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不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)
著者 長山 靖生 (著)
不勉強社会ニッポン。全世代を巻き込むお勉強の実態を見直し、何をどうやって学ぶべきか、そもそも勉強とは何だっけ、といった事柄を、国語・倫理・歴史・自然科学といった広い分野に...
不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)
不勉強が身にしみる~学力・思考力・社会力とは何か~
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商品説明
不勉強社会ニッポン。全世代を巻き込むお勉強の実態を見直し、何をどうやって学ぶべきか、そもそも勉強とは何だっけ、といった事柄を、国語・倫理・歴史・自然科学といった広い分野にわたって問い直すドキュメント。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
長山 靖生
- 略歴
- 〈長山靖生〉1962年茨城県生まれ。鶴見大学歯学部卒業。評論家。歯学博士。歯科医のかたわら文芸評論、家族や若者の問題などに関して執筆。「偽史冒険世界」で第10回大衆文学研究賞を受賞。
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紙の本
正しすぎるのは良いことか?
2006/02/04 15:32
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
中身が分かりにくいタイトルである。サブタイトルを見て何とか内容に見当がつく。
そこで勝手ながら私なりにタイトルを付け直させてもらおう。これは『教養の書』である。「教養」といっても知識の集積のことではない。いや、一定量の知識は必要だが、それを土台にして自分はどのように生きるのかをしっかり見定めるのが「教養」なのであり、本書はその指針となる本だからである。ニートやフリーターが社会問題になっている現代日本において、「個性」を職業に活かしたいと漠然と考えながら、しかしさっぱり勉強をしないでいる若者、及びその親を対象に、勉強して教養人=職業人となることの意義を説いているのだ。国語・歴史・自然科学など科目ごとに一章をあてて、それを勉強する意味を改めて考え、章末にお薦め文献も提示している。
悪くない本だと思う。しかし私の懸念は、長山氏の案じている層、つまり学校の勉強が嫌いで「下流」になりかかっている若者やその親は、そもそもこの本を読まないのではないか、というところなのである。学校の教科書すらろくに読まない人たちだろうから。
揚げ足取りと思われるだろうか? では具体的に、本書の中で最も優れていると思しき第4章「『正しい歴史』は存在するか」を取り上げよう。長山氏はここで「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーが出した『教科書が教えない歴史』への疑問を提起する。といっても旧来の左翼的な立場からの批判ではない。むしろ氏は、「扶桑社版の歴史教科書が戦前的な愛国教育を目指す危険なものとは、思われない。そういう意味でいえば、むしろ危険なのは韓国や中国の教科書だ。そちらのほうが『戦前の日本』的にみえる」ときわめて的確な判断を示している。
では長山氏の批判はどこに向けられているのか。歴史を子供に受容しやすくするための物語化である。歴史上の出来事はきわめて複雑で多面的であり、分かりやすい物語にしてしまうと必ず切り捨てられる部分が出てくる。氏は『教科書が教えない歴史』の或る章を例に、具体的に何が削られているかを指摘する。また、戦前の皇国史観や戦後の左翼史観でも同然だと述べてバランスを保ちつつ、歴史の「物語化」をいましめる。
ならば歴史記述はどのようになされるべきなのか? 氏の答えは「棚上げ」である。つまり、一つの理想や理論の奴隷になるな、特定の史観に基づいて歴史上の出来事を解釈するなかれ、懐疑の精神をたえず持ち続けることが歴史教育の目的であるべきだ、という。
正論だと思う。しかし「正しすぎる」とも思う。そうした懐疑の精神は、長山氏のような優れた資質を持つ人間なればこそ可能なのであって、誰にもできることではない。横田めぐみさんの拉致を金正日が認めた直後に「金首席は朝鮮の人民から慕われている」と教室で力説した高校歴史教師の存在を私は知っているが(そしてこの教師は例外的存在ではないと思うが)、大学で歴史を専攻したいい年をした大人でさえこの程度なのである。まして大学に進学する意思すらないフリーター予備軍にどうしてそんな能力があろう。
なお、トーマス・マンに言及した箇所で、マンは「オランダでの講演中に亡命を余儀なくされた」(152頁)とあるが、彼は当初は単にドイツに帰らず外国滞在を続けたのであり、正式に「亡命」を表明したのは1936年になってからのことである(ただし実は彼は帰国したかったのだというのも誤り)。また「〔戦後になっても〕トーマス・マンはドイツ国籍の回復が許されなかった」とあるが、これだとマンがドイツ国籍を回復したいと思っていたことになるけれども、そうした事実はあるまい。この辺の事情はそれこそ複雑であるから、山口知三『ドイツを追われた人々』(人文書院)などの一読をお薦めする。
紙の本
勉強してる=不勉強ではない、ではない
2016/01/29 08:26
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ホンの無視 - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは老若男女問わず「勉強」について考え直すいいきっかけになる本だと感じた。
「好きなら伸びるは本当か」という章の記述等は学びに望むほとんどの人が向き合う現実ではないだろうか。
紙の本
著者自身はあまり不勉強が身にしみてはいないようだ。
2006/06/20 19:57
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヒルズ族に対する高い評価、いくつかのピントがずれた意見を除けば、容認できるものであった。特に第1章「そのお勉強でいいの?」は、現在の日本の学生や文部科学省の教育施策がよく分かるようにまとめてある。
著者はホリエモンをはじめヒルズ族などいわゆる「勝ち組」を称賛しているが、努力をしたかしないかだけで判断すれば、ある方面で普通の人よりも努力したことは認められても、努力する方向が残念だったのだから、称賛はいかがなものかと思う。そのあとの第3章「倫理は教えられるか、学べるか」で著者が述べていることと照らし合わせると矛盾するような気がした。
また、校内暴力事件や学級崩壊増加の原因は尾木直樹が言うような勉強圧力でないのは明らかだが、公立でその傾向が顕著なのはキレにくい集団が私立へいくため、公立のキレやすい子の割合が高まることにもある。社会学的にいうと、集団は悪い構成員が半数を越えたときに崩壊するのではなく、5%を上回った時点で風紀は乱れ、20%を越えるとコントロール不能になるからだ。
そして、「だいたい自分の子供もろくに監督できない人間に、どうして学校の監視、監督、助言が出来ようか。」(p.107)という認識は甘い。かつても自分の子供を指導出来ない親や親の手の余る子供もいたが、そんな親でも学校の指導には協力した。いまや、そのような親は子供と一緒に学校の指導にいちゃもんをつけるようになっていて、抑えがきかないのである。
第2章「読書のすすめ、もしくは戒め」については、同意するところが多かった。国語教育において、小中学生に人生経験がなければ分からないような小説を教えることや、梗概本の意義に関する疑問は私も感じている。美しいだけでなく論理的な文章を選んで教材にすべきだ。中高生も小説は読むべきであるが、評価を前提とするのではなく、自分の精神的成長の必要に応じて、できれば隠れて読んだほうが血肉となると思う。
第4章『「正しい歴史」は存在するか』は、力が入っている。著者はこの章が書きたくてこの本を書いたのではないかと思われる。著者の意見には大いに賛同するが、著者が望むような歴史教育を行うためには、大学入試から地歴を外すしかない。採点する大学の教員もまた史観を持っているからだ。その証拠といってはなんだが、東大受験ならば山川出版の教科書でいいが、京大受験なら実教出版の教科書を使えと言われるのである。
第5章の「自然科学と論理的思考力」は、受験指南本のような感じで始まり少し論調が変わったかに思えるが、その後の意見には首肯すべきことが多い。外圧により学校週5日制になり1週間の授業は4時間減った。多くの進学校は7時間目や土曜日補講でその分を補ってきたが、今度は「総合的な学習の時間」や「情報」が導入されて、基礎科目の授業時間は減り、理系でも理科4科目を履修できる学校は殆どなくなった。これは大きな問題だと思う。
最後に、この著者も「本当の自分なんて、自分自身のなか以外の、どこにもないのだ。いたら、そのほうが不気味であろう。本当の自分は、探すものではなく、まず見つめて認めるものであり、そのうえで作り上げるものだ。」(p.38)という自分探し禁止派である。こうして多くの識者が自分など探してあるものではないと言っているのに、文部科学省はいつまで自分探しだと言い続けるのだろう。
それより、『これからは「学歴社会」ではなく「実力社会」だという意識が、若者のあいだでも親たちのあいだでも広まっている。では現代の若者は、実力を身につけるために、従来の受験勉強とは形は違うものの、みんな新しい勉強をするようになっているのかというと、どうもそのあたりは、あやふやだ。』(p.58)という点こそ、教育行政が解決しなければならないのではないか。