紙の本
散種される「古典」
2008/03/11 12:17
11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
『想像の共同体』は、日本でも初版、増補版が刊行されており、今回の定本は3度目の出版ということになる。帯に「ナショナリズム研究の今や新古典。」と謳われるゆえんである。増補版での加筆「人口調査、地図、博物館」・「記憶と忘却」に加え、定本では「旅と交通──『想像の共同体』の地伝について」という書き下ろし新稿が加えられることとなった。
「無名戦士の墓」や「出版資本主義」、そして「想像の共同体」といった、いまや「熟語」とすら化した感のある重要な鍵概念を多く含んだ本書の議論については周知のことであろうと思われるし、著者自身も関わったたいへん優れた入門書『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』もあることだから、ここでは本書が、抽象的な理論書なのではなく、インドネシアを対象としたエリア・スタディーズに端を発する実証的な議論でもあることに注意を喚起するに留め、加筆部分について以下に詳しくふれることにしたい。
「旅と交通」は、原著出版から四半世紀、30カ国、27言語で出版されるに至った『想像の共同体』という書物が辿った「旅=歴史」をめぐるエッセイである。執筆・出版当時の、アンダーソン当時のねらい(ターゲット)が明らかにされた上で、各地を転戦するかのように次々と翻訳・出版されていく『想像の共同体』の引き起こした反応が辿られていくのだが、それは各地の出版と情勢を同時に照らし出してもいくだろう。その上で、「地理的分布」という項では、英語の覇権を追認せざるを得ないような翻訳状況にアイロニカルに言及し、「出版社と読者」の項では、新興の左派系の出版社が多く、「教科書」として急速に受容されていったことにふれ、『想像の共同体』がヨーロッパ中心主義に対抗的な性格をもつことを確認していく。その反面、出版・翻訳を通じて、著者の企図から遠ざかっていったケースにもふれ、「ICはもはやわたしの本ではないのである。」と締めくくられる。
この結語から、日本語訳を受けとめる私たちが改めて考えさせられることの第一は、白石隆・白石さや、というアンダーソンの薫陶を受けた訳者の訳文で『想像の共同体』にふれることができているのだという、ありがたみである。第二に、今日、日本には右翼以外の──例えば、フリーターのメンタリティなど──ナショナリズムが潜在的に不気味な力を蓄えつつあり、こうした現状を考える手がかりとして、古典としての『想像の共同体』の有用性は、今後さらに増していくだろう。第三に、かつてのような紋切り型の国民国家批判はなりを潜めてはいるものの、しかし、エリア・スタディーズの養分をそれとして改めて読み取ることで、(安易な抽象論に堕することなく)この日本という国土において、かつて・いま・これから、起こるナショナルな力を可視化し、批判していくための、コンテクスチュアルでコンスタティブな思考を鍛えるため、『想像の共同体』は何度でも読み返すべき思考の光源として(再)活用していかなければならないだろう。そのことで、「旅と交通」の続きを書き綴っていくことこそが、本書にめぐりあえた読者の使命であろうし、それが果たされるならば、『想像の共同体』はアジアの日本にも「散種」(デリダ)されたことになるだろう。
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増補版で、最後に各国で翻訳された成り行きが書かれてあり、他の国はまじめにやってるのに韓国は初版時は海賊版で翻訳の質も悪く、翻訳権を得た新版の表紙がワールドカップの韓国人サポーターの派手な写真というのが個人的には出来すぎなオチだった。
メモ「ナショナリズムのほとんど病理的ともいえる性格、すなわち、ナショナリズムが他者への恐怖と憎悪に根ざしており、人種主義とあい通ずるものである、と主張するのが進歩的、コスモポリタン的知識人のあいだで(それともこれはヨーロッパの知識人に限ってのことなのだろうか)、かくも一般的となっている今日のような時代にあっては、我々はまず、国民(ネーション)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛をよび起すということを思い起こしておく必要がある。ナショナリズムの文化的産物―詩、小説、音楽、造形美術―は、この愛を、さまざまの無数の形式とスタイルによって非常にはっきりと表現している。その一方、これに相当するような恐怖と嫌悪を表現するナショナリズムの文化的産物を見出すことのいかにまれなことか。植民地化された人々においてすら、かれらには帝国主義支配者に対し憎しみをいだくあらゆる理由があるにもかかわらず、驚くべきことに、この憎しみの要素はかれらの国民的感情の表現においてまるで重要性をもたない」「国民を、歴史的宿命性、そして言語によって想像された共同体と見れば、国民は同時に開かれかつ閉ざされたものとして立ち現れる―――ひとが他者の言語に入っていくことを制限するのは、他者の言語に入っていけないからではなく、人生には限りがあるからである。こうして、すべての言語は一定のプライバシーをもつことになる」「ことの真相は、ナショナリズムが歴史的運命の言語で考えるのに対し、人種主義は、歴史の外にあって、ときの初めから限りなく続いてきた、忌まわしい交接によって伝染する永遠の汚染を夢みることにある」
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出口さんのおすすめ。
https://twitter.com/ritsumeikanapu/status/1265855725995208705?s=20
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一言で表現すると、こんな感じになる。
『想像の共同体』の中で、国民とはイメージとして描かれた想像の政治共同体であると喝破したベネディクト・アンダーソンは、出版資本主義、すなわち新聞を含めた活字印刷物の流通が、ますます多くの人々に自らについて考える機会を与え、かつ自己と他者を関係づけることを可能にしたと述べている(Anderson 1983:64)。
以下、目をひいた箇所。
国民とはイメージとして描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると(24)。
国民は1つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去2世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである(25)。
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今世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺し合ったということよりも、途方もない数の人々がみずからの命を投げ出そうとしたということにある。
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回送先:川崎市立川崎図書館
ベネディクト・アンダーソンによる名著『想像の共同体』の最新版。日本語で初めて翻訳されてから四半世紀。新しく加筆修正されたパートには旅する工程が刻まれている。韓国版ではサッカーファンの写真が使われ、東南アジアでは競うようにして出版ラッシュが相次いだということなどが刻まれている。
内容としても、94年の新版から変わってはおらず、まさしく「定本」としての位置を占めている。ナショナリズム研究の新古典は、新たな地平を切り開いてくれるだろうか。
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国民を、「限定的で主権的な想像の政治共同体」と定義し、それがいかに形成されてきたかを歴史的変遷に沿って考察している。
クレオールによる中南米の独立、フランス革命に始まるヨーロッパ民衆的ナショナリズム、それに対する応戦としての公定ナショナリズム、ナショナリズムに支えられる帝国主義とそれへの対抗としての植民地ナショナリズム。
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読了するのにかなり長い時間がかかった。松岡正剛はこれを2日ぐらいで読むのだろうが。。。
もはやナショナリズムの古典書として扱われていることに疑いの余地はないと思った。おおもとの理論などは分かりやすい。細かい部分についていえば、本当にそうかなと疑うところもちょくちょくあった。
そして、精読したとしてもかなり難しい。
でも、『想像の共同体』という言葉がかなりいろんなところで曲解されているなとはかなり思わされた。
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〔(吉本隆明の)『共同幻想論』と言っていることは同じじゃないかと思うのだが・・・・・・。〕(小谷野敦『評論家入門』075頁)
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ゼミ課題図書。
社会科学系の学生としては避けて通れない道でしたが、かなり骨折れる一冊でした。
愛国心、公定ナショナリズム、国民国家。
意識の中に創りあげられるものを紐解いていくには、まだまだ勉強不足と痛感。
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「歴史の天使」の章の結びの引用に、訳者の粋な訳注が静かに輝いている。随所に散りばめられた愛が、本著を一介の学術書にとどまらない愛すべき一冊の書物へと押し上げている。
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[ 内容 ]
国民はイメージとして心の中に想像されたものである。
国民は限られたものとして、また主権的なものとして想像される。
そして、たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる。
そして、この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである。
―ナショナリズム研究の今や新古典。
増補版(1991年)にさらに書き下し新稿「旅と交通」を加えた待望のNew Edition(2006年)。
翻訳完成。
[ 目次 ]
序
文化的根源
国民意識の起源
クレオールの先駆者たち
古い言語、新しいモデル
公定ナショナリズムと帝国主義
最後の波
愛国心と人種主義
歴史の天使
人口調査、地図、博物館
記憶と忘却
旅と記憶―『想像の共同体』の地伝について
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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国民=ネーションという概念は昔からあるかのようについ錯覚してしまう。
しかし、それこそネーションの特性なのである。国民とは多くのことを忘れたもののことである。とある作家は述べたがまさに至言である。国家というフィクションすなわち想像された共同体がいかにして、生起し発展し発揚したのかについて、アンダーソンは「均質で空虚な時間」と「出版資本主義(プリントキャピタリズム)」というキーワードを読者に提示する。前者は、暦や新聞に記される時間によってすべては、客観的といえるような時間に置き換わることによって想像を促す、つまり、ある出来事を客観的時間性の中に放り込むことによって主観的で特別なかつ神秘性を内包した体験は、万人に共有可能なものへと加工されるのである。こうした加工を施すにあたって重要になったのが暦に代表される均質で空虚な時間の観念である。後者について、出版によって、つまり読書によって同質の体験を特定の地域の人間にもたらすことができることで、交換可能な土地、交換可能な人物、交換可能な空間として、国民にプラトンのいうところのイデアでもないような想像された共通了解として同質性が担保されることになるのである。
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【要約】
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【ノート】
・「ラーメンと愛国」と佐藤優の「読書の技法」の両方に出ていた。さらに「ウェブ社会のゆくえ」でも。よほどのスタンダードなんだろう。
更には本の使い方P214でも