あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
人生の営みを演劇的なものと捉えてみること、そして「私」の心の台本に気づき、読み取り、かみしめること。かつて舞台人として楽屋を愛した著者の、独創的で体験的な「私」の時代の精神分析論。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
北山 修
- 略歴
- 〈北山修〉1946年淡路島生まれ。京都府立医科大学卒業。精神分析医。九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授。作詞の仕事も行い、日本レコード大賞作詞賞を受賞。著書に「幻滅論」等。
関連キーワード
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
カントクヘツヅクナガイカイダンヲ
2007/05/30 22:46
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Living Yellow - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本ほどフロイトなどに関する精神分析などの一般書があふれていて、でも実際に精神分析家による精神分析を受けることが難しい国はないのではないのだろうか。無論保険が効かないということもある。しかし分析家の絶対数が少ないという事実がある。アメリカのようにそれが巨大なビジネスになっている状態よりはましかもしれないが。斎藤環氏も分析家としての資格は有していなく、現場でも分析めいたことはしないと明言されている。
本書はその数少ない精神分析家でもある精神科医、元フォーククルセイダーズ(映画「パッチギ」で使われた「イムジン河」や「帰って来たヨッパライ」をヒットさせた60年代関西のフォークグループ)の北山修氏が2004年末ごろから臨床専門誌「臨床心理学」に連載した原稿を中心にまとめたものだ。当時の時節柄、あの1リーグ化反対の選手会ストライキで選手会長としてかつ一選手として戦い続けたヤクルトの古田選手を中心に実践された「野球をやりながら野球を考え論じること」=「プレイイングマネージメント」への感動が第1章で触れられて、後の章の「中間性」に繋がっていく。
読みやすい。難解な用語も出てこないし、専門用語が出てくるときは丁寧な図と説明がある。平易な一般論に見えて実は大事なことを示唆してくれるような気がする。
彼は広義のフロイト派(例によって分裂している)で対象関係論を確立した一人であるイギリスのフェアバーンの流れを引く人らしい。その理論を軸にした第4章「普通がわかるということ」が一番堅めで学術的印象を与える章だろうか。
しかし本書を流れるテーマは「中間性」と言えよう。「分析家」を「患者」をカウチに寝かせて、あえて顔を見ないで分析を行うときに生まれる「間」、人生=劇と例えた場合、患者が演技と本音の葛藤(人間を演じながら人間を考えること)に疲れて一息つく場所としての「楽屋」としての「治療室」。そして二次大戦中、アンナ・フロイト率いる自我心理学とメラニー・クライン学派の対立・分裂の中でどちらにも属さない形で残ったフェアバーンを含む「中間学派」たち。この「中間性」を軸に精神分析の理論・実際を解説する。平易な言葉遣いで木下順二「夕鶴」(「鶴の恩返し」)に寄せた患者の傷(機織りを見てしまった)分析家と見られた患者がどう決別せずに治療関係を維持できるかなどわかりやすくかつ引き受けるのが難しい問題が語られている。
多くの治療実践に基づき、豊かな表現力で描かれた、精神分析に興味のある方、受けてみた方に広く読み解かれるべき一冊だろう。
しかし、プライバシーの問題で多くが伏せられているとはいえ、著者が関わっている患者がみな「裕福」な感じがするのは否めない。というか時間も(週2回の分析でも少ないらしい)金もある人しかこういう本格的な精神分析にアクセスできないというのが現状ではないだろうか、という思いも浮かんで消せなかった。
紙の本
北山修先生の精神分析学の到達点
2010/10/10 16:50
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みなとかずあき - この投稿者のレビュー一覧を見る
実はこの本を読んで、もうずいぶん時間が経つのだけれど、なかなか書評が書けないままでいた。ともかく圧倒されてしまったとしか言いようがなく、それ以上言葉をつらねてこの本のことを書くことができないでいるのだ。
まず、この本のカバーに圧倒されてしまう。文芸書や辞書などで時に目にすることはあるが、一面黒いのだ。また、帯も黒いし、そこに書かれている文字もグレーでほとんど黒く見えてしまう。この本の発行元はみすず書房だが、同社の本は同じような装丁になっていて、どれも白っぽいものが多い。人文書を扱っている本屋ではよくみすず書房の本がひとまとめにして書棚に並んでいたり平積みされていたりするが、きっとこの本はその中では異彩を放ってしまうだろう。本当に、それだけでまず圧倒されてしまう。
だが本当に圧倒されるのは、やはり内容だ。全12章と付章が2つから成る。12章の方は「金剛出版から出ている臨床専門誌「臨床心理学」の連載「創造性と精神分析」(第5巻第1号―第6巻第6号)が元になっており」、その時にも読んでいたのだけれど、こうしてまとめて読んでみると、北山修先生の精神分析の到達点とでも言えることが最初から最後まで綴られているのがわかる。その高みとでも言える部分を何とか改めて言葉にしたいのだけれど、それが出来ないのだ。
これでは書評にはならない。
きっとこんな状況の時に精神分析を受けると、この言葉になりそうでならないものが何らかの形にできるようになるのだろうか。
この本を始めとして北山先生の文章ではしばしば精神分析的治療構造や治療経過が、「劇」や「舞台」、「台本」や「歌」などといった芸能とかかわる言葉で語られることがある。そこには俗に「人生は舞台」などと比喩として語られている以上の意味を含ませた言葉の使われ方がされているように思うし、そうした言葉を使うことで本来個人と個人の出会う場である精神分析治療を単にそれだけで終わらせずに、一つの治療としての普遍性を持たせるようにさらに別の個人や集団や社会へと通じるものにしているように思える。そしてそこに、北山先生がこれまで積んでこられた様々な分野での経験や思索が二重写しに見えるのは私だけだろうか。
心理学 ランキング
前へ戻る
-
1位
-
2位
-
3位
-
4位
-
5位
-
6位
-
7位
-
8位
-
9位
-
10位
次に進む