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紙の本
未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)
著者 白井 聡 (著)
「国家と革命」「何をなすべきか?」という2つのテクストから立ち現れる、「リアルなもの」の探求者の思考の軌跡。資本主義の純粋化が進む現在、レーニンという思想史上の事件を捉え...
未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)
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商品説明
「国家と革命」「何をなすべきか?」という2つのテクストから立ち現れる、「リアルなもの」の探求者の思考の軌跡。資本主義の純粋化が進む現在、レーニンという思想史上の事件を捉え直す。【「TRC MARC」の商品解説】
中沢新一氏推薦!
この輝くような若い日本の知性は、死せるレーニンを灰の中から立ち上がらせようと試みたのだった。ゾンビではない。失敗に帰した自らの企ての廃墟に佇みながら、ここに創造された21世紀のレーニンは、永遠に続く闘争への道を、ふたたび歩みだそうとしているかのように見える。素っ気ない手つきで差し出されたこの本が、世界へのまたとない贈り物であったことにみんなが気づくまで、そんなに時間はかかるまい。
資本主義の「外部」とは? 革命観のコペルニクス的転回とは? 『国家と革命』、『何をなすべきか?』という2つのテクストから立ち現れる、「リアルなもの」の探求者の思考の軌跡。資本主義の純粋化が進む現在、レーニンという思想史上の事件を捉え直す。【商品解説】
目次
- 第1部 躍動する<力>の思想をめぐって
- 第1章 いま、レーニンをどう読むか?
- 第2章 一元論的<力>の存在論
- 第2部 『何をなすべきか?』をめぐって
- 第3章 <外部>の思想――レーニンとフロイト(1)
- 第4章 革命の欲動、欲動の革命――レーニンとフロイト(2)
- 第3部 『国家と革命』をめぐって
- 第5章 <力>の経路――『国家と革命』の一元論的読解(1)
- 第6章 <力>の生成――『国家と革命』の一元論的読解(2)
- 第7章 <力>の運命――『国家と革命』の一元論的読解(3)
著者紹介
白井 聡
- 略歴
- 〈白井聡〉1977年東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。日本学術振興会特別研究員。多摩美術大学、神奈川大学非常勤講師。専攻は、政治学・政治思想。
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紙の本
レーニンの現在を照らし出す思考の達成
2008/05/18 18:40
10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者みずから「あとがき」でもふれているように、今日、正面切ってレーニンをとりあげることは、妥当なようにも有効なようにも見えにくい。しかも、書き手が30歳になるやならぬやという若者であると知る時、レーニンの名前との齟齬は決定的なものにもうつる。
しかし、著者の白井聡が展開していく議論は、むしろ、こうした現在のレーニンに関するイメージを端緒とする。もっといえば、歴史的・政治的に葬り去られたかにみえるレーニンが、今なお亡霊のようにその存在感をもちつづけている、そうした不思議な現実をこそ見つめる地点が、白井聡の出発点なのだ。だから、レーニンを主題とすることは誤謬でも倒錯でもなく、実にリアルでコンテンポラリーな課題なのだとして始める議論では、レーニン(のテクスト)の〈力〉を、文字通り著者の力業によって浮かび上がらせていく。
《「いまここにあるもの」から、いかにして「いまここにないもの」をつくり出すのか、この問いこそがレーニンのすべての理論を赤い糸のように貫いている切迫した課題である》という著者の見通しは、レーニンという「稀有な思想の事件」から目をそらすことなく、その過去/現在を複眼的に捉えながら、『何をなすべきか?』・『国家と革命』という、両極の評価を与えられてきたレーニンの著作から双方を「貫く同じ思想の躍動」を読み解いていく。
その手つきは、さしあたり精緻と呼びうるものだが、テクストを精緻に読むこと、ただそのことだけでも、実に困難な営みであることは、改めて認識してもよいだろう。それを、レーニンの現在と接続し、そこに著者自身の思考を投企し、レーニンに今なお有益な光を当てること、この1冊で白井聡が成し得たことは、そのような、いわば「事件」なのである。
紙の本
我が物顔の”資本”に抵抗する”力”をいま私達は持ち合わせるか?
2007/09/22 17:10
10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る
もはや“引き倒された偶像”になったかに見えるレーニンの主著“何をなすべきか?”及び“国家と革命”を精読、その思想の現実性を現代的思惟の装いで立証、今の世にレーニンを甦らせる試みである。
すでに社会主義の旗を掲げる国々の殆どは崩壊した今、確かに至難の業に挑戦した勇気ある書と言える。何故に今 レーニンか?著者は社会主義国家建設の挫折が資本主義国家を純粋化、その現状がレーニンの思想の再評価を迫るという。
今こそ国家の運動は福祉国家の鎧をかなぐり捨て、むき出しの資本の欲望を露呈しつつあること、それを資本主義の純粋化と見るかどうかは別として周知の状況である。格差社会や市場万能主義が我が物顔で横行する、一方我々庶民にはこの事態を受け止める戦略点を殆ど持ち合わせていない。本書はそのような状況に投じられた一石として極めて“時代性”をおびている。
レーニンの思想の要諦は労働者の手による革命が成立する根拠の解明にある。よって著者の作業は“革命”を成就させるレーニン的“力”の発生源を突き止める事になる。
まず著者はレーニン思想の眼目は“労働者階級の自然発生的運動が労働者階級を自動的に革命運動へと結合することはなく革命に直結しない”との主張、“階級意識の外部注入論”にあったとする。
何故なら“資本制社会に於いては”各個の人間は自らの私有財産から出来るだけ多くの利益を引き出すことを行動の第一義的目的とする、この原則はブルジョア階級もプロレタリア階級も等しく当てはまる。
だから“革命による新しい世界の創造を果たすためには、いまここにある世界で流通している論理と思想的に完全に手を切らねばならない”のだと言う主張である。
つまりレーニンは“階級意識外部注入論”を取ることで社会主義運動内部における改良主義的傾向を根底的に批判したのである。
確かに下部構造(階級基盤)が上部構造(意識)を左右するという唯物史観を突き詰めれば、論理的には“革命の思想”は資本主義を支えるプロリタリアからは生まれないことになる。
筆者は“無謬の神”=“革命的インテリゲンツィア”の導きによってのみプロレタリアが“被抑圧者のトラウマ”から解放される“革命”が成就すると言うレーニンの主張に異邦人モーセによってユダヤ“一神教”がもたらされたと主張するフロイトの思想を重ね合わせる。
成る程、“外部からもたらされた一神教”これがレーニン主義の“強み”であり“弱み”と見れば良く解る。
更に筆者は“国家と革命”を解読することでレーニンの戦略の“現実性”に驚嘆する。
先鋭化する階級対立の中で、経済的支配階級は自ら武力を国家に引き渡し、国家機関を養い代理人とすることで、国家に直接階級存立根拠を依存する道を選択した。レーニンはこの現実に労働者階級の資本制論理からの脱皮の契機を見る。個々の資本家を敵として経済条件の改善を目指すのではなく、資本制社会の存立を保証する“国家”そのものを敵とすることで初めてプロレタリアは階級的団結を勝ち取ることになる(階級間での“友―敵”関係の確立)
国家にその存立基盤を委託したブルジョアジーには“弱み”がある。
公権力の具体的担い手の大部分が労働者階級やその他の勤労人民大衆にならざるを得ないのだ。
リアリスト・レーニンは国家正規軍の“寝返り”と言うか兵士の“階級的目覚め”に革命を展望する。
ここでもレーニンは現実の中に革命性を見出すのだ、資本制擁護のため創出された兵士が決定的瞬間での“武装した人民”に転化する。(特殊な力の普遍的な力への移行)
このように著者はブルジョアジーが創り上げた“国家”や“兵士”がプロレタリアの“国家”や“兵士”に転化するのだと捉えた事にレーニンの思想の“現実性”を見る。レーニンはまさに現実の中に“未来”に生成する“力”を見たのだ、その“現実性”が空想的“無政府主義”に対比されるレーニン思想の“革命性”という訳だ。
何故プロレタリア独裁は革命的な権力移行と言えるのか?この点での筆者のレーニン解読は次のようである。ブルジョアジー権力はプロレタリアの存在を前提として成り立つ“特殊な力”である。プロレタリア独裁はブルジョアジーの消滅を目指す“普遍的な力”である。そして“普遍的な力”の立ち上げは、その終局に置いて“力”そのものの消滅を意味する。かくて“階級”“国家”“軍隊”は消滅し“力関係の変動”は永遠に終わると言う。(未来の現在への侵入)
さて私の感想。
成る程理屈はそうかも知れないが、現実にプロレタリア党の独裁は“特殊な力”のまま“人民”を支配しつづけ、挙げ句の果ては“人民”によって倒された。“人民”とは何か、難しい所だが少なくとも“ブルジョアジーの反革命”では無かったようだ。しかも再建されたロシア国家も“普遍的な力”とは申せまい。
著者は解っていながら、敢えてこの事態への説明を避けたようである。
しかしこの現実を解きほぐす勇気を持たない限り、“レーニン再評価”も意味を成さず、いよいよ我が世を謳歌する新保守主義に対抗するだけの思想的拠点を持つことも出来ないのではなかろうか。