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- カテゴリ:一般
- 発売日:1997/10/01
- 出版社: インスクリプト
- サイズ:20cm/311p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-900997-01-3
- 国内送料無料
紙の本
国民とは何か
著者 E.ルナン (著),J.G.フィヒテ (著),J.ロマン (著),E.バリバール (著),鵜飼 哲 (著/訳),大西 雅一郎 (訳),細見 和之 (訳),上野 成利 (訳)
国民とは何か
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収録作品一覧
二つの国民概念 | ジョエル・ロマン 著 | 7−40 |
---|---|---|
国民とは何か | エルネスト・ルナン 著 | 41−64 |
ドイツ国民に告ぐ | ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ 著 | 65−201 |
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紙の本
「国家」と比べ、考察の対象にされることの少ない「国民」 。数少ない「国民論」の古典を読む。
2010/05/28 16:26
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中堅 - この投稿者のレビュー一覧を見る
エルネスト・ルナンの講演『国民とは何か』(1882)の構成は単純で、論述の長さも短い(二十数ページ)ため、論述を辿るのは容易である。ルナンは、「国民とは○○ではない(=○○ではあり得ない)」と、○○に「種族」、「語族」などの語を入れてみて、その定義が合理的、普遍的かどうかを一つ一つ検証していく。つまり、「国民」という言葉が余りに安易に用いられるために付着した固定概念を一つ一つ剥ぎとっていくのである。下記にて、この講演の流れを追ってみる。
(前提)「国家」が存在するからといって、国民があるわけではない。
「古典古代には(中略)私たちが理解する意味での国民はほとんど存在しませんでした(P.43)」。己を共同体の構成員であると自覚する精神は、近代の国民に特徴的であって古代のそれは家族の延長に過ぎない、よって「国民」は存在しなかった、とルナンはいう。
(1)国民とは同一の「種族」ではない
「ヨーロッパの最初の諸国民は本質的に混血の国民(P.55)」であったのであり、「おまえはわれわれの血族だ。おまえはわれわれに属する!(P.55)」と、言って歩く権利はない。人間を動物学の体系で暴力的に一括りにすることは否定される。
(2)国民とは同一の「語族」ではない
アメリカ合衆国とイギリスが同じ言葉を話しても異なる国であり、対照的にスイスには三つか四つの言語あっても一つの国である。「言語がちがうと(中略)同じものは愛せないとでも言うのでしょうか(P.56)」と言語学的な分割も否定される。
(3)国民とは同一の「宗教(宗派)」ではない
「国家宗教はもはや存在しない(P.59)」のであり、何を信じるかは個人に任せられているのである。それは講演当時(1882年)でも自明とされているようで、簡単に否定される。
(4)国民とは共通利害をもった集団ではない
「利害が共通なら通商条約を結べばよい(P.59)」と、乱暴に否定される。国民性とは「魂にして身体(P.59)」であり利害関係だけで国民を形成することは難しい、という論述は、後述されるルナンの国民の定義を窺わせるものである。
(5)国民とは自然境界(海・川・山)によって分割された集団ではない
「自然境界」に諸国民分割の重要な役割を認めながらも、自然境界内の「必要なものを勝手に手に入れる権利があるといえるのでしょうか(P.60)」と断じ、国家間の暴力を正当化する「恣意的で有害な学説(P.60)」としてこれを否定する。前項に引き続いて更に断定的な論述となる。それと同時に、ルナンの国民の定義が姿を現してくる。「国民を作るのは(中略)土地は土台を、闘争と労働の場を提供するもので、魂を提供するのは人間です(P.60)」。
※各項目の()括弧内の番号は、本書内の番号と同じ
上記のとおり、五段階ほどの否定の積み重ねの後、講演の題目「国民とは何か」に答えるルナンの有名な定義、
「国民の存在は日々の人民投票(un plebiscite de tous les jours)なのです(P.62)」が登場する。
……だが、この定義はそれ自体では意味が不明瞭ではないだろうか? 「AはBである」との主語-述語関係で考えると、「存在が投票である?」となって意味が通らない。前後の論述を読む必要がある。ルナンにとって国民とは「魂であり、精神的原理(P.61)」である。その魂は「過去」と「現在」の2つの要素の結合から構成される。要素の1つ「過去」は「豊かな記憶の遺産の共有(P.61)」であり「栄光と悔悟の遺産(P.61)」、「現在」は「ともに生活しようという願望(P.61)」であり、「明確に表明された共同生活を続行しようとする合意(P.62)」なのである。
つまり、有名な上記の定義を私(評者)なりに解釈すれば、「国民の存在は、生活(=実践)の中で、日々新たに生成/確認される未来へと向かう意思そのものである」、となる(日本語としては随分ぎこちない文章にはなってしまったが(苦笑))。
国家的なものにほぼ生理的な嫌悪感を示す戦後教育、また国際的なスポーツのイベントがあるたびに垣間見える隣国の熱狂的なナショナリズム(中国、韓国等)により、「国家」「愛国心」「国民」は、知的な考察対象としては敬遠されがちである。だが、このルナンの定義は、血/言葉/宗教/利害/土地、全ての「既成事実」を否定し、原初の共同体形成への「意思」を抽出してみせる。ルナンの定義に従えば、国民とは、己の過去を引き受け、未来へと向かう「意思」そのものなのであり、国民について考えることは、道徳的人間、主体的人間に必要不可欠な行為であるとも思えてくる。
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ルナンの講演についてだけの書評となってしまったが、ドイツの哲学者J・G・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』(1807-1808) が収録されているのと、ルナン、フィヒテに対する論考も3つ収められている。書評の冒頭で、ルナンの講演を「単純」だと書いたが、それは「ただ意味を追っていく分には」単純、だというだけで引っかかるところはいくらでもあり、収録された論考は、その引っかかりを捉えて「国民」の概念をさらに突き詰めようとしている。値段は張るが、良書である。