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情報学的転回 IT社会のゆくえ
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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2005.12
  • 出版社: 春秋社
  • サイズ:20cm/247p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:4-393-33242-3
  • 国内送料無料

紙の本

情報学的転回 IT社会のゆくえ

著者 西垣 通 (著)

「情報学的転回」とは、われわれの世界観や人間観、さらにそれらを支える知の枠組みそのものが、従来とは大きく異なっていく、ということです…。圧倒的なITの奔流をこえて、新たな...

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情報学的転回 IT社会のゆくえ

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商品説明

「情報学的転回」とは、われわれの世界観や人間観、さらにそれらを支える知の枠組みそのものが、従来とは大きく異なっていく、ということです…。圧倒的なITの奔流をこえて、新たな人間文明の展望と可能性を切り拓く!【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

西垣 通

略歴
〈西垣通〉1948年東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。日立製作所、明治大学教授などを経て、東京大学大学院情報学環教授。著書に「アメリカの階梯」「基礎情報学」など。

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みんなのレビュー10件

みんなの評価3.8

評価内訳

紙の本

人間が奴隷にならないためには?

2006/01/10 19:58

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:マサ@宇都出 - この投稿者のレビュー一覧を見る

コンピュータ、情報、コミュニケーションなどを切り口に、文系と理系の狭間で刺激的な本を出し続けている西垣通・東京大学大学院情報学環教授の“語りおろし”作品。気軽に西垣・情報学に触れることができる本です。
タイトルの「情報学的転回」とは、20世紀に起きた「言語学転回」に続く21世紀の転回として著者は位置づけています。
「言語学的転回」とは構造主義言語学をうちたてた言語学者ソシュールに始まり、構造主義人類学者・レヴィ=ストロースによって確立したもので、「端的には、事物の存在についての思索自体よりその言語表現を重視せよ、ということ」。それは「人間(主体)から言語へ」「歴史から構造へ」「実体から関係へ」といった変化で表されます。これは、白人によるヨーロッパ文化がもっとも進歩した文化であるという見方を否定し、有色人を解放する思考をもたらしました。
そして「情報学的転回」においては、人間が「生物の一種」であると認めることから始まり、言語学転回が有色人を含めた人間尊重につながったのに対し、あらゆる生命の尊重をめざすと著者はいいます。
「情報」というと多くの人がコンピュータやインターネットなどのITやデジタルデータを思い浮かべるでしょうから、「生命の尊重」とどうつながるのかわからないかもしれません。一般には、コンピュータやインターネットなどで、情報の共有化が進んだり、より生活・仕事が便利になるなかで、何か大きな変化が起こるというぐらいにしか考えていないでしょう。
著者が言う「情報学転回」とはそんな表面的なことではなく、もっと根源的なところからの主張です。そのためには「情報」についてもう一度とらえなおす必要があります。これについては、著者の『こころの情報学』(ちくま新書)・『基礎情報学』(NTT出版)で詳しく解説されていますが、「情報」とは「生物にとっての意味作用」、つまり生物にとって意味のあるもの、重要なもの、価値があるものととらえるところから始まります。デジタル情報もその延長線上にあります。
本来であればITは人間がよりよく生きる、生命力を活性化するために用いられるものです。しかし、実際にはITの普及・発展のなかで、人間をロボット化するために用いられているというのが、著者の問題意識です。そして、このIT社会・IT文明について考えるうちに、「聖性」(宗教的な霊性)と情報とのかかわりにぶち当たります。
著者は現代のIT文明はユダヤ=キリスト教の世界観と密接なかかわりがあるといいます。その世界観とは、「宇宙すべてが神の言葉にしたがって普遍論理的にできている」という考えであり、そこを直視して脱出しないと、ITによる無制限な効率競争や人間のロボット化は避けられないと警告します。
そのために「情報学的転回」が必要であり、これは「人間がコンピュータの奴隷になることへの異議申し立て」といいます。そのためにユダヤ=キリスト教的思想に対抗するものとして、著者は古代インド哲学を挙げ、オートポイエーシスの考えも引用しながら、そこに新しい可能性を見出そうとしています。
文系と理系の両方の知にまたがりながら展開する、著者ならではのダイナミックな議論が、大きな刺激を与え、現代社会、そして自分自身について深く考えさせられます。21世紀を生きるわれわれにとって、必読の書といえるでしょう。

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紙の本

情報学的転回とユダヤ=キリスト教からの転回との関係とは?

2007/09/30 00:50

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る

20 世紀には「言語学的転回」がおこったのに対して 21 世紀には「情報学的転回」がおこると著者はいう.そして,情報学的転回とは人間がコンピュータの奴隷になることへの異議申し立てにほかならないという.これは直観的には納得のいく話である.しかし,著者はこの転回のもととなる IT (情報技術) をユダヤ=キリスト教とむすびつけて,その転回 (ユダヤ=キリスト教の相対化) を議論している.日本人が IT で欧米ほどの成果があげられない原因も日本にこの一神教がないことにもとめている.キリスト教と資本主義との関係はしばしば指摘されているが,IT との関係を指摘するなら,もっと精密な議論が必要だろう.現代において情報学転回がもとめられると同時にユダヤ=キリスト教からの転回ももとめられているかもしれないが,本書で論じられているようにオートポイエーシスを媒介としても,私にはこの 2 つがむすびつけられない.

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2006/03/08 07:54

投稿元:ブクログ

四つのヨーガ
?ラージャ・ヨーガ:精神統一
?バクティ・ヨーガ:信愛
?カルマ・ヨーガ:献身
?ギャーナ・ヨーガ:知識
金銭還元主義

2010/03/04 20:18

投稿元:ブクログ

人間の聖域だった情報に人間が支配されるという現状に、警告を鳴らす本

モダンタイムスのころの人間のロボット化の問題とは、今が人間が内面をロボット化しようとしている点で異なる

今の思想界ではマジョリティ保護の観点がうしなわれがち

2008/01/12 13:52

投稿元:ブクログ

ITが進化した現代社会のあり方に疑問を投げかけ、生命・宗教・ITの観点で本当にこれからのあるべき姿を考えさせられる良書。

2009/04/08 16:33

投稿元:ブクログ

情報というのは物質、エネルギーに次ぐ第三の根源的な概念。あらゆる情報は生命にとっての意味である。

我々の身体は情報に関して閉じた系であって入力も出力もない。閉じているから情報は原理的に生物から生物には伝わらない。伝わったと錯覚するのは「刺激」を受けているだけ。刺激を受けて自己言及的に変容する。だから人間と機械のアナロジーはふさわしくない。

情報はおおまかにシャノンなどの定義した機械情報(0と1の羅列)と生命情報の2種類に分けれる。機械情報は刺激の有無であってそれを個体間で伝達することは可能だが、同じ機械情報でもその個体の翻訳の仕方によって生命情報は変わってくる。つまり個体は意味というフィルターを通してしか機械情報を解釈できず、意味はその個体の過去の記憶だとか現在の状態だとかに依存する。

そう言う意味で生命情報は個体間でやりとりすることができない。

しかしもし、過去の記憶や現在の状態までも機械情報に翻訳した後に伝達したとしたら?それはつまりリナックス上でウィンドウズ専用アプリをVMを使って起動すること?

2009/12/03 15:37

投稿元:ブクログ

理系(特に情報系)学生必読。
この本は,個人的には,あまり面白くなかった。でも,オススメ。

あらゆる学問は哲学が源流となっていることを再認識した。

この本で学んだことは…
・理系にも文系的な発想が必要
・何気なく進んでいるITにも,宗教的なバックグランドが強力に存在していた
ということかな。

文系の本を読みなれていないのもあってか,ちょっと言葉尻を捉えすぎな気もした。
まぁ,一読の価値はあるでしょう。

2012/03/02 22:54

投稿元:ブクログ

西垣通の人間観は生命流(生物・動物)と人間(個人)の二元論かも。
- "われわれは共生体であり、生命流をふくんだ情報ネットワークのいわば結節点である。その中で社会的なコミュニケーションが行われている。そして、コミュニケーションが滞りなく行われ、社会秩序が保たれるためには、個人というフィクションも必要なのだと考えなくてはいけない。責任というものをもう一度能動的につくり直していく必要がる。そういうふうに個人や責任という概念をとらえるべきです。"
- "われわれ一人ひとりは、実は六十兆個の細胞というオートポイエティック・システムの共生体です。そして、意識的にせよ、無意識的にせよ、生命流というものに参加しているわけです。/しかし一方、人間は社会をつくって、そこで意識的な個人というフィクションのもとに生活しているわけです。そういう両面から人間を理解することが大事です。"

Informatic Turn

- ”情報とは本来、記号表現と記号内容とが一体不可分になって結合したものです。表される意味内容のことは忘れてしまって、表す記号だけを取り出してよいというのは、文字という技術が生みだした驚くべき出来事です。”
- ユダヤ的な知性は土着性を奪われることによって生じる(民族離散 Diaspora)
- 土地によらない、時間・空間を限定しない普遍的な論理にもとづく思想や生活技術

* 情報学的転回、生命情報、生命流
- 情報学的転回とは”人間は生物なのだというところから出発して、我々が生きている生命環境を尊重しようというテーゼに基づいて、もう一遍根底から物事を考え直してみようということ”
- 再広義の情報は生命情報:”生物にとって意味があるもの、価値があるもの、生物に刺激をあたえ行動を促すもの”

* コミュニケーション
- 情報が小包のように検索できるという誤った信念(「情報小包論」)は、シャノンの情報理論を誤解した文科系学者が作った
- "情報小包が送られたのではなくて、そこに意味解釈の斉一性が働いている", "ある記号に対して、それを斉一的に意味解釈させる社会的な現象、一種の社会的な権力作用が働いている。"

* オートポイエーシス
- オートポイエティック・システム(自己創出系)は閉鎖系。内部も外部も、入力も出力もない。物質、エネルギーの出入りはある。生物が世界を認知する仕方が閉じている(位相的閉鎖系)。自らの認知世界の中に閉じ込められている(環世界)。
- "生物というオートポイエティック・システムは、自分で自分の環世界を作り出していく存在である。このことは、生物というものが、いわば手探りで盲目的に生きているということでもあります。"

* メディアとコミュニケーション
- 意味作用は、基本的には閉じた心の中の出来事。情報は厳密に言うと伝わらない。誤解が当たり前。ただ刺激を与えるだけ。

* 社会的なコミュニケーション・システム
- コミュニケーションが連続的に、自己循環的に発生(ルーマン)している。
- 社会的システムにおける継続的なコミュニケーションの発生ということ自体をもって、擬似的にせよ、情��が伝達されているとみなす。
- コミュニケーションを秩序付けるものがメディア。コミュニケーションの発生を支える社会制度。

* 生命情報/社会情報/機械情報
- 社会情報とは、社会的コミュニケーションにおいて発生する、生命情報とは異なるもの。狭義の情報。生命情報の中から意識的に抽出・記述された情報。記号(記号表現)と意味内容(記号内容)のセットから成り立っている。
- 機械情報とは、社会情報の中で、記号表現だけを独立させたもの。最狭義の情報。
- ”この機械情報が氾濫しているのが、実は情報文明です。”
- ”機械情報を操作する技術が、いわゆるITです。”
- "文字などのメディアが発生したとき、シニフィエ(記号内容)からのシニフィアン(記号表現)の分離が行われました。このときに初めて、機械情報が出現したわけです。"
- "いったんマスメディア・システムが作動を始めると、あたかもミクロなゆらぎからマクロなパターンが生じるように、自己循環的な運動が継続していく。われわれは否応なくそれに巻き込まれていくわけです。"

* 情報と聖性
- "われわれ人間は生命情報から社会情報を切り出します。おもに言語を用いて抽出し記述します。そのとき必ず「余剰」が出るわけです。"
- 社会情報の解釈の網目からこぼれる「余剰」が「恐い」と感じる。ここに聖性が生じる。端的には「死」。そこで「宗教」が出てくる。
- 神秘体験を生み出すプロセスはトランス(意識変容)状態。
- ”人間の心はオートポイエティックで自己言及的ですから、たとえ外部の刺激がほとんどなくても、内部で自己発振して多量の生命情報をつくりだすことができます。いわゆる白昼夢です。情報学的には、夢も現実も、イメージをつくりだすメカニズム自体に変わりはないのです。”

* 宗教とメディア
- "あらゆる宗教はメディアと深く関わっているということです。宗教を人々へ伝搬布教するメカニズムは、その時代の代表的なメディアに依存します。"
- 今の日本の状況:自分がかけがえのない存在ではなく、市場で競りにかけられている、IT文明によって人間が内面からロボット化されつつあるという抑圧から、潜在的に救済を求めている。

* マルキシズムとメディア
- マルキシズムの失敗はイデオロギーの内容ではなく、これを伝えるシステム、つまりメディアがダメだったのだ(レジス・ドブレのメディオロジー)
- ”東側陣営の主要メディアが印刷文書だったのに引き換え、西側陣営の主要メディアはテレビだったわけです。そしてマルキシズムはテレビに負けた。”

* 内なるアメリカ
- "アフガンの女性が伝統衣装を脱いで、しゃれたスーツをまとってベンチャー・ビジネスをやりはじめた。そういうとき、今のアメリカ批判派は彼女をどう位置づけるのでしょうか。"
- "彼女は素晴らしいと位置づけた途端に、それは進歩だとみとめた途端に、アメリカ批判の矛先は鈍ってしまうはずです。アメリカ人は、自分たちは血を流してあいつらを解放してやったと言うに決まっています。そういうアメリカ人の論理を覆すだけの論理を、果たして我々は持っているのか。”
- アメリカ的な進歩史観を我々はしっ���り持っている。日本で蔓延しているのはアメリカ流の世俗的消費主義。
- "日本におけるポストモダンなんて、現代思想というより、単なる消費主義、快楽主義にすぎません。生産のために我慢して働いてばかりいるのはつまらないから、すてきな消費もやったらどうか、というようなものです。それが日本のポストモダンです。これが近代批判なのかというくらい薄っぺらなものです。"
- "ユダヤ=キリスト教的な、一神教的な進歩思想を根底から批判するだけの論理を、われわれは模索していくべきではないでしょうか。"

* 日本社会、コミュニティ、個人、責任
- 東京一極集中からハイパー多極分散へ。
- "情報流、物流、交通などが、それぞれ関連しながらも分離独立して、ダイナミックに多次元的な極をつくる"
- "昔ながらの地方分散では、三つの流れが一体で、極が静的で固定している"
- ハイパー多極分散社会での生き方の鍵はコミュニティ。コミュニケーションから作られる社会システム。
- 「個人」という近代社会の大前提を見直す必要がある。
- 首尾一貫した個人という概念は社会システムの側から要請される。
- "われわれは共生体であり、生命流をふくんだ情報ネットワークのいわば結節点である。その中で社会的なコミュニケーションが行われている。そして、コミュニケーションが滞りなく行われ、社会秩序が保たれるためには、個人というフィクションも必要なのだと考えなくてはいけない。責任というものをもう一度能動的につくり直していく必要がる。そういうふうに個人や責任という概念をとらえるべきです。"

* 機械情報から生命情報を捉え直す
- "機械情報文明がどんどん盛んになることによって、そこからもう一度、自分たちは生物なのだ、生命流の中の結節点のようなものなのだという自覚が生まれつつあります。"
- "社会も独立した個人の単なる集合ではない。サイバースペースという存在は、そういう思想的な動きの中で捉えなおさないといけないと思います。"
- しかし機械情報と生命情報を短絡してはいけない。生命体と機械を同一視してはならない。生命機械論・人間機械論に陥ってはならない。
- 生命に対する畏敬の念が欠けてはならない。

* 被爆国民というわれわれ
- 広島、長崎は聖地。聖性を帯びた場所。
- 日本人は広島、長崎を大事にして来なかった。
- 「戦争は嫌だ」という嫌戦、厭戦という気分はあるが、平和を構築するというのはどういうことか、明快な論理をベーシックなところから構築し、共有してきたとは言えない

* 新たな普遍思想とは
- ユダヤ=キリスト教文明を相対化できる思想や社会哲学の模索
- 普遍的なものでなければだめ。グローバル時代だから。
- ローカルでヴァナキュラーな土着の聖性は通用しない
- 土着の聖性を通用させるためには、それをITで機械情報化しなくてはならない
- "普遍というのは、あるテキストをどこの土地にいつ持って行っても成り立つということです。時間、空間をこえて成立することです。それで大成功をおさめたのは、ユダヤ=キリスト教です。近代科学も、近代経済もそこから生まれてきたわけです。”
- 古代インド��学に立ち戻る。情報学との違い、共通点。

* 古代インド哲学、大乗仏教、オートポイエーシス理論
- 人間が自分の身体を使って行動する中で、世界が自ずから立ち現れてくる。身体的な行為によって、行動によって、世界が生み出される。(ヴァレラのエクナティブ認知科学→『身体化された心』)
- 倫理の基礎は西洋の伝統的思想では「首尾一貫した自己」と「神」。しかし「首尾一貫した自己」は認知科学によって否定されつつある。
- 自分という存在を支えているのは他者である。→新しい倫理の可能性(大乗仏教の「一切空」「縁起」)
- 多様な関係性の中でいかに他者を尊重していくか
- 欲望を持つ個人同士が競争していくという近代の世界観を塗り替えていく可能性

* ギャーナ・ヨーガとしての学問
- ラージャ・ヨーガ(精神統一)
- バクティ・ヨーガ(信愛)
- カルマ・ヨーガ(献身)
- ギャーナ・ヨーガ(知識)

* 情報学的転回
- 情報から物事を眺めるように、われわれの思考様式が変わっていくこと。極論すれば、世界には情報しかない、と言い切ること。
- 人間を機械化していく現在の流れを逆回転させること。機械情報に基づく転回を阻み、生命情報に基づく転回へと変質させること。それが真の情報学の使命。

2011/11/29 18:55

投稿元:ブクログ

・概要
 本書の要点は主に第一章と第四章に述べられている。
現代社会はユダヤ=キリスト教を中心としたエゴイズムの社会であり、人々は半ばロボット化し生きる意味を喪失している。人生の克服は、自分のエゴイズムを超えた高次の存在を自覚することによって果たされる。だから、現代社会には聖性が必要である。この場合、聖性は人間にとって無上の価値を持つ。価値とは情報のことである。そのため、ITは聖性と関係があるといえる。その関係は世俗化ということである。なぜなら、ITとはシニフィアン(記号表現)を扱う技術であり、普遍宗教は聖書というテクスト(記号の集積)を持つからである。現存する普遍宗教はユダヤ=キリスト教を除いて、古代インド哲学であるヴェーダーンタ哲学のみである。前者は生物を外側から認識し、後者は内側から認識する。そのため、ヨーガの精神によって人間を解放することができる。(第一章)
 情報には三種ある。生命情報、社会情報、機械情報の三つである。生命情報とは広義の情報。これは知識の断片のような実体ではなく、関係概念であり、人間のみならず生物にとっての意味作用そのもののことである。社会情報は、狭義の情報であるが、これは一般的語法における情報に等しい。つまり、社会情報とは社会的に通用する、意味を持った情報のこと。これは言語や画像イメージなど、人間による抽出化によって表現される。機械情報とは、最狭義の情報で、記号表現のこと、すなわち、言語である。
人間が生命情報から社会情報を抽出化する際に、余剰が生まれる。例えば、周囲に対する恐怖や不可解の念から、一種の神話、物語が作られ、形而上学が設定される。ここに聖性が登場し、死に対する恐怖から宗教が生まれる。宗教的聖性は社会的環境において発生する。ある人が感得した霊妙な感覚というものは、他人に承認されることで確かな存在になる。そのコミュニケーションを通して聖典が編まれる。以上のような過程を持つため、生命的な次元の存在である情報を社会的次元から扱うことができる。
しかし、コミュニケーションを行う人間相互の心のなかは互いに交換することができない決定的な溝がある。その人間の心を生成するものはオートポイエーシスである。オートポイエーシスとは、生成システムの一つで、有機構成論において人間と機械を異なったものとする根拠であり、また、自己創出系と呼ばれる、生物はただ盲目的に生きているものであるとする思想である。このオートポイエーシスの思想は、神が一切を創造したとするユダヤ=キリスト教思想と対立する。生物を内側から眺めるという視点にオートポイエーシスの真骨頂がある。(第四章)
 つまり西垣の主張していることは、現代社会を構成するユダヤ=キリスト教的普遍主義を相対化し、人間を解放するべきということ。また、その鍵となる概念が古代インド哲学やオートポイエーシスに共通する、生命を「内側から見る」ことである。

・「内側から見る」こと
ところで、内側から見るとは具体的にはどういうことか。内側の対概念として措定されているのは、外側、すなわちユダヤ=キリスト教思想に代表されるロボット化である。ならば、内側か���見るということはあくまで人間を人間として認識するというだけのことだろうか。本書238頁には次のような記述がある。

生命体が世界をそれぞれのやり方で認識する。それらの重なりとして宇宙が存在す
る。このまなざしを通して、あらゆるところに満ちあふれている生命的なダイナミズ
ム、生命流というものが浮かびあがるわけです。これが生物を内側から眺めるという
ことなのです。

 このように西垣の言う「内側からの認識」とは、単なる非機械化という消極的な認識ではなく、あらゆる生命(人間のみならず、動植物も含まれる)の根源性を包摂した積極的な認識なのである。すなわち、西垣は近代的人間中心主義に対し批判的なのである。
 では、なぜ西垣は人間以外の生命を尊重するべきと主張するのか。それにはオートポイエーシスの発想が関係している。河本英夫は「オートポイエーシス」(『現代思想フォーカス88』木田元編、新書館、2001年)において、オートポイエーシスの条件について述べた後で、その性質について次のように述べている。

これらの条件によってイメージされているシステムは、比喩的にいえば渦のような
動きがつくりだされ、それが継続して行くうちに生じた要素によって、特定のかたち
をとると言うのに近い。そうすると動きの側から現実の形態の形成を導くという点で
は、自己組織化と同じである。
さらにオートポイエーシスでは、動きをつうじて作り出された要素が、再度動きそ
のものを活性化させ、動きを継続していく。動きを継続しながら、要素によって張り
出された位相空間にシステムが実現するのである。
システムは、作動を継続することで連続的にみずからの閉域を形成する。これはた
だ閉じているシステムではない。むしろ伝統的な開放性と閉鎖性の区別が消滅する。
ここが特殊な閉鎖性の発生場面である。またそれぞれのシステムは作動を継続するこ
とで、みずからの空間に実現する以上、このシステム論は多元論となる。さらに各シ
ステムはそれじたいで作動するだけであるから、みずからの基盤や目的を他のシステ
ムによって保証されることはなく、その意味で一切の階層性(ヒエラルヒー)が消滅
するのである。

 これを西垣の言葉に即して言えば、一切の生命はただ漠然と生きようとしているのであり、その結果として様々な形態を示しているに過ぎない。そのため、他のシステム(例えば一神教的神)によって特定の種族の優越性は認められないのである、ということになる。そのため、西垣は近代的人間中心主義に反対しているのである。

・問題点
 とはいえ、オートポイエーシス理論によって一見正当性をもつような論理が示されたように見えるが、これはあくまでも倫理的根拠が示されたに過ぎない。西垣は倫理的根拠に基づいて、生命を生命として肯定する手法、いわゆる「内側から認識する」方法を選択しているに過ぎない。つまり、私がいいたいのは、自然を活用してはいけないということの論理的根拠が欠けている、ということである。特定の種族がその他の種族に優越する根拠はないにしても、特定の種族がその他の種族に対して優越することを制約��る根拠もまたないのである。極めて簡略化してしまえば、自然や動物を守るべきというのはあくまで西垣の趣味でしかないということである。
 なぜ私がこのような理不尽にも残酷にも取られかねない思想を支持するのかと言えば、それは人間中心主義もオートポイエーシス理論によって形成される西垣の自然愛護精神も、その機能という点についてはどちらも同じだからである。例えば、ヒューマニズムも自然愛護派も己の信じるところに従って、他者にその信条を要求するだろう。それは当人の信念の強度に比例して、要求度は高まり、ついには強制に至る。宗教的にいえば、折伏する必然性に行きつくのだ。中身は異なっても活動は異ならないのである。
 本質的な問題点は機械化でもユダヤ=キリスト教的普遍思想にあるのでもない。問題はただ、現実という圧倒的実在の前に自己という他者が存在することなのだ。換言すれば、異なる二つの存在が同時に同様の位相にあることと言ってもいい。日常的な状況を例にとれば、恋人同士の恋愛観の相違や、学校の校則と生徒、或いは雨という天候と出掛けたいという願望というような瑣末な事例まで、これらは皆、「他者」として摩擦を生じている。

・解決策
 それでは、このような状況をいかにして解決するのか。まず私が検討したいことは、芥川になることであり、太宰になることであり、三島になること――すなわち自殺について――である。鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年)のあとがきにはこう書かれている。

「強く生きろ」なんてことが平然と言われている世の中は、閉塞してて息苦しい。息
苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、「イザとなったら死んじゃえば
いい」っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通し
を良くして、ちょっとは生きやすくしよう、ってのが本当の狙いだ。

 この言葉には、ある種の聖性が感じられないだろうか。より真面目な(鶴見も十分真面目だが)論理を引こう。

事故とか病気とかによる偶発的な死は、自殺に比べれば、受け入れ易い。だがそれ
は意味を持つことがなく、それだけに一層痛ましく感じられる。意味を担うというこ
と、それは〈意志的な死〉だけのよく為しうることだ。たとえその意味をわれわれが
すぐに理解できない場合があるとしても、というのも、その動機が錯乱し混乱してい
る自殺も多くあるからだが、その場合でも、われわれはそこに何らかの意味を予感し、
どんなに見分けにくいものであっても、そこに意味が欠けているはずはないと考える。
そして、注意深く耳を傾けてゆけば、やがてその自殺がその思いを叫んでいる声が聞
こえるようになることを、われわれは知っている。
(モーリス・パンゲ『自死の日本史』竹内信夫訳、講談社、2011年)

 ここにおいて、パンゲは自殺を「運命への愛」として肯定的に捉えている。つまり、現状への抵抗であり、未来への呼びかけという意味を自殺に与えているのだ。しかし、この考えでは自分という個人は救われるかもしれないが、世界全体は何も変えることができないし、問題を延長しているだけ、という指摘もなされるかもし���ない。そのうえ、この考えも一つの立場を取っているのであり、他者に対しての配慮が欠けているので、結局、従来と問題は変わらないのである。自殺も根本的な解決にはならない。そこで、私が注目するのは以下の言葉である。

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物
質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れ
てはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのでは
ない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないこと
である。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、
感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。(中略)(さとりもな
ければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもな
い。こうして、ついに老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいた
るのである。
(『般若心経・金剛般若経』中村元・紀野一義訳注、岩波文庫、1960年)

 ここで述べられていることは、「空」の思想である。つまり、生や死を認識する我々の思想の無効宣言である。生も死もないのだから、幸福も不幸も元来、存在しないものなのである、ということだ。
 仏教思想はヴェーダーンタ哲学の系脈に属する思想であるが、ヴェーダーンタ哲学を止揚することで誕生した思想であるとも言える。そのため、西垣の依拠するヨーガのような現世肯定の思想において解決不可能な問題に対しても、我々自身の存在性を否定する空の思想によって解決が可能になるのである。厳密に言えば、問題も何も元からなかったことがわかるのだ。
この空の思想に依拠して現実を生きていけば良い。それはどのような生活になるか。それはただあるがままの生を肯定することになる。なぜなら、そこには生も死もないからである。何も望むところもなく、何も得るところもなく、あるいは何も失うところもなく、何も悲しむこともない世界である。そこでは「私」も消える。「他者」も消える。彼我の区別も消える。ゆえに記号内容が消え、記号表現も消える。記号表現が消滅すれば、もはや情報学の活動領域は存在しない。私はここにこそ、本当の内側があるのだと思う。内も外も消える領域こそが、我々が普段認識しているこの現実世界の外側(あちら側)ということになろう。本来あるべき場所を内側と呼ぶのなら、まさにその世界はこの理性の外側にある。理性とはすなわち、言語である。言語とはすなわち情報(機械情報)である。西垣は「機械情報の側から生命情報を見直そうという視点が出現しつつある」と述べているが(『情報学的転回』226頁)、情報の立場に立ち続けるのなら、全く同じ問題に回帰し続けるだけなのである。情報学が情報学自身の外側を認めなければ根本問題は常に隠蔽され続けてしまう。情報学的転回という言葉に著者が託した記号内容を真に果たすためには、もはや一切の名状を必要としない、いわば「無」の情報に依拠しなければならないのである。


・補遺
 以下に、本稿製作以前に書いた本書の各章概要を付す。
●梗概
 ���代社会はユダヤ=キリスト教を中心としたエゴイズムの社会であり、聖性を失った人々は半ばロボット化し生きる意味を喪失している。けれども、我々日本人は完全なユダヤ=キリスト教徒になってはいけない。
 現代社会の問題とは何か。それは相対的ニヒリズムである。例えば、ユダヤ=キリスト教的普遍思想を世俗化したコンピューターに始まるIT文明は我々をロボット化する機能を持つ。ユダヤ=キリスト教的普遍思想は生命を外側から眺める認識方法を選択する。では逆に生物を内側から眺める手法を取るものは何か。それはオートポイエーシスである。

●各章要約
・第一章 人間がロボットになる
現代社会はユダヤ=キリスト教を中心としたエゴイズムの社会であり、人々は半ばロボット化し生きる意味を喪失している。人生の克服は、自分のエゴイズムを超えた高次の存在を自覚することによって果たされる。だから、現代社会には聖性が必要である。この場合、聖性は人間にとって無上の価値を持つ。価値とは情報のことである。そのため、ITは聖性と関係があるといえる。その関係は世俗化ということである。なぜなら、ITとはシニフィアン(記号表現)を扱う技術であり、普遍宗教は聖書というテクスト(記号の集積)を持つからである。現存する普遍宗教はユダヤ=キリスト教を除いて、古代インド哲学であるヴェーダーンタ哲学のみである。前者は生物を外側から認識し、後者は内側から認識する。そのため、ヨーガの精神によって人間を解放することができる。

・第二章 IT文明の本質とは何か
 ユダヤ的知性は土着性を奪われることによって生じた。土着性を喪失したことによって、時間空間を限定しない普遍的な論理に基づく思想や生活技術を考案する必要が生まれた。その普遍思想とは、神の言葉を唯一の論理として、あらゆるものの価値を論理的体系的に規定する思想である。これを世俗化し、メカニズムを応用したものがコンピューターである。つまり、IT文明の本質とは、ユダヤ的普遍思想なのである。

・第三章 情報学が文と理をむすぶ
 現在の日本社会には、文系と理系の区別を排した経済的実利のみを目的としない批判的知が必要である。文理の溝を埋めるためには、非効率的でも基礎的原理的に検討すること、すなわち、知そのものを根底から考えることから始めなくてはならない。この状況が生まれた原因は、明治期にある。明治社会は西洋知の輸入によって従来の神仏儒からユダヤ=キリスト教的価値観に転換したのだが、その表層部分のみを移植し本質を等閑視したために、聖性を喪失した。聖性を持たない科学的合理主義には限界がある。それがニヒリズムの源流となる。ITが我々の生活に作用し、ロボット化する可能性があるので、これに対する自覚として批判的知を修得する必要がある。
【備考】
 著者の主張は、聖性を持たない日本社会の合理主義には限界があるためニヒリズムに陥るということだが、ニヒリズムは世界的な問題であり、著者の言うユダヤ=キリスト教文明圏においても同様である。この場合、ニヒリズムにも種類があると考えるべきか、あるいは、著者の主張に誤謬が含まれるのか。
 また、著者は動物を含めた自然全体を愛護すべきと主張するが、その論��的根拠は何か。
 また、著者は相対主義的ニヒリズムを克服するために、人間は他の動物と異なるという人間中心主義の放棄を推奨しているが、人間の絶対性を相対化してしまうと、かえってニヒリズムを強化しないか。むしろ、他の生物を食するという権利を失い、人間が存続できなくなるのではないか。それとも、著者は人間が他の生物を食し、他の生物も人間を食するという相互消費の形態を主張するのか。

・第四章 情報とは生命的なものだ
 情報には三種ある。生命情報、社会情報、機械情報の三つである。生命情報とは広義の情報。これは知識の断片のような実体ではなく、関係概念であり、人間のみならず生物にとっての意味作用そのもののことである。社会情報は、狭義の情報であるが、これは一般的語法における情報に等しい。つまり、社会情報とは社会的に通用する、意味を持った情報のこと。これは言語や画像イメージなど、人間による抽出化によって表現される。機械情報とは、最狭義の情報で、記号表現のこと、すなわち、言語である。
人間が生命情報から社会情報を抽出化する際に、余剰が生まれる。例えば、周囲に対する恐怖や不可解の念から、一種の神話、物語が作られ、形而上学が設定される。ここに聖性が登場し、死に対する恐怖から宗教が生まれる。宗教的聖性は社会的環境において発生する。ある人が感得した霊妙な感覚というものは、他人に承認されることで確かな存在になる。そのコミュニケーションを通して聖典が編まれる。以上のような過程を持つため、生命的な次元の存在である情報を社会的次元から扱うことができる。
しかし、コミュニケーションを行う人間相互の心のなかは互いに交換することができない決定的な溝がある。その人間の心を生成するものはオートポイエーシスである。オートポイエーシスとは、生成システムの一つで、有機構成論において人間と機械を異なったものとする根拠であり、また、自己創出系と呼ばれる、生物はただ盲目的に生きているものであるとする思想である。このオートポイエーシスの思想は、神が一切を創造したとするユダヤ=キリスト教思想と対立する。生物を内側から眺めるという視点にオートポイエーシスの真骨頂がある。

・第五章 宗教とメディアから二十世紀をふりかえる
(略)

・第六章 IT文明に新たな聖性は出現するか
 ITや情報というものの見方に根本的な欠陥があるのではないか。とくに日本では。
 IT文明の中にただすべき点があれば、それをアメリカにも伝えるべきだ。
 現在、生命情報、社会情報、機械情報の三種類の間に新たな関係が生じてきている。それは機械情報の側から生命情報を見直そうとする視点である。
 ユダヤ=キリスト教は生命を外側から見ている。古代インド哲学は逆に生命を内側から見ている。生命システムを内側から眺めるのがオートポイエーシスの発想(生物を自生したものと捉えること)。
 我々は完全なユダヤ=キリスト教徒になってはいけない。








参考文献
河本英夫「オートポイエーシス」『現代思想フォーカス88』木田元編、新書館、2001年
鶴見済『完全自殺マニュアル』太田出版、1993年
��村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』岩波文庫、1960年
モーリス・パンゲ『自死の日本史』竹内信夫訳、講談社、2011年

2012/05/08 15:11

投稿元:ブクログ

途中途中で内容が脱線したり、著者の本の紹介が入ったりするのが気になった。
部分部分で参考になるものはある。

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