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出産すればすべてよし、という考えはいただけないけれど、「そうそう」と膝を打ちたくなる箇所がいくつもあります。
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内田樹先生と『オニババ化する女たち』の三砂ちづる先生の対談。
現代人は身体感覚を鈍くすることで、不快なことをやり過ごそうとしている。
しかしそれが結果、他人の気持ちや危険なものに対して鈍感になってしまう。
というような話。
三砂先生は「出産」、内田先生は「武道」という切り口から語られる。
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対談とはいえ、内田さんの一方的な語りに終始してしまうのではないかと思って読み始めたけれど、この対談相手の三砂という人の話しも面白く、内容のある対談だった。
武道の場合だと、ほんとうにたいせつなのは、筋力とか骨の強さではなくて、むしろ感度なんです。皮膚の感度じゃなくて、身体の内側におこっている出来事に対する感度。あるいは、接触した瞬間に相手の身体の内側で起きている出来事に対する感度。ぼくはそれを「身体感受性」と言っているんですけど、実際にサッカーで相手を見ないままにパスしたり、野球で背走してキャッチしたりすることのできるプレイヤーがいますよね。あれは目がいいとか、足が速いというような計量可能な運動能力ではないです。身体感受性が鋭いんですよ。
身体感受性の開発のための訓練法なんていくらでもあるんです。でも、通常の学校体育ではそういうことはぜんぜんやりません。「かくれんぼ」や「ハンカチ落とし」みたいな遊びは、五感を超えた人の気配や「殺気」みたいなものを感じ取る訓練法でもあったと思うんですけれど、そういうことの教育的意義を説く人はほとんどいない。いまの子供はテレビゲームを一日中やって、動体視力と筋肉の反射は早くなったかもしれないけれど、身体感受性は回復できないくらいに損なわれていると思いますよ。(内田)(p.33)
自分はできるだけ、ないほうがいいと思います。自分探しなんかしても、ない。ただ、身体があるから、役割が来る。役割がきたら「ありがとう」と言っていればいいのではないでしょうか。そうしてやってくる役割をいかに上手に流していく自分になれるか、が課題です。(三砂)(p.58)
私が「いいお産、いいお産」と言っていると、「そういう経験をできなかった人はどうするのか」とよく言われるのです。できない人はしょうがないですよ。人生は何でもいちばんいい、と思うとおりにはならない。人間は経験したからといって、すべてわかるものではない。言葉から想像して他人の経験を共有するために「勉強」というものをしているのでしょう。自分が経験していないからわからない、ということではないと思う。経験がすべて、ではないですよ。(三砂)(p.66)
こういうことを信じる人は信じるし、信じない人は信じないんですけど、沼地(だったところ)にはやっぱりそれなりの瘴気が漂っているに決まってます。その程度の瘴気でいきなり病気になるとか離婚するというほど人間は弱くないけど、土地が悪いと身体感覚が鈍感になることは防げないんです。誰だって、気分の悪い土地の上に暮らしているとなんとなく「いやな感じ」がする。でも、そこで暮らさなければいけないということになると、そういう「いやな感じ」を感じないですむように身体感受性をゆっくりと鈍感にしてゆく。そうするしかないわけですよ。騒音のうるさいところに住んでいる人が音に対して鈍感にならないと暮らせないのと同じで。(内田)(p.72)
人間の可能性とか脂質は、私たちの想像できないところからくるのではないでしょうか。伝統を受け継ぐ人は、親族や同じ国の人とは、全然関係ないところから出てきたりする。どの程度環境に左右されるのか、私たち��はまだよくわかっていないと思います。ひょっとしたら、ほとんど左右されないのかもしれない。ある仕事を選び、伝統を引き継いでいくというのはその人の本質から出たものとしか思えない。それは霊的なものだと思ったりするのです。(三砂)(p.95)
ぼくはすごくせわしない人間に見えるかもしれませんけど、基本的に人間関係をあまりいじらないんです。一度作った人間関係はよほどのことがないと切らない。新しく知り合う人から受ける刺激も必要ですけど、むかしから知っている人が就職したり、結婚したり、子どもができたり、親を介護したり・・という経験をして変化してゆくさまからのほうが学ぶことが結果的には多いような気がするんです。(内田)(p.119)
「センチネル」(監視人)とか「灯台守」とか、そういう旅をしている人たちのための不動の定点って、やっぱり必要だと思うんですよ。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の「ライ麦畑のキャッチャー」というのも、たぶん似た社会的機能だと思うんですけど。特別に何をするというわけじゃなくて、ただ、みんなが困らないように、そこに立ってて、誰かが転んだら、助け起こすみたいな。自分に与えられた場所からあまり動かないで、そこできちんと仕事をするという、「分をわきまえる」というあり方って、すごく大事だと思う。ぼくがある場所にいるのは、たぶん宿命がぼくをそこに導いたからでしょう。みんな「自己決定」「自己責任」というけれども、ぼくがいましている仕事で「自己決定」できた要素なんて、ほとんどないですよ。ほとんどすべて「ご縁つながり」ですから。(内田)(p.122)
結婚の相手なんて誰でもいい、というのは、ぼくも同意見ですね。一人の男としては全員まるで違うけれど、制度的な「夫」というものになったら、そんなに個性なんか発揮しようがないから、どうしたってみな似たようなものになる。一人の人間としてみた場合、スケールの大きいやつと器の小さいやつはものすごい社会的能力の差があるけれども、いい夫と悪い夫の差はそれに比べるとほんのわずかですよね。どれほど人間的スケールの大きな人でも、家の中で顔を突き合わせているかぎりでは、その人間的スケールが発揮できる機会なんて、ほとんどないです。(内田)(p.124)
学生たちに「はやく結婚しろ」とせっつく理由の一つは、いい男から順番に売れていくからなんです。いい男ほど結婚が早いというのはぼくの経験的確信なんです。だって、どんな女の子とでもそこそこハッピーになれる才能がある、というのがいい男の条件なんだから。ものごとにこだわりがなくて、好き嫌いがなくて、「妻たるものこうでなくてはならない」というような硬直したイデオロギーがなくて、妻があれこれ言っても「あ、そう、別に。好きにしたら」というのが「いい夫」でしょ。そういう男は好き嫌いを言わないから、女の子に「結婚しない?」と言われると、「うん」てすぐ返事しちゃう。「私はこれこれこういう条件の女じゃないと結婚しない」というようなことを言ってる男はなかなか相手がみつからなくて晩婚になるわけですけど、そういう男って、夫にした場合にいちばん面倒なタイプじゃないですか。だから、結婚を先延ばしにしていると、「夫に向かない男たち」の中から選ぶしか���くなる。
「いい夫」の条件って、「がたたが文句を言わない」ということに尽きるわけでしょう。お金があってもなくても「別にいいよ」、子どものでき具合が多少でこぼこでも「別にいいよ」と気楽に受け流してくれる男が、結婚していっしょに暮らす上ではいちばん気楽なんですから。そういう男は出会い頭の女の子と「うん、別にいいよ」で、ぱたぱたっと結婚しちゃうから、すぐに「品切れ」になる。早く結婚するほうがいい男をつかまえるチャンスは高いよと学生に言って聞かせているんです。(内田)(p.125)
医療における非対称性は合理的だと思うんです。そういう中にいると、相手の言っていることが理解できなくてもあまりストレスがたまらないから。同じ目線の人間、自分と同じ次元にいる人間と話していて言葉が通じないというほうがずっとストレスフルでしょ。人間同士の会話って、結構言葉が通じていないことが多いわけですから、非対称性的関係のほうがコミュニケーション・ストレスが少ないということはあって当然なんです。(内田)(p.220)
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体のことってよく分からないんだけど、どうやって向き合ったらいいのかなっていうところは少しだけわかった気がした。
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内田樹さんと三砂ちずるさんの対談形式で
身体とコミュニケーションについて語っています。
自分の体験からうなずけることがたくさんありました。
女性と性の関係をもう一度見直すきっかけとなる本です。
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身体感受性、という考え方。
言語以前に、身体が感じ取っているもの。
言葉は後からついてくる。
あるいは、ひとつの不快を遮断するために、感じることすべてを遮断してしまっていること。
感覚が閉じていると、コミュニケーションもスムーズにすすまないということ。
身体感受性とコミュニケーションの関係。
他者が発する「ノイズ」を「声」に変換して聞き取る力のある人をコミュニケーション能力が高い人という。
なるほど、なるほどと思いながら読みました。
身体知、他の本も読んでみたくなりました。
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・昭和30〜40年代 地域社会の解体
・数値化できるスポーツとしての武道
・着物が身体感覚を拡げる
・ディベート教育の是非 大切なことは論破することより説得すること
・ヨーロッパ=真理信仰 日本=他人とは不可知なもの
・家族とは会食する集団
・愛情はお金と同じく、通過していくもの、外から流れ込んでくるので、発揮できる
・自分を抵抗の少ない流動体にする
・「未来の体感」を志向的に意識している人
・子供の不良化=心身が乖離して、出来合いの身体に収まろうとする
・大卒とは、社会性・協調性・マジョリティへの忠誠心
・負け犬と勝ち犬=同じ社会階層に属している人たち
・今は出かけなくてもいいところに出かけすぎている
・性教育は家庭と学校以外でするもの
・共同生活
・自分なんてない、関係性の中で作られているあなたがあなた
・就職のドアはむこうから開くもの
・早く結婚したほうが良い
・子育てを中心にしながら、40代からたくさん仕事する
・地位は高くても、個人的なありようを大切にしていない
・トラウマ系の人は新しい体験ができない
・恒常的な性関係にビルトインされていないとトラブルが起きる
・社会性を控除された純粋に器官的な感覚はそれほど人間に影響力をもたない
・嫌悪感は大切なもの
・嫌悪を感じないように感覚をオフにしている
・産業社会では中性性が都合がいい
・コミュニケーション能力とはノイズを声にできること
・理路整然としてなきゃ理解できないのは、コミュニケーション能力が低い
・父母の役割分担が重要
・人文科学系の評価=標準的なパラダイムがなくてローカルなパラダイムが等権利的に並列している=大学らしさ
・先行研究がないと査定してもらえない
・異質なものを排除する文化=若い男性
・男が結婚したがらなければ晩婚化するのは当たり前、女性の問題ではない
・異質なものを受け容れるのが人間の快楽
・異質なものとしての自己をいかに思春期に受け入れたか
・若い人は曖昧な自己同一性にたえられない
・けんしゅう=人類学的な通過儀礼
・中間的な領域にこそ豊かなものがある
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世に溢れてる数ある対談集の中でもかなり面白い方では。身体関係の話は内田樹は得意だし、三砂ちづるも負けず劣らず興味深いことを言っていて、総じてかなり中身の濃い対話になっている。
「不快」の話とかは内田樹だけでなく、他の人が文章として書いてあるのを見たことがあるし、他の部分もほとんどそうなんだろう。本人が「大半は誰かからの受け売り」って言ってるし。
まあそれはある意味世の常識であるから全然問題ではない。ようは二人の知的営みを楽しめるかどうか。
かなりためになることも言っているけど、読んだあと(言われれば思い出すけど)意識できるレベルではどうせほとんど忘れちゃってるから、同じ著者が違う著作で似たようなことを言っていてもその都度楽しめてしまいます。
最後にあとがきで内田は身体と脳の二元論の濫用の自制についても述べてる。ここも見逃せない重要なポイントであると僕は思ったんだけど、どうだろう。
(2006年05月24日)
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身体を知覚・作用の両面でもっと上手に使いましょうよ、というのが本書の主旨。具体的な手法として提示される、和服と出産。早く結婚したくなりますなー。事実・視点の両面で、目からウロコの連続でした。
・セックスせんでも相性は分かる。一緒にご飯食べて味せんかったらそれは身体が「こいつはちゃうで」というシグナルを出しているという事。52
・あるがままでその人を受け入れる事が少なくなっている。056
・愛情も、お金も、良い使い方をする人の所に集まって来る。56
・戦後日本において最も地域共同体の垣根が下がったのはテレビ普及の最初期。近所の色んな人が、テレビのある家に集まっていた。102
・がたがた文句を言わないいい夫から先に売り切れるんで早く結婚せえよ126
・本格的にキャリア積むの、子育て後でええんちゃう?131
・日本の村では、年頃になった男の子への性の手ほどきが行われていて、その役割を後家さんが担ったりしていた。結果的に、オニババ化しなかった側面がある。149
・電話が無い時代は、みんな定時に帰っていた。「今日は帰らない」というのが出来なかったわけだから。メリットとして、雨降った時に傘持って迎えに行けた。157
・洋服は肩、和服は背中に意識行くよね。家紋あるし、帯ずれてへんか気になるし。163
・母親の役割は、あるがままを受け容れてあげる事。父親はそれじゃあかんと社会規範を伝える事。192
★異質なものに、スリルを感じるのが生物の本性でしょ。224
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今まで読んだ内田本の中では異色である。
なぜか。
女性の身体性について、多くが語られているのだ。
三砂ちづるさんという女性との対談を通じて、女性が妊娠、出産、子育てから更年期障害などの身体の変化をどう経験していくのかという大変興味深い話が満載である。
http://big-river.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-35cf.html
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ブログに書きました。
http://t-katagiri.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
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読んでいて気持ちの良くなる本というのがあって、
内田樹さんや寺門琢己さんの本がそう。
自分の身体の持ってる力とか頭の良さを教えてくれます。
出産の話は正直よく分からないが、スピリチュアルな方に転ばないのがセーフ。
とたんにオカルトじみてうさんくさくなっちゃうからねえ。
http://takoashiattack.blog8.fc2.com/blog-entry-808.html
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対談形式で読みやすかったです。
全体を通して、身体が感じること、身体が発するメッセージに耳を澄ますことの重要性が書かれています。が、話題は「そうすれば健康になれる」という単純なものでなく、様々な話題に展開していたのが興味深かったです。
たとえば、コミュニケーション能力について。コミュニケーション能力が高いというと明瞭な言葉を相互にかわす能力と思われがちですが、そうではなくわからないこと、あいまいなことにも耳を傾け自分なりの解釈を与え反応ができることが本当のコミュニケーション能力の高さではなかということ。(内田氏の持論)
それから、医療や教育の現場ですべてを数値化・評価しようという過剰な努力による評価コストの増大とか、かえって評価の尺度にあてはまらない努力が批評価者からなくなってしまうのでは?というお話。
「自分」とは、固定された何かだと現代人は思いがちだが、他者との交流によって常に変わりうるもの、様々なものが流れていく通り道のようなものだと考えないと、閉ざされてしまいつまらないのではないかというお話。
など、ファクトではなく、身体をめぐる現在の状況を「いかに考えるか」「いかに言葉で表現するか」という1冊です。
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本屋で立ち読み。「民話おばちゃん」「武道家おじちゃん」としての意見は面白いけど、免疫系専門の科学者×身体論者を期待した分、拍子抜け。
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対談形式の本。
読み終わってしまうと、ぼんやりした印象になってしまったけど・・
オニババ化する女たちの副読本らしい。
女性性についていろんな話が書いてある。
「子どもと密着している母親が厳しく
社会的な価値観を教え込み」「子どもに干渉しない父親が無原則に
甘やかす」ってのが印象的だった。
男女平等も、身体のことを考えると必ずしもいい風潮とは言えないのね。
わたしももっと柔軟にならねば。