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商品説明
「文学」を疑いながら、「文学」を読む。「文学」と呼ばれる小説のほんとうの「読み方」とは? 文学に流されず、文学に損なわれず、文学を読む自分を勘違いせず、正しく文学と出会い、正しく文学を読む10講。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
大塚 英志
- 略歴
- 〈大塚英志〉1958年生まれ。まんが原作者。批評家。批評誌『新現実』主宰。神戸芸術工科大学メディア表現学科教授。著書に「サブカルチャー文学論」「更新期の文学」など。
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紙の本
「私」が「私」であることを疑うように、「文学」が「文学」であることを疑ったとき……
2006/07/24 21:04
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Tabby - この投稿者のレビュー一覧を見る
一般社会で生きている人の生活はそれぞれに違うが、牢屋に閉じこめられた人の生活は
五指で数えきれるほどのバリエーションしかないだろう。
バイタリティのある囚人なら、一度や二度は脱獄をはかるかもしれない。
地面をせっせと掘ったり、壁をえぐったり。それも監視に見つかり無駄に終わると、「食う・寝る」のサイクルを、牢屋から出られる日まで繰り返すことになる。
これでは動物園の動物とさして変わらない生活、むしろ、周りにいる人間から好奇の目で見られない分だけ、哀れな生活かもしれない。
いつか自由になる日まで、囚人は牢屋の中で悶々と過ごすしかないのだろうか?
いや、たった一つだけ、檻から一般社会へすり抜けて伝わるモノがあった。
言葉である。
しばしばTVニュースで凶悪犯の獄中手記が公開されたとき、視聴者は囚人が何を思っているのか、その言葉から知る。それが本心からのものかどうかはうかがい知れぬが、言葉だけが檻から外部へすり抜け、何らかの訴求力を持つのである。
わが国の歴史に鑑みれば、国そのものが牢屋に閉じこめられた状況の最たるものが、もろもろの「戦争期」だった。大塚英志は、この本でまず、21世紀初頭の日本をとりまく状況そのものが、60数年前とさして変わらぬ「戦争期」であると言う。
そのために最初に取り上げる作家が三島由紀夫、太宰治の二人。
ともに「わくわく」を描いた作家、つまり「今、ここ」が戦争期であるからこそ、戦争が終わったならば……という「わくわく」を描いたと指摘する。
それは無意識に近いレベルで人口に膾炙するため、大っぴらなナショナリズムよりも性質の悪いと評価も手厳しい。いわゆる「文豪」であっても容赦はしない。
内向きの言語で事足れりし、何より「今、ここにある現実」との接点を持たない「文学」。
「私」と書くだけで「私」の存在が自明であるように、
「文学」と名乗りさえすればそれが「文学」であると認定されるのか?
それこそ、「私」はおろか、国家、「文学」の「ひきこもり」ではないのか?
大塚英志は日本文学への愛があるからこそ、言葉をいささかもゆるめない。
その一方、井伏鱒二、大江健三郎は「あるべき文学」だとして評価している。
井伏のように、「私」でない誰かのために言葉をつむいだり、
大江のように、「ムラから外へ出ること」が、「あるべき文学」だと言うのである。
携帯電話やインターネットなどの技術革新でコミュニケーションの形は変われど、
人間関係に潜む問題も昔とさほど変わっていない。
だからこそ、「私」と「文学」の存在が自明のものであるのか一度疑ってみてこそ、
「あるべき文学」が生まれるのだと、叱咤激励している。
つまるところ、牢屋にいる人間を食う寝るだけの生活から解放する力を備えてはじめて、
カッコなしの文学は生まれるのだろう。
すり抜けた言葉をきっかけにして、牢屋の鍵は外側から開かれることになる。