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商品説明
静寂、沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。さざめき、沸きたつ意識は、時空を往還し、生と死のあわいに浮かぶ世界の実相をうつす。言葉が用をなすその究極へ—。現代文学の達成、最新連作短篇集。【「BOOK」データベースの商品解説】
静寂、沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。さざめき、沸きたつ意識は、時空を往還し、生と死のあわいに浮かぶ世界の実相をうつす−。表題作のほか、「朝の男」「地に伏す女」「雨宿り」など全12作品を収めた連作短篇集。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
朝の男 | 7−27 | |
---|---|---|
地に伏す女 | 29−50 | |
繰越坂 | 51−73 |
著者紹介
古井 由吉
- 略歴
- 〈古井由吉〉1937年東京生まれ。東京大学独文科修士課程修了。「杳子」で芥川龍之介賞、「槿」で谷崎潤一郎賞、「白髪の唄」で毎日芸術賞など受賞多数。
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紙の本
日常にこそ宿る危機
2010/02/10 21:29
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
古井由吉は毎日新聞のインタビューに答えてこう語っている。
「一夜のうちに焼き払われる空襲なら、ささやかでも物語にはなる。戦後の経済成長による変化は日常のうちに起こったために出来事としてつかまえられない。ところが、前後では戦災と同じほどの断絶が起こった。その変わりようを切れ切れに拾っていければと」
古井の認識では先の戦争も、また経済成長に伴う変化もまた「戦争」として捉えられていて、「野川」ではその二つの戦争が大きくクローズアップされている、と以前書いたのだけれど、この認識は今作にもあてはまる。高橋源一郎は「野川」を戦争小説と評したけれど、今作もまたその意味で「戦争小説」あるいは「戦後小説」といえるだろう。
上掲のように戦争はそれ自体が明確な危機として物語にはなる。しかし、古井由吉が注目するのは、事件そのものよりは事件のあとの、落ち着きを取り戻した日常に伏流する危機のほうだ。一見、落ち着いたかに見える日常や馴れた景色のなかに、何か不穏な、崩れのきっかけを見いだす古井由吉の文体は、とてもスリリングでそして不穏な予感に彩られることになる。この、日常が危機に反転してしまう独特の認識の文体、これが古井由吉の方法だといえる。
これを古井由吉の鋭敏な感受性、といってしまえばそれまでだけれど、そこには古井のこの戦後の日本社会に対する認識がある。終わったあとにこそ危機が伏在する、という感覚は古井の死生観ともあわせて重要なものだと思う。
書評などを見ると、古井由吉の認識や死生観だとかそういうものが、やや抽象的な物として捉えられているように思う。しかし、古井由吉の独特と思える認識は、戦争と戦後、経済戦争とバブル崩壊、というような現実の「戦争」を土台として育ったものではないか。
「戦後にも、工場や学校の始業を報せるサイレンがあった。始業の時刻のだいぶ前から鳴らされ、その音の下で八方から、遅れかけた者たちが足を急かされる。近隣の住人たちから、あの戦時下の嫌な音を毎日毎日聞かされるのはかなわないと苦情が寄せられて、おいおい取り止めになった。あれは動員の音でもあった。動員はどこかで死へつながる。しかし空にサイレンの音が絶えてなくなったあとも、万事において、動員の時代は続いた。そのうちに、救急や警察や消防の車のサイレンの音からも、人の耳に徒に恐怖を掻き立てることを憚ってか、以前のサイレンに特有だった、陰惨な唸りができるかぎり抑えられた。その頃になり、アラームと称しながら警戒音の素性を隠した電子音に、人は日常、取り囲まれて暮らすようになった。警戒音とも知らず、アラームに従って行動する。アラームに促されて、やはり動員される」42-43P
先に引いたように、「戦後の経済成長による変化は日常のうちに起こったために出来事としてつかまえられない」という認識が古井にはある。であるとするなら、その日常の微細な変化をつねに見据える古井の文体が何のために必要なのかは明らかだろう。
また、日常が不穏に満たされるこの感覚は、劇的な事件や超現実的なものの出てこないホラー小説と呼べるのではないか。ホラーという観点からは収録作品中では特に「撫子遊ぶ」が幻想小説的な構成となっていて面白い。ここでは応天門の炎上とか文久年間の疫病の流行という説話的事件が、知人の父親の生前の夢と二重写しになるきわめて鮮烈な展開になっている。これは特に印象的な一篇。
紙の本
凄さについて
2008/03/11 14:51
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
やはり凄い。連作短編集と帯にあるが、これが連作だと言うならここ二十年くらい著者が書き継いでいる短編小説はすべて連作ということでいいんじゃないか、と思えるくらい、微妙に折り重なったもう何度も目にし、読んだモチーフを、手を替え品を替え、ときにはまったく変えもせず、繰り返し繰り返し語るのだった。飽くことを知らない、とでも言うのか、この粘りと言うか、濃厚な色気は、やはり凄いとしか言いようがない。衰弱や閑散とは異質の熱狂、反復としての「老いの繰り言」とさえ言ってしまいたくなる小説群である。冒頭、闇の静寂の中から浮かび上がり、響く「声」が、人称を奪われた語りを持続させ、そこに「私」が刻まれて、長篇のように受けた、と思えばすぐに人名の出る三人称に移り、二つ連なったあとで、また「私」に戻り、すると今度はその「私」に「誰か」、複数の「誰か」が語りかけ、伝聞し、想像する記述となる。モチーフは迷い道、分身、空襲、骨、など、境界を踏み外し、混交する意識が、短篇群をその意識の底の方でゆるやかにつなげて、ぼんやりとふくらんだ世界を作っている。強烈に「日本の小説を読んでいる」というある文化的な共同体のその固有の歴史を有した言語のリアリティーを感じさせられる。こういうものを読むと、ハイデガーってのはやっぱり正しかったのかもしれないなあ、という気もしてくるので厄介だ。