文には、考えすぎの私なので肩の力を抜くことができた。明日の自分はどうなるかわからない。だったらいまからじたばたしてできないと憂鬱になるより、その場になって考えればよいではないか、そういう意図だと思う。
他にも理屈だけの人生訓ではなくて、身体から生まれでた感覚的なことばが満載。頭でわかることに行き詰まっているひと、体で物事を感じていきたい人にぜひお勧めである。
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内容的には反感や反発をくらってしまうようなところ(じゃぁ自分で考えろや、やってみないとわからないでしょ、みたいな意見)が多いかもしれませんが、確かにここら辺は、今悩みのまっただなかにある人には一番必要なことを話しています。また仕事に対する考え方(自分でドアをこじあけるのではなくむこうからドアがひらく、資格などではなく社会で何を貢献できるか、など)というのは多くの仕事で悩んでいる人にはない発想です。目からウロコを落としてみたい人におすすめ。
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地球の軸を取り入れる、アラインメント。
現実は小説よりも奇なり。
科学・フレームワークは永遠に一時的な仮説。
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帯背
からだに聞けば、すべてうまくいく
帯裏
「エゴイスティックに生きなければいけない、というとんでもない結論になりました(笑)」(本書p215参照)
第一章 今の自分を肯定する
第二章 解釈するのは頭じゃない
第三章 感動体験すればいい
第四章 チャンスはつかむものではない、やってくるものである
第五章 快適に生きるには
第六章 現実から出発しよう
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結構面白かったです。
やっぱり私って考えが中年以上なんだなぁと思わずに居られませんでした(笑)
だから文字上では年齢がかなり上、という風に見られているんでしょう。
人は私に聞きます。
「どうして自分から苦労するようなことをするの?」
「波瀾万丈な人生だね。どうして?」
知るか、と言いたいです。
私はむしろ平凡な人生を望んでいます。好きで目立とうとしているわけでもなく、普通に生きているつもりで生きていったら、結局波瀾万丈な人生を送っていた、という結論になっちゃっているだけなんですよね。
「私も波瀾万丈な人生、ちょっとでもいいから送ってみたい。私の人生なんて平凡だし」
と言われた時は逆に「あなたのその静かな人生が羨ましい」と心の中で思ったものです。
でも平凡な人生って何? と考えた時、恐らく私が考える平凡な人生というのは、
・両親が揃っている、多少問題を抱えつつも何とか家族としてやっていける。
・教育は普通に公立高校まで行って、とりあえず大学も卒業した。
・とりあえずどこかの会社に入社出来た。
・普通に彼氏彼女を作って、普通に恋愛。
・価値観が一致してとりあえず結婚も出来て子供も縁が出来たから産まれた。
……そんなもんでしょうか。
特に大きな事をしたわけでもなく、とりあえずでも出来る人生のポイントを通過しただけの人生ですかね。
これに当てはまった方、素晴らしい。
平凡こそが実は難しいっていうのに!
何故人は自分の人生の事を平凡平凡っていうんでしょう? それこそが不思議です。
それぞれドラマチックな事が起きているはずなのに、どうして大きな挫折、大きな変化を経験した人ばかり注視して「波瀾万丈」と言えるんだろう、と思います。
確かに私の人生は他の人に比べたら壮絶かもしれません。普通有り得ないだろっていうくらいの出来事を経験してきましたから(笑)
それは私から仕掛けたわけではなく、縁として向こうから仕掛けてきたんですからしょうがないじゃないですか~。
なんか長くなったので、割愛します。
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ぐっと感覚を研ぎ澄まさせてくれるような本。
現実は理論よりずっと複雑なものだ。
right place right time
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身体論、というか体に関する考察、または、考えすぎてないで何でもやってみたほうがいい、みたいな意見は面白く、元気が出る感じもしてよかった。
でもそのほかのことで気になることがちらほら…。
「誰でもいいから結婚してみればいい」
というのは
まあ、一理はあるな〜
と思えるけど、
「男尊女卑は昔の頭のいい女性が考えたシステムだ」
というのはさすがに違う!と思いました。
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以前から内田氏の文章にちょくちょく出てきていた池上氏との対談本。
池上氏のロンを聞いているとかなり直感の人なのだろうなと思う。天才的で理論はあとづけにしている感じ。
この書籍の内容は難しいことは書いてなくて、未来のことほどわからないことはないのだからそれを考えすぎて悩むのはつまらないこと、考えすぎずにできることをやんなさいと、大御所二人が太鼓判を押してくれています。
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内田樹さんの武道・身体に関する本にはまっている。
これは三軸修正法という治療を提唱する治療家の人との対談。
武道や治療などの身体の使い方からコミュニケーション、
現代社会での生き方、考え方全般に話がわたっている。
しかも話題にのぼる事柄が幅広くて、どれもとにかく説得力がある
・・厳しい意見も多々だけど。
たとえば身体のことでへぇーと思ったのは「アラインメント」という言葉。
武道では稽古前に合掌するが、それは正しいとき、正しい場所に、
正しい仕方でいることを目指し断定して、整えるための照準を決めること。
人間関係でも同じ、組織のアラインが身体で直感的にわかる人は
自分の立ち位置とすべきことがわかるもの。
身体治療のことで面白かったのは、
いろんな治療法に共通することは「さっきじゃない状態」をするってことだとか。
「相手のことを考える」よりも「自分が心地よくあり、それを相手に伝える」ことで結果相手のためになる、とか。
あとは、「ご縁」やチャンスの捉え方とか、気付くべきものごとに気付き、悩まず生きるための考え方など。
なかなか凡人には簡単にはできずらいぞ!と思うところもありながら、
お二人がただすごいだけじゃなく思い切り生きている勢いも手伝って、
力になる言葉になっているような気がする。
視点をちょっと変えるだけで日常の捉え方を変えられるヒントが、たくさんもらえる。
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著者の一人、池上六朗さんは三軸修正法という治療法を提唱している治療家だとか。この本では治療の方法などは紹介していないけれど、僕がこの本から感じたのは、人間の細胞はそれ同志がつながっていて、しかも大半が水分なのに重力にさからって一つの組織を作っているという現実を受け止めて、ではどういう状態が自然に心地よくって逆にそうでない状態が辛いのか、それが治療の原点である、ということだったと思う。
治療法はいろいろあるのでどれが良いとは言えないが、僕が整体を受けた後にいつも思うのは、両足は地面をしっかりと押さえ、地球からの反作用によってエネルギーを感じるようだし、ボール・トレーニングで自分の重心を意識する作業をすると、体のバランスが良くなるためかやはりエネルギーを感じることが多い。これらと同じ原理なのかもしれない・・・。
もう一人の著者、大学教授の内田樹さんといろいろなテーマについて対談した様子がこの本。テーマは治療法に限らない。精神、生き方、考え方などの対談は面白い。
残念ながらこの方々の著書や仕事に触れる機会がなかったので、いきなり対談集を読んでもピンとこないところがたくさんある。知っていたら楽しめたであろう面白さの半分しか味わえなかった中でも、これは面白いと思ったのが仕事についての意見。
社会の承認を求めて必死になる今の人たちについての苦言がある。
* 『社会の承認を求めていると言いながら、社会のことなんかぜんぜん見ていないんですよね。』
* 『きみが取ろうとしているそのナントカ士という資格は、いったい世の中にどのような需要があって存在し、どのような社会的寄与を果たすべきもので、だれを喜ばせるものであって、どういう経緯で発生してきて、今何人くらい有資格者がいて、将来的な需要の推移の見通しはどうであるのか・・・というようなことを訊くと、絶句しちゃうんですよ。』
* 『社会的認知を求めるということが全部エゴイスティックな動機付けの語法でしか語られていない。その能力を使ってどんなサービスをして他人を喜ばせて、世の中によいことを積み増しできるのだろうかということを本気で考えている人は、「キャリアパス」なんてことを口走りませんよ。』
資格だけではない、社内の昇進、社内の競争、より大きな仕事、より大きな責任。これらは会社で生きる以上は避けられない。仕事の動機付けとしては実に強力なものだが、これらに囚われすぎてしまうと、承認は受けるけれど社会への貢献がおざなりになってしまう、ということなのだろう。
『つまりはすべてに対して、自分で何とかするよりしょうがない。(中略)自分は何ができるのか、というのは自分で決めるよりしょうがないと思うんですよ。』
仕事を選ぶときに「他の人からどう見られよう」とか、「自分の年齢はこうだからこれくらいはやれるようになりたい」、と考えるべきではないのだろう。現実はそんなに簡単ではない。仕事が選べないことも多い。しかし、いつかこんなことをやりたい、と念じて準備をするということが、チャンスが来たときに報われるのだろう。
参考(ボクのブログ):http://d.hatena.ne.jp/ninja_hattorikun/20090824
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対談ということですが、池上六朗さんの発言が少なかったのが残念。
内田樹さんの発言は鋭いなあ、と思いつつもなんとなく違うなあ、という感覚が少しある。
とはいえ内容も濃く読み応えがあり、非常に面白かったです。
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おじさんが好きそうな本のなかで、
唯一何度も読みかえしてしまう不思議な一冊。
このひとたち、ただの偉そうな知識人ではないような。
なんだかおそろしい柔術、いや呪術師みたい・・。
引越でなくしたと思ってもう一冊買ったら
ひょっこり出てきやがった!
ので、古いほうはお風呂で読んでます。
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内田氏の本は、なぜか読み通せない。難しい本であることもあるが、話のたとえに興味を失い面倒くさくなってしまうのだ。この本は、彼の発想の仕方が種明かしされているようで、読み方もわかってきたようだ。対話の相手、池上氏のことは、最後まで人柄も仕事もつかめないままであったが。でも、思わぬ発想のヒントがちりばめられて、それなりに刺激的ではあった。ある時、すべてが見通せることがある。非言語的であってもその場の人々に伝わってしまうことの確かさへの共感。以上二つが収穫。最後は、老人の繰言っぽくなっている。
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ぼくは、わりに、決まりきった生活が平気な人間だと思う。
毎朝、早朝、同じような時間におきだして、同じようなラジオ番組を聴き、その番組の天気予報のコーナーあたりで、ごそごそ寝床から出て、大きく伸びをして、冷たい水を一杯飲み、日経新聞を片手に、トイレに入り、ざあっと紙面を眺める。
そして、野菜中心の朝ごはんをいただいて、身づくろいをして、家を出る。
地下鉄に乗ると、まだ朝早いので、そんなに混雑してはいない。
2,3駅ぐらいで、座れると、おもむろによみさしの本を取りだして、読み始める。快調に読み続けられるときは、そのままにし、何か、考えたい時は、まわりの人を観察しながら、考え事にふけったり、目をつぶって、いつのまにか眠ったりする。
朝というのは、一日の中でも大切な時間だ。マラソンのスタートラインに立った時のような、なんともいえぬ、気ぜわしさと不安感にとらわれやすい。実際、走り出してみると、走る前の不安や取り越し苦労はどこかで吹っ飛んでしまう。実際、リアルなきつさを体験するから、取り越し苦労なんてことを考える暇も、そんなことを考えていたことさえ思い出す暇もなくなるからだ。
うだうだ考えずに、走り出せばいいのだというのも一つの見識ではあるが、スタートラインで、何かを考えるのにも意味がある。マラソンの苦しさを取り越し苦労するのではなく、自分がマラソンを好きであることを、じっくりと、確認する時間というものにも意味があるからだ。
早朝の地下鉄での30分は、こういった瞑想にぴったりの時間なのだ。
中村天風の「怒るな、恐れるな、悲しむな、憎むな、妬むな、悪口を言うな(言われても言い返すな)取り越し苦労をするな」などを思い浮かべたり、お気に入りのマントラ(南無阿弥陀仏でもインシャーラでも)を思い浮かべたり、自分が一番気持ちが良いと思うことを思い出したり。
早朝の時間に読む本は、小説ではない。何となく、さて今日どう生きるかについての深いマニュアルめいたものがいい。だから、最近、ぼくは内田さんの法話のような本を持ち歩いているんだろう。
内田樹と池上六朗の「身体の言い分」(毎日新聞)という対談集を早速読んだ。内田さんは語りの人である。何を語るかではなく、彼の語り方に魅力があるのだ。その語り方、ものごとへの近づき方が、ぼくたちの生き方や、物事、他者へのアプローチの仕方への手がかりを与えてくれる。だから、内田さんの本は深いマニュアルになる。彼の対談集は、その内田流の語りの現在が、そのままに描かれるため、二重の意味で、内田的なのだ。
池上六朗さんは、多くの職を転々とし、船乗りになった後に、三軸修正法という治療法を考案し、治療者となった人である。船の上の生活という、ある意味、極限的な場面で、得た身体性の理解に基づき、海外航路の船舶の操船技術と地球物理学の原理に基づき、治療を施す池上さんと、合気道という武道を、エマニュエル・レヴィナスのユダヤ哲学の両輪として追求する内田さんが、身体の声を聞くことで、人間というシステムの全体を捉えようと試みている対談集だ。
とはいえ、そんな堅苦しいものであるはずもなく、どの部分からも、内田的、語りの雑駁かつ、本質的な魅力があふれている。
《(内田) 自分の目の前でしゃべっている人が、正直者か詐欺師かって必ずわかりますよね。わかるのは、結局、相手のメッセージを受信する時に「コンテンツ」を聴いているわけじゃない、ということです。何を聴いているかというと、メッセージの「送り方」を聴いている。正直な人がまっすぐに語っている言葉は直接深く入ってくる。それは言葉の内容が理解できるできないとは別の次元の出来事なんですね。わからないけど、わかっちゃう。頭を使っているわけではないんです。もっとトータルな関わりですよね。
たしかに、日々、仕事などをしていても、誰とつきあうか、誰とつきあわないかというのは、山積みにされた資料や、こぎれいなプレゼンテーションで決まるわけではなく、眼の前にいる人々や、その中心となっている人の顔で決まるのがほとんどである。そういうことを、現実に生きているぼくたちは、暗黙に判断している。正直さを取り繕うことはそんなに簡単なことじゃないことを、ぼくたちは知っているからだ。》
難しい哲学、というか哲学の原典で読みやすいものなど、ぼくにはあったためしがないのだが、そういう哲学が難しいわけを語るこんなパラグラフ。
《(内田) よく「哲学は単純な現実をややこしく表現したものだ」と思っている人がいますけれど、逆なんですよね。現実は哲学で語りきるにはあまりに巨大で複雑なんです。だから「わかりにくい哲学」というのがありますけれど、あれは現実の複雑さになんとかついていこうとして息も絶え絶えになったものなんです。ちゃんとした哲学がわかりにくいのは、それがぼくたちの生きている当たり前の現実にできるだけ近づこうとしているからなんです。》
結局、理論が難しいのではなく、理論が漸近しようとしている現実がとてつもなく複雑で難解だということ。これは、言われて見て、はっと思った部分だった。哲学が難しいのは、哲学者のせいだと思っていた気がする。
幼児虐待とか、家庭崩壊を語る際に、内田さんたちは、「世界と調和した身体」をかつて生きたことがあるという幼児体験の有無を重視する。どんな状況にあっても、言及できる、絶対的幸福感を持つかどうかが、人間の人生を決定づけていくという過酷な真実。
《(内田) 幼児体験のところでの「世界と調和した身体」をわたしは生きたことがある、という経験の重要性を、みんな見落としているという気がするんです。
でも、子どもの時に、自分は世界と調和している、世界の必然的な一構成要素なんだということを理屈じゃなくて実感できるような環境というのは、ある程度周りが整えてあげないと子どもの独力では構築できないですよね。
(内田) 別に倫理的にどうとか、義務をきちんと果たしていることの達成感で気分がよくなるとか、そういう意識的なレベルではなく、赤ちゃんが気持ちがいいと、ぼくも同時に身体的に気持ちがよくなる。そういう密接にインタラクティブな関係ができるわけですよね。
親の快感と子もの快感は分離可能であり、分離されるべきだという考え方をしているところから児童虐待のような問題はおきていると思うんです。》
結局、子育ては快感である。子どもが気持ちが良いことは、親にとっても気持ちが良いというような、集合的な快楽の意識というものを、すべて前近代的と切り捨てていった必然として、家庭がゼロサム環境となり、私の自己実現を妨害するのが子育てだと、ある種の憎しみが社会的に肯定されていっているというのだ。
内田さんの語り口は、やわらかいが、視線は冷徹である。そういう魅力的な語り口が全ページにみなぎっている。内田さんの本を読み出すと、内田さんのことばかり書くようになってしまう。これは、こういった語り口を誰かに教えてあげなければならないと無意識に思ってしまうからだ。そういう魔力を持った文体である。
かくして、地下鉄の30分間は、なかなかコアな瞑想の時間となるわけだ。
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身体を通して人間とは何か、どうやって幸福に生きるかなどのテーマについて、内田樹さんと池上六朗さんが語り合った本。
内田さんの十八番の身体論に対して、三軸修正法を唱える池上さんも全然負けていない。
とにかく、次元が高い本です。うんうんと頷ける部分もあるにはあるのですが、まったく共感できないというか、そんな感覚があるのか、と思わされる部分もちらほらと。
でも、全体的にかなりおもしろい本です。チャンスはやってくるものである、以降の章が特に刺激的でした。
本当にこのお二人は、いい意味で力を抜いて生きているねんなあと思わされた。